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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)諸藩の遍路対策②

 ウ 伊予諸藩の対応

 (ア)宇和島藩の場合

 遍路が歩む土佐と伊予の国境には、土佐藩の松尾坂番所(宿毛口・松尾番所)と宇和島藩の小山番所とがあった。
 天保7年(1836年)に四国遍路をした武蔵国幡羅郡中奈良村庄屋の野中彦兵衛は、小山番所の手続きについて次のように記している。「伊予国入口御番所、小山村ニ宇和島御城主御高十万石、伊達遠江守様御番所□上り切手・往来御改、其上被仰渡候趣左二 辺路道斗(ばかり)通べし、脇道ハ相成不申、当御領分日数七日限り、止宿ハ相対二而宿取、若し差支候節ハ村々庄屋へ相懸り、泊り可申候((78))」と、切手改めの上、遍路道のみを通行して7日以内に藩領内を通過するように申し渡されている。同月25日、彦兵衛はこの切手を東多田番所へ差し出して、宇和島藩領を4日で通過し、隣の大洲藩領に入っている。
 なお、元禄10年(1697年)8月の宇和島藩が東多田番所宛てに通達した「定((79))」によると、その第4項に「辺路之儀ハ其所より之手形証文を改、慥成事二候ハゝ通可申事」とあって、手形証文(切手)を検査して確かであれば遍路を通行させよと遍路の通行に関しては格段の制限を課してはいない。ただ、同じ「定」の第1項には、「番所之事、御領中江出入之者可為相改事二候、天下往還之旅人相留候事二無之候、然とも御領ハ往来之道筋と申二者無之候、若土佐国江相通由断候ハゝ道筋を承、小山樫谷之内江通り手形遣可相通事」とあって、土佐国へ行く一般の旅人の場合には、「通り手形」(通行証・切手)を番所で発行することとなっていた。前述の天保7年(1836年)の野中彦兵衛の場合をみると、遍路に切手を発行し通行日数制限を課していることから、後世になって、遍路に対しても取り締まりを厳しくしてきたとも考えられる。
 同年に遍路した、松浦武四郎もまた、「東たゞ村、村端、番所、宇和島領是限り也。此處二而出入のものを改(め)り。(中略)此領分廿一里を七日の内に通らざるものは陸ケ敷(むつかしく)(う)也。((80))」と記し、このことを裏書きしている。

 (イ)大洲藩の規制

 大洲藩領に入ると、鳥坂番所があった。この番所はもとは鳥坂峠にあったが、天保年間に久保(天保9年に鳥坂村は久保村と改称)に移動した((81))。先述の野中彦兵衛や松浦武四郎も通過したわけだが、この番所についてはその記録の中で一言も触れてない。大洲藩領には四国霊場の札所は一か所もなく、おおむね通過地点となる。そうした中で右に示すのは、安永5年(1776年)11月に藩が村役人心得として通達した書付写しの一部である((82))。それによると、領内の村々においてその筋の許可もなく勝手に遍路等の旅人に宿を提供することは、延享2年(1745年)に禁止されたことであり、重ねて禁止の旨を徹底するよう命じている。なお許可済みの遍路宿については従前通りである旨が小さな紙札に書かれて、この文書に貼り付けられているとある。

 (ウ)松山藩と道後温泉

 鴇田(ひわだ)峠を境に大洲藩領から松山藩領久万山に入る。天保14年(1843年)阿波名西郡上山村の前庄屋粟飯原権左衛門一行は、このとき通行切手を与えられている((83))。これによると、久万山の通過には、遍路道のほか脇道に入らないこと(「不可入、入るべからず」の記入を欠く)と5日の日数制限を受けていることが分かる。同様の切手としては、年未詳のものだが、『愛媛県近世地方史料2 松山領野間郡県村庄屋越智家史料』にも収録されている。なお、この切手を発行した改所については、『海南四州紀行』の一節に、「坂ヲ越テ二名二至り出店、即チ改役所ヲ兼ヌ((84))」とあり、松山藩領に入る手前の浮穴郡二名村に改役所があったと記されている。文化元年(1804年)の記事であるが、ここのことであろうか。なお、久万山とは、現在の久万高原一帯を指し、古くは久万郷ともいい、大半は松山藩領であるが、一部の二名村などは大洲藩領であった。
 三(見)坂峠を越えて松山城下に近づく。松山藩と遍路で特記すべきことは、道後温泉のことである。古来から天下に知られる道後入湯は、遍路紀行記で必ずといっていいほど記事となっている。これは遍路にとって魅力ある大きな楽しみであったと考えられる。また、道後温泉には古くから遍路などには特別の待遇の定めがあった((85))。この優遇措置もあってか、道後温泉郷に止宿していく遍路の数は、古今を問わず相当数にのぼったものと思われる。
 元禄15年(1702年)編集の『玉の石』(道後最古の観光案内書、著者は僧曇海)には、「四国遍路、七ヵ所参、三十三番じゅんれい、同行幾人にても勝手次第一宿するなり」とあり、四国遍路や七ヵ所参り、松山西国巡礼の人々が当時、道後で自由に一宿できたことがうかがえる。遍路が優遇されたことについては、『伊予道後温泉略案内』(宝暦から明和年間〈1751~72年〉出版)には、遍路は3日間は湯銭いらずとあることからも分かる。元禄5年(1692年)の松山城下某の『四国遍路日記』にも「遍路ハ三日でゆせんをとらず」とあって、江戸時代中期までは、四国遍路は3日までの湯銭が免除されていた。しかし、これを越えての湯治については「一まわり」(6日か)24文、燈明銭(とうみょうせん)12文を支払わねばならない規定であったと思われる。
 ところが、幕末になってくると、この遍路に対する慣行にも変化があらわれてくる。安政2年(1855年)明王院公布の定書によると、四国遍路や通りかかりの者は3日間に限って止宿湯治を許可、また遍路のほか身なりのよろしからざる者や病気の者は養生湯に限っての入浴を許すことなどが慣行的に定められてくるのである。それは、四国遍路自体の質的変化、すなわち、職業的遍路や故郷のムラを追われる形で死出の旅路をたどる病気遍路の頻出と無関係ではあり得ないであろう。また一方においては、本来的な湯治客保護施策ともかかわってのものであったと考えられる。さらには、このころから温泉街における湯治宿と遍路宿の弁別も明確となり、遍路が一般旅館に宿泊することは困難になっていったと思われる。
 さらに、幕末の世情騒然の時期に入ると、松山藩では、次のように遍路をはじめとして旅人について警戒を強めていく((86))。文久2年(1862年)には、郡方への取り締まり心得の中で、「遍路体慥成(たしかなる)者一宿致させ候共、村役人江申届取計可申」と遍路で確かな者には一宿を与えてよいが必ず届け出するよう指示するほか、城下への人々の立ち入りについても規制を強化している。また、同年5月の布告では、他所(たしょ)者の長逗留(ながとうりゅう)を取り締まることに加え、遍路の取り扱いについては、「古来より御免之遍路道ハ遍路者止宿之儀、前々御法も有之候儀二付、猥ケ間敷(みだりがましき)儀無之様可致事」と前々からの法を守るように求め、さらに同年6月には、「商人并遍路物真似師風之者共、猥二御城下徘徊為致(いたさせ)間敷候」と城下の徘徊(はいかい)を禁じたほか、「無宿并札取二無之遍路乞食之類者、直二追払可申事」と、順拝納札をしない遍路風の乞食などを追い払うよう厳しく命じている。
 次に遍路送りのことは、江戸時代の庄屋文書などに記録が残っているので、その様子はある程度知られる((87))。すなわち病人遍路があると、村から夫役賃を出して村送りをしていたのである。
 今治市国分(今治藩領)の加藤家記録によれば、宝暦9年(1759年)の「村方定書」に「一、遍路送者夫定之事 七歩上神宮村 桜井村」とある。これは今治市上神宮から同市桜井までの遍路送りの夫役賃が七歩役ということである。また、松山藩領野間郡県村(今治市阿方)庄屋越智家史料には、天明4年(1784年)の「県村諸役定法帳」に「病人遍路村々並他郡より送出継立村々定法」があり、遍路送りの夫役賃が規定され、また同文書には、「病人遍路小屋掛」、「病気遍路小屋掛作料」、「病気遍路米飯代」などの記事があって、村が病気の遍路のために小屋を建て、食事を与えていたことがわかる。

 (エ)小松藩と会所日記

 一地域参詣の全容を長期にわたり示す典型的な例証に、伊予小松藩領1万石の『会所日記』がある。同藩は領内農村16か村、享保17年の人口が11,200人、推定戸数が2,570戸前後である。
 新城常三氏は、この『会所日記』のうち、寛保2年(1742年)から文久2年(1862年)までの40年間にわたる遠隔参詣の状況を明らかにして、村別にその参詣の全部を掲出したうえで、諸種参詣との比較、参詣の季節、年ごとの参詣量の増減とその理由の推測など、詳細な分析を行っている。その概要を示すと次のようである((88))。
 伊予小松藩領全体では、40年間の遠隔参詣者総数は5,593人以上となり、その内訳は、伊勢参宮1,700人以上、四国遍路1,925人以上、厳島参詣1,835人以上の三者で大半を占め、そのほかは格段に少ない。その人数には年ごとに較差があるが、最低の20名(天明7年)から最高273名(文化9年)の間にあって、年平均140名となり、1村平均では9名弱となる。
 まず、金毘羅(こんぴら)参りについて、『会所日記』には農民の名は全く見当たらなくて、金毘羅参りの申請は、ことごとく武士・庄屋等に限定されている。この事実は一般農民には、金毘羅が近接地であるため、手続きを要しなかったということで、実際はかなりの数字に上ったと思われる。伊勢参宮については、天保5年(1834年)・嘉永4年(1851年)の減少が凶作によるものとすると、減少は、幕末嘉永5年(1852年)以後である。それに対して厳島参りの減少率はそれよりも若干低い。さらに四国遍路になるとほとんど変化なく、宝暦ころよりむしろ微増している。遠隔の旅ほど農村不況の影響をこうむりやすかったのであろう。この後、万延元年(1860年)に至って『会所日記』には、一人の参宮・遍路・厳島参りも見当たらない。これはなぜであろうか。おそらく厳しい農村荒廃に対処して、藩当局が参詣防止策を採るに至ったためであろうという。
 次に参詣の時期については、宝暦の末(1764年)までは、参宮・遍路ともに田植え後が断然優勢である。ところが明和以降、天保の初め(1830年)までは、年初めと田植え後がほぼ伯仲し、それ以降幕末までは、大半が年初に旅立つようになる。このように田植え後から年初めへと季節的に明瞭な変化が見られるが、その原因は明らかでない。
 さらに、農民の参詣には農閑期に集中し、農繁期に激減するという季節的特徴のほかに、年による数の増減が考えられる。凶作等の場合に、領民の参詣統制を強化し、時にこれを全面的に禁止するのは、領主として当然の処置である。享保17年(1732年)、伊予は飢饉(ききん)による被害のもっとも甚だしい国であるが、伊予小松藩でも例に漏れず、わずか1万石、16か村から飢人989人を出す惨状であった。『会所日記』の享保17年(1732年)及び翌18年には、遠隔参詣者として一人の記載もなく、同21年に至ってようやく一人を記載するに過ぎないのは、この凶作対策との関連と考えるべきであろう。また天保4年(1833年)は不作で米価が高騰したためか、翌年参詣総数77名と例年になく少なく、とくに参宮17名との激減が注目される。さらに嘉永4年(1851年)には、参詣総数46名、そのうち伊勢参宮は6名と、40年間で欠月のない記録としては最低値を示している。これは前年来の凶作によるものであることは疑いない。これに対して、文化9年(1812年)には例年の150~160名を超え、一躍270余名を数えるが、前年の豊作に起因するものと考えられる。
 このように庶民とくに耕作農民を中心とする近世の参詣はたえず、作物の豊凶・農村の景況に強く左右され、そのために較差が生じたのであるという。