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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)四国遍路にかかわる後半生①

 ア 四国遍路21回

 仏海が15歳で諸国修行の旅に出て以来、四国とかかわったのは、『仏海叟伝』によると次のようになる。32歳より2年間の三角寺における千体地蔵彫像、36歳に大島での百体地蔵彫像、40歳で故郷に帰って作善に没頭したこと、そして31歳の時に、廻国修行の中で「四国二渡り、八十八箇ノ霊窟ヲハイシ」たことである。そうなると40歳で故郷に帰るまでに一度だけ四国遍路をしていることになる。
 鶴村氏は、「佐喜浜(高知県)の郷土史家、寺田省三氏の大正六年頃県に提出された仏海庵の調査書類によれば仏海上人は四国霊場遍路を二十四回もしたとあり(⑯)」との仏海が24回の四国遍路をしたという報告書を紹介している。『佐喜浜郷土史』の「仏海庵」の項でも、「四国八十八ヶ所巡拝も二十四回に及び、地蔵尊像彫刻三千体に達した。(⑰)」と記されているが、寺田氏のものを踏襲したのであろう。
 仏海の四国遍路について喜代吉氏は、仏海庵(土佐入木村)に残されている版木で、「願主 高野山佛海」とある、宝暦5年(1755年)の「勧進文」を取り上げて、「簡単な一枚刷りですが、記してあることは、
   1.四国巡拝、二十一度
   2.飛び石に接待所建立
   3.廻国遍路回向(えこう)
のことがらです。もちろんこれらは寄付金(接待料)を勧進するについて述べられた記事です。これによれば、宝暦5年(1755年)までに既に四国巡拝を二十一度しておられます。(⑱)」と述べ、さらに次のように記している。 

   寛延3年(1750年)の2月に善光寺三尊の如来を開眼供養して、その後西国霊場の開創も翌年の宝暦元年(1751年)
  には完成していたようです。仏海さんの性格からして、この西国霊場の開創が成就するや、ただちに四国遍路へ旅立たれ
  たのではないでしょうか。とすれば宝暦2年・3年・4年の3年間で四国巡拝ニ十度を成就されています。当時の遍路道
  は大変な難路だったことでしょうが、四十過ぎの仏海上人にとって年に6、7度の巡拝はさほど難行苦行というものでは
  無かったでしょう。しかしこの3年間における見聞(四国辺地の遍路事情)は、仏海さんの後半生を土佐の辺地へと方向
  ずけたようです(⑲)。

 わずか3年ほどで20回もの四国遍路を成し遂げた仏海は、その四国遍路実体験を通して、遍路人の最も難渋する場所への地蔵道標造立と接待庵の設置によって、遍路人の難儀を救おうとした。そうした思いが結実する四国遍路21回であったというのであろう。
 ここでは仏海の四国遍路21回としたが、宝暦5年(1755年)正月、仏海46歳の時点での回数である。仏海が入定したのが明和6年(1769年)、60歳の時であり、その間の15年間に四国遍路を行ったかどうかは不明である。また高知県佐喜浜の寺田省三氏が、仏海の遍路成就を24回とした報告は何に基づくものか今のところ不明である。

 イ 地蔵尊像の建立

 真野俊和氏は、室戸岬と足摺岬は、「観音菩薩のいます島・補陀洛浄土を望む霊場として多くの聖たちが活躍する場であった。(⑳)」と書いている。日本国中廻国を成就した修行僧仏海の四国遍路に関する足跡は、この両岬をにらんだ地点に残されている。
 喜代吉氏は、願主仏海の地蔵尊石像が7基残されており、その内5基が地蔵道標となっていることを紹介している(㉑)。2基が足摺方面にあり、残りの5基が室戸方面にある。足摺方面の1基は以布利(現土佐清水市)にある道標で、足摺へ3里5丁と刻まれているが建立年代の部分が欠けているそうである(㉒)。もう1基は三十九番延光寺に建てられている供養地蔵尊で、表の面に「奉供養四国修行十五度諸願成就所 願主木食佛海」と刻まれているという。これは年代を刻んでいないが、遍路に没頭していた時期で、宝暦4年の初めか同3年の末と考えられると述べている(㉓)。
 また、この場所になぜ地蔵尊像を建立したかについて、喜代吉氏は、「あしずり道」の終点である延光寺(土佐路・修行の道の最後の寺)という場所に意味が隠されていると推測し、真念法師の存在に注目しているのである。仏海は高野山の僧であり、四国遍路の先輩としての真念法師の存在が大きく仏海上人の心に印象づけられていた。足摺手前7里に開設した「真念庵」があり、仏海もこの真念に傾倒していたと思われる。だから、当初は真念庵のある「足ずりへの道」に意を注いでいたようだということになる。そして先ほどの足摺3里余の以布利にある地蔵道標もこれと関連があるのではないかと推測している。これが、「あしずり道」の終点である「延光寺」に、15度巡拝成就の記念としての地蔵尊像を建立した理由だというのである(㉔)。では、なぜあしずり道ではなく、(飛石を含む)室戸への道筋に、地蔵道標を建て仏海庵を設置し、遍路への接待を始めたのであろうか。それについて喜代吉氏は「これは『室戸への道』と『あしずりへの道』とを較べてみれば、やはり室戸への道の方が厳しかったからでは無いでしょうか。札所間の距離でいうならば足摺(金剛福寺)が遠いのですが、人気(ひとけ)の少ないことと、道が難儀である点においては室戸道の方が厳しかったのではと思われます。(㉕)」と述べている。その室戸への道については、仏海死後30年ころに出されたという(㉖)『四国遍礼名所図会』には、「藤越坂、是より先ヶ浜迄四里の間、飛石・はね石と云四国第壱難所也。右手ハ大山にして樹木茂り、左手ハ漫々たる南海際(かぎり)なし。道磯辺の大岩の上をつたひ、難所いはんかたなし。(㉗)」と記されている。また、澄禅は『四国遍路日記(㉘)』の中でさらに詳しく述べている。この2著の間には150年ほどの隔たりがあるが、難所であることには、さしたる変化も無いようである。まりほどの石を並べたような飛石・はね石で、道も無い所。3里ばかりは宿も無く、人間の通ることのできる道ではないと言い、さらに行くと6・7里の間は米穀の類は無く、食料を用意しておかないと通過できない所である。その難所の様は、言うべき言葉も無いと記されている。
 仏海はこのような地に地蔵道標を建て、接待庵を設置しようとしたのである。鶴村氏は道しるべとなる3基の地蔵道標を紹介し、難渋の場所や迷路になる地点に建てられたことを指摘するとともに、「旅人の難儀を救うためにもへんろ道しるべを建てたり休息所として仏海庵を建立されたものであろう(㉙)」と述べている。
 喜代吉氏も、この難所と地蔵道標については、東洋町(高知県安芸郡)から佐喜浜町(室戸市)に至る地図を添えて、東洋町野根、淀ヶ磯、水尻海岸、佐喜浜津呂にある4基の地蔵道標(写真3-1-8)と仏海庵前の地蔵尊像の位置を示し、それぞれに刻まれた刻字を読みとって整理している。そしてこれらは「摂待庵の勧進文が出された宝暦5年(1755年)前後(㉚)」に建てられたものと推測している。
 喜代吉氏が示した仏海の道標によると、地蔵道標と言われる通り、すべて中央に地蔵尊像が刻まれている。これは他の人の道標にはない特徴であろう。それは単なる道標ではなく、仏海の地蔵仏信仰の証でもあり、同時に遍路人が地蔵仏に巡り合うことで、苦行の救いともなり、その難所を無事通り抜け、四国遍路成就することを願ってのものであろうか。

 ウ 仏海庵

 仏海庵は今も入木の人々に大切に守られているという。その仏海庵について鶴村氏は、「仏海庵の建物は十数年前に再建されているが当時のままを修理しており間口2.5間奥行2間位の小さなお堂である(㉛)」と記し、本尊や堂内に安置された物、周辺の接待供養塔や宝証印塔その他の様子などについて丹念に記した後、「仏海のいた宝暦頃の四国遍路は月に六千から九千にのぼるといわれている(㉜)。当時の旅の様子を見ると民家などは厳しい法によって一泊以上これらの遍路を泊めてはいけないとあり多くの遍路が野宿したりして苦しい旅を続けており仏海庵は実に救いの宿であった。(㉝)」と述べている。
 さらに鶴村氏は、土佐藩士楠瀬大枝の旅日記(天保4年〔1833年〕)『燧袋』の一文を紹介している(㉞)。それによると、文中の「讃州」は、与州(伊予)の間違いであるが、「辺路の往来難儀なるをあわれ」んで仏海庵を建てたと当時から言われていること、東寺との関係で安勝寺の住職となり、その再建をなしたことなど、仏海の作善について述べるとともに、仏海入定後の霊威に感じて参詣者の多かったことが記されている。
 またこの仏海庵(写真3-1-9)は、「当時は飛石庵と称していたお堂(㉟)」で、その設置については、木造の地蔵菩薩座像である本尊の軀内の木板に、「奉再興地蔵大菩薩、天下泰平、国土安全、宝暦十一巳六月十二日入仏道十四日開眼供養也と種字、宮方御作也再興仏師摂州大坂住、田中主人(主水)、願主仏海高野山金剛峰寺僊海、木食仏海」とあり、「(ご本尊は)お堂の建立と同時に作られたものだろう」と鶴村氏は書いている(㊱)。これによると仏海庵は宝暦11年(1761年)建立ということになる。
 これに対して、喜代吉氏は、「奉再興地蔵大菩薩」「再興仏師摂州大坂住田中主人」と記された「再興」に注目して、「仏師田中主水が修復したものを新しく迎えて本尊としている。(中略)この時点で接待所仏海庵が建立(再建?)されたことがわかる(㊲)」と述べて、宝暦11年の建立は再建の可能性もあると指摘している。
 また、仏海がいつころ入木に住むようになったのかについても明白ではない。鶴村氏は、「仏海上人がここへ来たのは宝暦4年(1754年)頃のことと思われる(㊳)」と記し、「仏海の入木での滞在は10年から15年間くらいの間とも推定される(㊴)」とも述べている。
 これに対して、喜代吉氏は、『四国遍礼名所図会』の中に「仏海上人草庵の古跡岩ノ小坂有、此上に石跡有。是より砂道行、小川わたり松原行、入木(いるぎ)村仏海庵右手に有、常接待、本尊大師、仏海上人石塔庵ノ西二有(㊵)」の記述があることから、「仏海上人草庵」と「入木村仏海庵」とは別の場所にあったとし、仏海は先ず、仏海上人草庵に住み、その後に入木村仏海庵に住むようになったと想定しているが、仏海上人が古草庵から入木に移った時期は、はっきりとしないとしている。ただ、宝暦10年に入木の庵(仏海庵)に接待供養の地蔵尊を建立していることが指摘されている(㊶)。また、仏海上人草庵の所在地については、現在の佐喜浜入木より北の「水尻仏ヶ崎」辺りではないかと想定している(㊷)。

写真3-1-8 仏海の地蔵道標

写真3-1-8 仏海の地蔵道標

東洋町野根大橋近くの地蔵堂に安置されている。地蔵堂へ向かって右側に「左へんろうみち」左側に「□きのはまへ四り 願主木食沸海」と刻まれている。平成13年2月撮影

写真3-1-9 仏海庵

写真3-1-9 仏海庵

室戸市佐喜浜入木。平成12年12月撮影