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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 壬生川のくらし

 旧東予(とうよ)市(現西条(さいじょう)市)は愛媛県の北東部に位置し、東は燧灘(ひうちなだ)に面し、周囲を今治(いまばり)市(旧市域、旧朝倉(あさくら)村、旧玉川(たまがわ)町)、西条市(旧市域、旧丹原(たんばら)町、旧小松(こまつ)町)と接する。
 昭和28年(1953年)に施行された町村合併促進法に基づき、昭和30年(1955年)に周布(しゅう)村、吉井(よしい)村、壬生川(にゅうがわ)町、国安(くにやす)村、吉岡(よしおか)村の1町4村が合併して壬生川町が、三芳(みよし)村、楠河(くすかわ)村、庄内(しょうない)村の3村が合併して三芳町が誕生した。昭和46年(1971年)には、壬生川と三芳の両町が合併して東予町が発足し、翌47年(1972年)に市制を施行した。
 米・麦の生産が多い県内でも有数の穀倉地帯である周桑(しゅうそう)平野に属する旧東予市域は、終戦直後(昭和20年〔1945年〕11月)は小作地が66.1%とその比率が高く、自作地は33.9%であった。小作農は「間免(あいめん)」と呼ばれた慣行小作権を所有し、土地所有権である「底地(そこじ)」を持つ地主に対して「年貢(ねんぐ)」と呼ばれた小作料を納める必要があり、封建的な制度の下での生活を余儀なくされていたが、戦後の2次にわたる農地改革によって小作地が13.4%にまで減少するとともに、自作地が86.8%(昭和25年〔1950年〕8月)にまで増大し、旧東予市域においても農民の自立が実現された。
 一方、商業地に目を向けると、寛永12年(1635年)に松山(まつやま)藩領となった旧壬生川村と三津屋(みつや)村が藩領の港市として発展し、旧東予市域の市街地部分を構成していった。大正12年(1923年)、多賀(たが)村(三津屋村と北条(ほうじょう)村の合併により誕生)に国鉄壬生川駅(現JR壬生川駅)が開設されると、本町の入り口と駅とを結ぶ大正通りが新設され、本通りや本河原通りが大正通りと結ばれた。また、昭和11年(1936年)には明正レイヨン壬生川工場が操業を開始し、この地域が同工場によりもたらされる購買力の恩恵を受けることが可能となったことなどから市街地化が進み、小売店舗が集積する商店街が形成された。
 本節では、終戦前後から昭和30年代、40年代ころまでの壬生川での農業を中心としたくらしについて、Aさん(昭和7年生まれ)、Bさん(昭和36年生まれ)、Cさん(昭和38年生まれ)に、商店街を中心とした地域でのくらしについて、Dさん(昭和9年生まれ)、Eさん(昭和20年生まれ)、Fさん(昭和24年生まれ)、Gさん(70歳代)からそれぞれ話を聞いた。