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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)近代化の進展と遍路②

   c.鉄道と汽船

 日本における最初の鉄道は、明治5年(1872年)に政府の手で東京新橋-横浜間が開通したことに始まる。その後四国においては、愛媛県では伊予鉄道が明治19年に、香川県では讃岐鉄道が明治21年に、それぞれ運行認可を受けて営業を開始した(㉚)。中務(中司)茂兵衛も遍路の途中、西讃岐の札所をまわる際には鉄道をよく利用しており、明治42年(1909年)の日記の中には「二十二銭気車」、「十六銭気車代」といった記述が出てくる(㉛)。
 その後、鉄道が増設されるにつれ、順次遍路たちによって利用されるようになった。昭和3年(1928年)の愛媛県を例にとれば、四十一番龍光寺に詣(もう)でるために宇和島鉄道で宇和島駅から務田駅まで行き、四十四番大宝寺に行くために大洲駅から内子駅までを愛媛鉄道に乗るといった具合である(㉜)。また特殊な例として、鉄道敷設のために札所が移動させられたこともある。予讃本線の高松-松山間がつながったのが昭和2年だが、伊予小松駅建設の工事に伴い、もともと一宮神社の近くにあった六十二番宝寿寺を大正11年(1922年)に強制的に移転させたのである。これには、さすがに近代交通礼賛者の島浪男も、「鐵道といふこの二十世紀の怪物は何といふいたづら者だ。」と嘆息している(㉝)。
 札所に詣でる遍路の便宜を図るためのケーブルカーの開通は、昭和3年の八十四番屋島寺の登山道が最初であり、続いて隣の八十五番八栗寺の登山道にも敷設された。昭和9年発行の遍路案内書によると、屋島寺の紹介欄に「屋島ケーブル 上り二十五銭・下り十五銭・往復三十五銭」、八栗寺の紹介欄に「八栗ケーブル 上り二十銭・下り十銭・往復二十五銭」とある(㉞)。
 汽船については、その大型化、高速化、便数の増加が、四国島外からの遍路の増加を促す一つの要因になったと推測できる。四国へ渡る航路として戦前までの遍路が一般的に利用したのは、大阪方面から撫養(むや)・小松島への航路、岡山方面から多度津・丸亀への航路、広島方面から今治への航路、九州から三津浜(高浜)・八幡浜への航路といったところである。東日本や近畿地方からの遍路の大多数は、大阪港から乗船したようである。昭和6年(1931年)の安田寛明の案内書でも、東京から出発して大阪梅田駅に着いたら大阪築港まで行き、そこから徳島方面にわたるように指示している(㉟)。昭和9年発行の『四國靈蹟寫眞大歡』に阿波国共同汽船と摂陽(せつよう)商船が宣伝広告を出しているが、それによると、大阪の天保山港を午後10時に出て小松島港(写真2-1-17)に午前5時40分に着く便は、1,500tを超す当時としては大型船を用いて所要時間は7時間40分、大阪築港を午後9時に出て徳島港に午前5時30分に着く便は、400t弱の船で所要時間は8時間30分である。料金については、大阪-徳島間の片道料金が最上等で4円50銭、最下等で1円となっている(㊱)。

   d.宮尾しげをの遍路行

 近代化の進展の中で、遅ればせながら四国においても交通機関の整備がなされ、それが徐々に遍路行の中で利用されるようになる様子を見てきた。その事例として星野英紀氏は、馬車・乗合自動車・ハイヤー・汽車・汽船など様々な乗り物を用いた昭和7年(1932年)の宮尾しげをの遍路行を展開図としてまとめた。ハイヤーでほとんどの行程を巡るような特別な遍路はともかくとして、彼の遍路行は、経済的にやや余裕のある一般人が昭和初期において行うことのできた迅速な遍路行の限界といえるのではないか。すべて歩くと40日以上かかるといわれる全行程を20日間で回っているが、それでも星野氏は「現代の感覚からいえば宮尾はよく歩いているといえるかもしれない。(㊳)」と評している。

  (イ)郵便の利用

 近代郵便制度は、明治4年(1871年)に発足して以来、急速に全国に普及した。電話のほとんどない時代、四国内を絶えず移動する遍路にとって郵便は大変便利なものだったろう。遍路体験記・案内記の中にも、しばしば郵便についての記述が見出される。
 例えばある案内記では、「郵便・書留・小包は予め札所を定めて差出し、必ず寺で処理すること、納経所にハガキは掲示し、信書(てがみ)、小包は告知してあるから見落さぬ様注意を要する。(㊴)」、あるいは、「八十八ヶ所の寺々の納経所には、必ず大きな郵便差しが作られてゐる。箱になってゐるものもあれば、掲示板風にしてあるのも見る。そこには、けふは何番の札所を巡つてゐるか定かならぬ遍路にあてた寺氣付の郵便物が、やがて訪れるであらうその主を人待顔に待ち侘びてゐるのである。(㊵)」などとあり、各札所が遍路のために郵便物の受け取りを代行していたことがわかる。
 こういった郵便物は、定期で郵便物を運ぶ乗合自動車により運ばれた。この自動車には人も乗ることができたが郵便物と相乗りで、町に着くと必ず郵便局に寄るので時間がかかったという(㊶)。すでに四国内の多くの町に郵便局はあり、高知県の野根(東洋町)から佐喜浜(室戸市)にかけてのいわゆる「飛石跳石ゴロゴロ石」の海岸では、ゴロゴロ石(写真2-1-18)を持ち帰って火で焼き、温かいうちにそれを抱くと腹の病気が治るという言い伝えがあるため、このあたりの郵便局では遍路が持ち込んだ石の小包で局の土間が一杯になっていた、というエピソードが残っている(㊷)。
 遍路にとって、郵便局が役立ったもう一つの理由がある。案内記の次のような文章に注目したい。
 「郵便局へ貯金して旅先どこででも、自分が欲しいと思ふ時受け取り得らるべきよふ、出立前三週間位前に局へ貯金通帳を差出し手續を経て、其通帳を持參することにせば便利ならん又受取る時に必要の判も忘れてはなりませぬ此外は又正金を郵便小為替に組んでおいて其為替證を持參することにしても良いと思ふ。(㊸)」これは一部の裕福な遍路に限られていたかもしれないが、案内記の書かれた昭和6年(1931年)の時点で、すでにこういったことが可能だったのである。

 (ウ)遍路の服装

 戦前までの遍路の服装は現在のような白衣だけでなく、一国参りや七ヶ寺参りなどの遍路は紺系統を中心とする和服も多かった。さらに手甲・脚絆を身につけ、荷物を背負う笈は自分の家で作って、それに着替えや弁当などを入れた。札挟みや納札も大体は自家製だった。男は和服のすそを短くして、時代劇に出てくる旅姿のような格好で廻(まわ)る者も大勢いたという(㊹)。
 そういう中でも、近代的な服装をした遍路がぼつぼつ現れ始める。例えば昭和3年(1928年)の島浪男の遍路の服装は、1回目は背広、2回目からはクレバネット地で仕立てた旅行服、3枚底の頑丈な靴、小型のリュックサックという出で立ちで、さらに3回目になると竹製の登山杖が加わり、自らを「モダーン遍路姿」と称している(㊺)。
 香川県高松市で漫画家・風俗研究家として活躍した荒井とみ三の観察によれば、すでに戦前の段階で、「乗合バスや、トラックが疾駆する國道のアスファルトの上は、草鞋でびたびたと歩くよりは地下足袋の方が歩きよいので、最近は遍路も地下足袋や運動靴を履く様になった。從つて、服装も白衣から國防色の團服に、財念袋が學生カバンに、負行李がリュックサックと次第に輕快な姿となりつゝある。(㊻)」ということである。
 また彼は、当時としても珍しい服装の遍路姿として、次のような遍路を紹介している。
 まずは、洋装の娘遍路である。運動帽の下に白い麻のハンカチの日除けをして、緑色のセーターにリュックサックを背負った姿であり、用具としては遍路用の金剛杖と札箱、財念袋などを持っている(㊽)。続いては、制服の遍路である。経木帽子にサージのセーラー服、足にはズックの運動靴といういでたちの田舎の女学生型の娘遍路だが、背中の笈摺が不調和ながら巡礼の約束にしたがっている。この娘遍路に対するお接待はなかなか多かったそうである(㊿)。

写真2-1-17 小松島港の浅橋

写真2-1-17 小松島港の浅橋

関西方面と結ぶ航路が沖洲(徳島市)に移されたので、現在、浅橋はフェンスで遮断されている。かつて本州からの多くの遍路でにぎわった面影はない。平成12年11月撮影

写真2-1-18 ゴロゴロ石の集積した海岸

写真2-1-18 ゴロゴロ石の集積した海岸

高知県東洋町。平成12年12月撮影