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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

2 四国遍路の庶民化

 江戸時代の中期、元禄年間(1688年~1704年)前後から、民衆の経済的上昇に伴い、社寺参詣界一般の発展とともに、四国遍路もまた一般庶民の参加が目立つようになり、その数は次第に増加し盛況に向かいつつあったようである。これには、遍路と関係の深い高野山僧などの積極的な宣伝活動にまつところが大であったといわれる。延宝・天和年間のころ、高野山の真念が四国の山野をめぐり、空海の霊場を踏査すること二十余回に及んだとある。ついで彼は貞享4年(1687年)、高野山の宝光院の寂本及び高野山護摩堂の洪卓らの賛助を得て、『四国邊路道指南』を出版し、広く一般に対し遍路への注意を喚起した。こうした真念たちの宣伝活動は、広く天下の人々に遍路への関心を高めさせ、四国に旅立たせる機縁の一つとなったものと思われる。さらに遍路に関する絵画や書籍が、貞享・元禄年間前後から、著しく増えるが、当時の遍路の盛行と深いかかわりがあるものであろう。特に、近松門左衛門が浄瑠璃『嵯峨天皇甘露雨』のなかで、一番から八十八番まで遍路の道行きを書いたが、これもまた、当時広く遍路を誘致するに一役を担ったと思われる(①)。