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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)十返舎一九-四国遍路の滑稽本-

 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)(1765年~1831年)は、江戸後期の庶民文化爛(らん)熟期に、滑稽(こっけい)本『方言修行金草鞋(かねのわらじ)』(以下『金草鞋』と略す)第14編で四国遍路を題材にした道中記を著した。これが好評であったため、第15編では、東都八十八ヶ所巡りの記をものしている。ここでは一九が滑稽本に描いた四国遍路の姿を探った。

 ア 十返舎一九と『方言修行金草鞋』前後

 一九は、駿河の国(現静岡県)の下級武士の二男として生まれたが、23歳で大坂に出て武士を辞め、浄瑠璃作家となった。 30歳で江戸に出て蔦屋重三郎の耕書堂に居候をし、黄表紙を書き続ける。その後『(東海)道中膝栗毛』を著すが蔦屋に出版を断られたので、自分で挿絵を描き、他の店から享和2年(1802年)に初編を刊行し、その後文化6年(1806年)まで続刊した(①)。
 これについては、「この作品の人気は相当なもので、一挙に一九の名を高くし、滑稽本のジャンルを確立した。この人気によって、東海道の旅が終っても、続編を執筆することになり、金毘羅、宮嶋、木曾、草津などの旅を描く事になった。また、このアイデアを真似て、模倣する作品も現れるようになった。(②)」といわれる。
 『愛媛県史 文学』には、「文政4年(1821年)には合巻『方言修行金の草鞋』の第14編『四国遍路旅案内』が出版されている。『金の草鞋』は奥州の住人で僧侶の筑羅坊と狂歌師の鼻毛延高が、江戸から関東一円、北陸、京阪を経て、宮島、四国、長崎に至る道中記で、文化10年(1813年)刊の初編から天保5年(1834年)刊の25編に及ぶ長大なものである。未曾有の大当たりをとった『東海道中膝栗毛』の余勢をかって出したもので、二人が滑稽や洒落をつくして狂歌旅行を展開していく内容は滑稽本といってよい。それを挿絵を中心に描いて草双紙に仕立てたもの(③)」とある。
 中村幸彦氏は、一九の活躍した時代は一般大衆読者が増加し、それも「戯作を読む層が都鄙共に拡大していった。一九の読者層は、実にその新しい大きな読者層(④)」であったと指摘している。水野稔氏は、この時代の読者はうぶな青春の文学というようなものを求めたが、一九は、そういう「大衆を相手とする新しいジャンルに自己の本領を見出した。(⑤)」と指摘している。また、水野氏は、一九の作品は「旅の世界に、屈託のない解き放たれた笑いの対象として、新しい人間像の主人公をつくり出したところに、やはり当時の一般大衆の希求に応じた新鮮なもの(⑥)」があったと指摘している。

 イ 『金草鞋』にみる四国遍路

 『金草鞋』では、秩父巡礼、西国巡礼なども旅してきているので、第14編緒詞には、まず冒頭に弘法大師の遺業を示し、四国遍路の目的を「先祖亡霊(せんぞぼうれい)の跡(あと)を吊(とむら)ひ、我現世未来(わがげんせみらい)の、洪福(こうふく)を祈(いの)るの結構(けっこう)なり(⑦)」と簡述している。これについて、新城常三氏は、「(一)先祖の菩提・供養、(二)自身の来世の成仏、(三)自身の現世利益の三者が、遍路の祈願し、目的とするところであるとしているが、だいたい言い尽くしたものといえよう。(⑧)」と指摘している。緒詞は続けて、「予先年豫州道後(よせんねんよしうだうご)の湯(ゆ)に赴(おもむ)きし時(とき)、幸(さいは)ひに所用(しよよう)ありて、土佐(とさ)の高知(かうち)に至(いた)り、それより阿波(あは)の徳島(とくしま)に出(いで)、紀州(きしう)に渡(わた)り大阪(おおさか)に歸(かへ)りしことありしに、其時大師(そのときだいし)の霊塲(れいぢやう)、道路(だうろ)の最寄(もより)よき處は參詣(さんけい)して、今(いま)にこれを想像(さうざう)せり(⑨)」と記し、「先年道後温泉を訪れて高知・徳島を遊覧した折に主な霊場はすべて参詣しているので、出版の求めに応じて遍路紀行を著した。(⑩)」と執筆の動機や執筆に至る経緯を記している。
 遍路行については、案内記をも意図したかのように、「先(ま)づ大阪(おほさか)より舟渡(ふなわた)りするに、阿州徳島(あしうとくしま)に着(つき)て、第(だい)一番霊山寺(ばんりやうざんじ)より札打(ふだうち)そむるは順道(じゅんだう)なれども、讚州丸龜(さんしうまるがめ)より宇多津道塲寺(うたつだうぢやうじ)を打初(うちぞめ)とする人多(ひとおほ)し、東国(とうごく)より遍路(へんろ)の人(ひと)、みな丸龜(まるがめ)に至(いた)るゆゑ、此草紙(このさうし)も其(その)おもむきを著(あらは)すもの(⑪)」であるとして、この『金草鞋』は丸亀を出発点に、八十八番大窪寺からは一番霊山寺に回り、順打ちの道順をたどっている。
 また、案内記らしく大坂から阿州徳島に上陸した場合、大坂から讃州丸亀に上陸した場合の順路の例を紹介しているが、また、「靈山寺(りやうざんじ)より打初(うちはじめ)るは、大師御順行(だいしごじゆんぎやう)の次第(しだい)といひつたふのみ(⑫)」と巡拝経路にこだわらぬ姿勢を見せている。
 その他、四国遍路に出るに当たっての心得(一例、「札(ふだ)はさみのかけやう、順(じゅん)に巡(めぐ)る時(とき)は、字頭(じがしら)を左(ひだり)にし、逆(ぎゃく)の時(とき)は右(みぎ)にかくると心得(こころえ)べし(⑬)」)や手形・切手等の手続きの方法や大坂からの船賃なども記し、滑稽な道中記であるとともに、案内記をも意図していることが分かる。
 この『金草鞋』第14編の体裁は、以下の例文に示すように、札所に至る経路や札所の紹介(山号・札所番号・寺名・本尊・御詠歌など)がなされた後、狂歌が詠まれ、往来の人をも巻き込んだ会話本での卑俗な滑稽話を織り込む構成でほぼ全編が貫かれている。

   年々出版(としどししゆつばん)の金(かね)の草鞋(わらじ)、お馴染(なじみ)の千久良坊延高(ちくらぼうのぶたか)、今年
  (ことし)は四國遍路(こくへんろ)と志(こころざ)して、遥々大阪(はるばるおほさか)に上(のぼ)り、こゝより舟(ふね)に打
  (う)ち乗(の)り、はやくも讚州丸龜(さんしうまるがめ)に至(いた)りけるに、御城(おしろ)は小高(こたか)き山(やま)の上
  (うへ)へ、白々(しろじろ)と見(み)へ渡(わた)り、其景色謂(そのけしきいは)ん方(かた)なく、町並(まちなみ)も繁華(はん
  くわ)にして、旅籠屋(はたごや)なども綺麗(きれい)なれば、まづこゝに宿(やど)をとりて。
   (狂)猿(さる)となる佐次兵衛(さじべゑ)ならで我々(われわれ)もまたはぢかゝん四国記行(こくみちのき)(中略)
  遍路(へんろ)の人(ひと)、丸龜(まるがめ)にて切手(きつて)を貰(もら)ひて、宿(やど)を立(た)ち出(い)で、ときは川(がは)
  といふを過(す)ぎて行(ゆ)く、此(こ)の處(ところ)は西(にし)は丸龜(まるがめ)の御領分(ごりやうぶん)、東(ひがし)は高
  松(たかまつ)の御領分(ごりやうぶん)なり、それより海端(うみばた)を遥(はる)かに行(ゆ)きて、うだつの町(まち)に至(い
  た)りける、第(だい)七十八番(ばん)、宇多津(うたつ)の道成寺(だうじやうじ)、本尊阿弥陀如来(ほんぞんあみだによら
  い)、大師(だいし)の御作(おんさく)なり、御詠歌(ごえいか)、
    躍(をど)り跳(は)ね念佛申道塲寺拍子(ねんぶつまをすだうじやうじひやうし)を揃(そろ)へ鉦(かね)をうつなり(⑭)

 ただ、この遍路記については、「四国遍路を実際に行わなかった著者の戯作であるから、文学的価値はともかく、四国遍路の研究にとってあまり価値はない。(⑮)」との評価もあるが、案内記らしく「霊場の略図などが載せてあるばかりでなく、西国巡礼には見られない〝お接待〟に関する記事も見られる。(⑯)」とも、「やや信憑性は劣るが、十返舎一九の『金草鞋』が接待資料として好適である。(⑰)」との評価もある。その行程の一部を、施行・接待に報謝(善根)宿を中心に図表3-2-4にまとめる。
 図表3-2-4のように、「至るところ、接待の存在を描いた十返舎一九は、同じく経験に基づいて誌したとされている『金草鞋』九編の西国巡礼においては、一言もそれに触れていない。(⑱)」と、新城氏は四国遍路における接待等の風習の特異さを説いている。
 ただ『金草鞋』第14編では、四国遍路の功徳も、次のように旅人の気ままな滑稽話にされてしまう。

   (狂)何(なに)となく心(こころ)は有頂(うちやう)天皇寺(てんわうじ)我(われ)を忘(わす)るゝ有難(ありがたさ)にて
   旅人「同一長屋(ひとつながや)の太郎兵衛(たろべえ)といふ男(をとこ)は、四国(こく)をまわつて、猿(さる)となつたと
  いふことだから、私(わし)も何卒猿(どうぞさる)になって歸(かへ)りたい、御覧(ごらん)の通(とほ)り、私(わたし)は日本
  (にほん)一の色男(いろをとこ)といふものだから、婦女(をんな)が惚(ほれ)て私(わたし)ゆゑに、幾人(いくたり)が焦(こ
  が)れ死(じ)に、死(しん)だものがム(ご)ざりますから、罪滅(つみほろぼ)しの爲(た)め、此(こ)の四国(こく)を遍禮(まは
  つ)て、猿(さる)にでもなりて歸(かへ)りたうム(ご)ざります」「夫(それ)は似(に)たことがあるものだ、私(わたし)なども
  其通(そのとほ)り男振(をとこぶり)がよいから、婦女子(をんな)に罪(つみ)を作(つく)らせて、後生(ごしやう)がよくある
  まいと、這麼(こんな)に色男(いろをとこ)に産(うみ)つけた親(おや)を、怨恨(うら)んで居(を)ります、お互(たが)ひに好
  男子(いいをとこ)に生(うま)れた程(ほど)、罪作(つみつくり)などはム(ご)ざりますまい」
   往来「イヤはやこの両人(ふたり)の衆(しゆう)は、氣(き)でも狂(ちが)って居(ゐ)ると見(み)へる、両人(ふたり)ながら
  那麼面(あんなつら)をして、色男(いろをとこ)なものか、ナニ彼(あれ)で婦女子(をんな)が惚(ほれ)るものだ、まだしも乃
  公(おれ)がやうな男(をとこ)なら、『晩(ばん)には早(はや)く泊(とま)りませう、私(わたし)は何故(なぜ)かどうも、日
  (ひ)の暮(くれ)るを待(ま)ち兼(か)ねます(⑲)』」

 四国遍路の特徴の一つ接待なども、次のような茶化(ちゃか)された会話になってしまう。

   「コレコレ此(こ)の接待(せつたい)の結飯(にぎりめし)は旨(うま)からう、俺(おれ)が尻(しり)を搔(か)いた手(て)で、
  直(すぐ)に握(にぎ)つたのが交(まじ)つてある筈(はず)だ」
   「さアさア幾何(いくら)でも望(のぞ)み次第(しだい)、持(も)つて行(いか)つしやい、此(こ)の麥麨(むぐこがし)は、俺
  們(おいら)が處(とこ)の美(うつく)しい嚊奴(かかあめ)が、挽(ひい)たのだから、旨(うま)いことは私(わし)が急度請合
  (きつとうけあひ)ます」
   「いろいろの接待(せつたい)があるが、何所(どこ)にも酒(さけ)の接待(せつたい)がないには困(こま)る、俺(おれ)だと
  飯(めし)より餅(もち)より、酒(さけ)の施行(せぎやう)をするに、田舎漢(いなかもの)は氣(き)が利(き)かない、アヽ此處
  (ここ)らで一杯呑(ぱいの)ませると、大(おほ)きな功徳(くどく)になることだに、私(わし)は酒(さけ)が好(す)きだけれ
  ど、銭(ぜに)がなくて呑(の)むことがならぬ、(中略)」
   「さてさて此(こ)のやうに、種々(いろいろ)の品(しな)を施行(せぎやう)するといふは難有(ありがた)い、此上何卒(この
  うえどうぞ)、婦女(をんな)の施行(せぎやう)があると、それこそ奇妙(きめう)だけれど、誰(だれ)も那麼(そんな)ことに
  は、氣(き)がつかぬと見(み)へる(⑳)」

 報謝宿の場合も同様で、聞けば不埓(ふらち)なという話で落ちにされてしまう。
 四国遍路する者にとっては、有り難い施行、接待や報謝宿を紹介し、また、先人の書き著した作品等の趣向を巧みに利用し、その有り様や当時の風俗の一端をうかがわせているが、その概(おおむ)ねは上記のごとく、旅の心の奔放さをのぞかせ、「旅の恥はかき捨て」式に、とんでもない話題の種にされ、おもしろおかしく、茶化されたような卑俗な滑稽談になってしまう。これは他の場面でも同様である。
 また、『金草鞋』は道中案内記の体裁をとってはいるが、挿入された話もその地で見聞した体験談でなく、「全体に卑俗な笑いと狂歌を組み合わせた戯作で、遍路行の苦労や霊場巡りの信仰心などはうかがわれないが、各地の庶民風俗を巧みに描き出している。(㉑)」との評もある。

 ウ 結願に向けて草鞋行脚

 伊予の遍路行に限って見ると、まず、土佐から伊予に入るくだりは、「夫(それ)より松尾峠(まつをとうげ)おしおか、わた山(やま)、大(おほ)ふか村御番所(むらごばんしよ)ありて、土佐(とさ)の切手(きつて)お檢(あらた)め、ひろみ村笹山(むらささやま)へかゝる時(とき)は、此所(ここ)に荷物(にもつ)を預(あづ)けて行(ゆ)くなり(㉒)」と番所での切手改めを受けて伊予の国に入る。
 ここでは、旅に金は必要だが、これがまた厄介で気掛かりなものと、当時の旅の危険と、人心の機微をもうまくとらえて、おもしろおかしい会話のやり取りで始まる。
 四十番観自在寺から宇和島を経て、俗に「三間(みま)のお稲荷さん」と呼ばれる四十一番龍光寺へ至る遍路道には次のように3通りあったことが記され、また、その道の険阻さが狂歌にも詠じられている。一九自身が旅していない南予路であるから、既に遍路道の案内記が流布していたことがうかがえる。

   くわんじざい寺(じ)より稲荷(いなり)へ往(ゆ)く道(みち)三筋(すじ)あり、一つはなだ道通(みちとほ)り、一つは大(お
  ほ)かんどう越(ごへ)、一つは笹山越(ささやまごへ)なり、此(こ)の双紙(さうし)は笹山越(ささやまごへ)を往(ゆ)く、(中
  略)まき川御番所切手(かわごばんしよきつて)お檢(あらた)め、火打村此(ひうちむらこ)の處(ところ)の庄屋報謝宿(しや
  うやはうしややど)を貸(か)す、のゐ村(むら)、さかいわひの森(もり)、ひへ田(た)、松村(まつむら)、是(これ)より宇和
  島(うわじま)の御城下(ごじやうか)なり、入口(いりくち)に御番所切手(ごばんしよきつて)お檢(あらた)め、出口(でぐち)
  にも御番所(ごばんしよ)あり、(中略)
   (狂)酒(さけ)の名(な)の笹山越(ささやまごへ)に旅人(たびびと)の山(やま)に呑(の)まれて難義(なんぎ)こそすれ(㉓)

 宇和島藩、大洲藩、松山藩の三藩を通過して行く、当時の行程で約20里(80km)に及ぶ長丁場は、「是(これ)よりこの町(まち)に泊(とま)り、下(しも)まつば上(うへ)まつば、あふえ村(むら)、たゝ村御番所切手(むらごばんしよきつて)お檢(あらた)め、とさか村(むら)、此所(ここ)に宇和島(うわじま)と、大洲(おおす)の御領地(ごりやうち)の堺標(さかひしるし)立てり、(中略)それより大洲(おほす)の御城下(ごじやうか)、しも村若宮(むらわかみや)とやが橋(はし)にいやの町(まち)、いを木村川(きむらかは)、のほり村(むら)、三島明神(みしまめうじん)、此(こ)の先(さき)にひわた坂(さか)、大洲(おほす)と松山御領分(まつやまごりやうぶん)の境(さかひ)、夫(それ)より熊野町(くまのまち)を過(す)ぎてすがう村(むら)なり。(㉔)」と詳述し、その間に卑俗な話などを挿入して、書き進めている。
 この間に次のようなことが語られる。「旅(たび)をすれば種々(いろいろ)な、珍(めづら)しいことがあるものでム(ご)ざります(㉕)」とか、「成程旅(なるほどたび)といふものは気散(きさん)じなものだ、ものまえであらうが、晦日(みそか)が來(こ)ようが、債主(かけとり)の來(く)ることはなし、米(こめ)がないの薪(まき)がないのと、嚊(かかあ)にせがまれる心配(きづかひ)がなくて、這麼氣楽(こんなきらく)なことはない(㉖)」と。
 この一言は、古今を問わない旅の非日常性や開放性などの真実を如実に突き、旅の魅力を語り、当時の庶民の共感を呼び、旅への思い、ひいては四国遍路への思いを駆り立てられたものと推察できる。
 五十一番石手寺を過ぎて、道後温泉紹介のくだりは次のように記している。

   是(これ)より道後(だうご)の温泉(おんせん)、西国隨(さいこくずゐ)一の名湯(めいたう)なり、松山(まつやま)の御城下
  (ごじやうか)より僅(わづ)か十町(ちやう)あり、この温泉至(おんせんいたつ)て繁昌(はんじやう)なり、(中略)道後(だう
  ご)の湯神代(ゆしんだい)の昔(むかし)よりありて、至(いたつ)ての名湯(めいたう)なり、旅籠屋(はたごや)、料理茶屋數多
  (れうりちややあまた)、いづれも清淨(きれい)にして湯女(ゆな)なども撰(えら)びて、抱(かか)へ置(おく)と見(み)へた
  り、宿(やど)は明王院(みやうわうゐん)又(また)は通筋(とほりすぢ)の旅籠(はたご)より、賤(いやし)き旅人(りよじん)は
  木賃泊(きちんとま)りにて、石橋(いしばし)の際(きは)の町(まち)、又(また)はえんまん寺(じ)の前(まへ)の旅籠屋(はたご
  や)に泊(とま)るなり、又此町(またこのまち)は御城下松山(ごじやうかまつやま)よりの入口(いりぐち)の町(まち)なり、商
  人旅籠屋兩側(あきんどはたごやりやうかは)に立(たち)つゞきたり(㉗)、

と当時の道後温泉の盛況ぶりの一端を垣間見せている。石鎚山についても、「六十四番(ばん)さとまへ神寺(しんじ)、此寺(このてら)は石槌山(いしつちやま)へ、つね下人參詣(げにんさんけい)することならず、此處(このところ)にて遥拝(えうはい)する處(ところ)なり、石槌山(いしつちやま)をおくまへ神寺(しんじ)といふ、石槌山(いしつちやま)は六月一日より三日まで登(のぼ)る、鐵(かね)の鎖(くさり)を捉(とら)へて、登(のぼ)る處(ところ)三ヶ處(しよ)あり、之(これ)は壁(かべ)の如(ごと)き巖(いは)に、少許(すこし)づゝ足掛(あしがか)りのあるを蹈(ふま)へて、上(うへ)より下(さが)りたる、鎖(くさり)を捉(とら)まへて登(のぼ)るなり座王權現修験(ざわうごんげんしゆげん)の地(ち)にて、役(えん)の行者(ぎやうじや)れんしゆの地(ち)なりといふ。(㉘)」と石鎚山登山の困難な様子などが紹介される。こうして人々の軽妙な笑いを誘う会話のやり取りが見られて旅は讃岐路に続く。
 伊予の国から一旦阿波に出て、阿波からの遍路登山道を登って雲辺寺に行く。そこから七十五番善通寺を経て、七十七番道隆寺まで進み、「以前(もと)の丸龜(まるがめ)の御城下(ごじやうか)に皈(かえ)る、千久良坊延高恙(ちくらぼうのぶたかつつが)なく四国遍路(へんろ)して、これまで歸(かえ)り、念願成就(ねんがんじやうじゅ)せし欣(よろこ)びとて、其夜(そのよ)は宿(やど)に酒肴(さけさかな)とり寄(よ)せ、思(おも)ひの儘(まま)に、道々(みちみち)の憂愁(うさ)を語慰(かたりなぐさ)み先々芽出度々々(まづまづめでたしめでたし)と通宵快(よもすがらこころよ)く、酒酌(さけく)みかはし打臥(うちふ)しける(㉚)」というところで、『金草鞋』の四国遍路は終わる。
 繰り返すが、札所の説明は簡略で、その間に挿入される狂歌や話題が中心で、それらも実体験に基づくものというより、当時の一般庶民の卑俗な笑いを誘う読み物に仕立てている。『膝栗毛』が旅のおもしろさを滑稽に描くことにより、大衆に旅ブームを巻き起こした、その一環の読み物と言える。
 ただ、この第14編の結びともいえる末尾の部分で、一九は各霊場の御詠歌について、

   この御詠歌(ごえいか)といふものは、何人(なんびと)の作意(さくい)なるや、風製至(ふうせいいたつ)て拙(つた)なく手
  爾於葉(てにをは)は一向(かう)に調(ととの)はず、假名(かな)違(ちが)ひ自地(じた)の誤謬多(あやまりおほ)く、誠(まこ
  と)に俗中(ぞくちう)の俗(ぞく)にして、論(ろん)ずるに足(たら)ざるものなり、されども遍路道中記(へんろだうちうき)に
  御詠歌(ごえいか)と稱(しよう)して記(しる)しあれば、詣人各々靈前(けいじんおのおのれいぜん)に、これを唱(とな)へ来
  (きた)りしものゆゑ、此(こ)の双紙(そうし)にも其儘(そのまま)を著(あらは)したれども、實(じつ)に心(こころ)ある人(ひ
  と)は、此(こ)の御詠歌(ごえいか)によりて、只惜(あらた)信心(しんじん)を失(うしな)ふことあるべく、嘆(なげ)かはしき
  事(こと)なるをや(㉛)

と御詠歌批評を記しているが、これについて「遍路の普及による信仰の卑俗化への厳しい批判をこめたものとして、当を得ている。(㉜)」とか「四国紀行は戯作的なものにすぎないが、西国のご詠歌と比べてみても、詠歌批評は辛辣でさすがに当たっているといえる。(㉝)」との評がある。

 エ 『金草鞋』第14編の功罪

 文政5年(1822年)春には、第14編の四国遍路の旅が公表であったのでとの出版元の求めに応じて、『金草鞋』第15編を出した。その序には、第14編に続いて再度大師の恩徳を、また、「一度(ど)編禮(へんれい)の輩(ともがら)現世(げんせ)にては、一切(さい)の病難(びょうなん)別(べつ)しては、癩病瘡毒(らいびやうさうどく)の難症(なんしやう)を除(のぞ)き、生涯安全家運繁昌長久(せうがいあんぜんかうんはんじやうちやうきう)を守(まも)らせ給(たま)ひ、未来(みらい)は諸(もろもろ)の罪障(ざいしやう)を滅(めつ)し、安養浄土(あんやうじやうど)に往生(わうじやう)なさしめんとの、御誓願(ごせいぐわん)なり(㉞)」と遍路の功徳を説き、東国の人のためにと「文政五年の春、四国八十八ヶ所を江戸の地に移して、江戸の第一番を芝二本榎の高野寺(現高野山真言宗東京別院)とした江戸八十八ヶ所の案内記をものしている。(㉟)」とある。
 だが、この『金草鞋』第14編について、「こは彼みずから記せるとおり道後澡浴の往返親しく詣拝したる二三札所を基材とし、他は皆几上より空中に向って結撰し来りたるもの、彼の作としては警抜ならず、東海木曾両膝栗毛(とうかいきそりょうひざくりげ)の残糟剰粕(ざんそうじょうはく)というべし。(㊱)」との厳しい評もあるとおり、四国遍路の研究上の価値に問題があるのも確かである。
 酒好きで旅好きであった一九は、晩年には中風のため不自由をかこったといわれるが、時代の趨(すう)勢を素早く感知し、大衆すねわち広範な読者層をとらえた一九ならではの『東海道中膝栗毛』であり、『方言修行金草鞋』であった。その中に位置する『金草鞋』第14編は、旅のおもしろさや遍路の功徳を説いた四国遍路の道中記であった。
 また、『金草鞋』第15編の序に説くような遍路の功徳、「どこそこの何兵衛は四国遍路のおかげで難病が全快した、という噂が一度広まると、次から次へと遍路に出る者がつづき、一種のはやり神様的な盛行を呼んだ時期が江戸期にはあったもの(㊲)」と宮崎忍勝氏は推察しているが、この『金草鞋』第14編の出版が、文化文政期の遍路の盛行と軌を一にしているのは看過できない。

<注>
①『日本人名大辞典(新撰大人名辭典)第3巻』P247~248 1990 及び神保五弥「十返舎一九」(『大百科事典 6』P970 1991)による。
②内田保廣「飽和と頽廃一成熟期以後の江戸」(『日本文学新史 近世』P304 1990)
③愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 文学』P408 1984 引用文では、「25編に及ぶ」とあるが、帝国文庫の「一九全集」には「一九作方言修行は全部廿四編を以て終了せり」(P1001)とある。また、同文庫の『續一九全集』の第二十四編の末尾には「大尾」(P873)とあるので、本稿は「24編」に従った。
④中村幸彦「解説」(『日本古典文学全集 49 東海道中膝栗毛』P11 1984)
⑤水野稔『黄表紙・酒落本の世界』P208~209 1991
⑥水野稔「総説」(『日本古典文学全集 47 酒落本・滑稽本・人情本』P8 1971)
⑦十返舎一九『方言修行金草鞋 第十四編』(『帝国文庫 續一九全集 全』P501 1901)
⑧新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』P1055 1988
⑨前出注⑦ P501 帝国文庫『續一九全集』には、「大阪」とあるのでその表記によった。以下、同じである。
⑩前出注③ P408
⑪前出注⑦ P501~502
⑫前出注⑦ P502
⑬前出注⑦ P503
⑭前出注⑦ P504~505
⑮愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 学問宗教』P718 1985
⑯前田卓『巡礼の社会学』P116 1971
⑰前出注⑧ P1081
⑱前出注⑧ P1093
⑲前出注⑦ P505~506 なお、本文中の会話部分は、現代表記により「 」を付した。(以下同じ)
⑳前出注⑦ P510~511
㉑前出注③ P408
㉒前出注⑦ P529
㉓前出注⑦ P530~531
㉔前出注⑦ P532~533
㉕前出注⑦ P532
㉖前出注⑦ P534
㉗前出注⑦ P538
㉘前出注⑦ P544
㉙愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 資料編 文学』P837 1982
㉚前出注⑦ P555
㉛前出注⑦ P555~556
㉜前出注③ P408
㉝宮崎忍勝『四国遍路』P83 1985
㉞前出注⑦ P557
㉟前出注㉝ P184
㊱高群逸枝『お遍路』P24 1987
㊲前出注㉓ P191

図表3-2-3 『金草鞋』に先行した四国遍路関係書と一九の創作活動の略年表

図表3-2-3 『金草鞋』に先行した四国遍路関係書と一九の創作活動の略年表


図表3-2-4 『金草鞋』 第14編の道中一覧表(施行・接待・報謝宿等)

図表3-2-4 『金草鞋』 第14編の道中一覧表(施行・接待・報謝宿等)