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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 加茂地区の農業と人々のくらし

 昭和20年代から現在までの加茂地区の農業について、長年地元で農林業に携わってきたAさんは、次のように話してくれた。

(1)自給自足の時代であった昭和20年代

 ア 終戦前後の思い出

 「終戦までは、私の家は小作人に土地を貸していた地主で、神戸と加茂村の千町・荒川に40haくらいの田んぼを所有していたそうです。戦後の農地解放によって、得米(小作料を受け取っていた田)は全て没収された上に、食糧難の解消を目的として昭和22年(1947年)に山林の開墾制度が始まると、10haくらいの山地を没収されたそうです。しかし、加茂村に所有していた田んぼ8反(約80a)と山林が残ったおかげで終戦後も何とか生活していくことができました。私の家では、昭和25年(1950年)ころまで『男衆(おとこし)』と『女子衆(おなごし)』という、住み込みでいろんな仕事をしてくれる人を雇っていました。男衆が一人と女子衆が二人くらいいて、家の農作業をはじめいろんなことをしてくれました。その人たちには毎月お小遣いを渡していましたが、給料は盆と正月にまとめて支払っていました。それとは別に、通いで私の家の山林の仕事や農作業などをする人が4人くらいいて、その人たちには、出勤日数に応じて毎月支払っていました。どちらも地元の加茂地区の人たちで、通いで来ていた人の多くはお年寄りでした。」

 イ 自給自足の生活

 「終戦直後は、どのお家でもお米や野菜などの食糧は自分の家で作っていて、余ったお米は政府に売り渡していました。また、醤油(しょうゆ)も味噌(みそ)も自分の家で作っていて、ニワトリやウサギ、ヤギなどを飼育して卵や乳を取ったり、肉にして食べたり、谷川でアユやアメゴ、ウナギなどを捕まえて食べたりしていました。
 道路事情がある程度良くなった昭和20年代後半くらいには、行商の方が自転車の後ろにリヤカーを付けて加茂地区まで来ていたほか、河ヶ平(こがなる)にあった加茂農協が昭和26年(1951年)からお店を始め、昭和33年(1958年)に冷蔵庫を購入して魚や肉といった生鮮食品を販売するようになりました。私の家では、昭和32年(1957年)に冷蔵庫が入るまで、買い物と言えばお砂糖や塩のほかには、イリコや塩鯖、塩鮭など保存の効くものを買うくらいのものでした。」

(2)昭和30年代以降の農業の盛衰

 ア 家業に従事する

 「私は、昭和33年(1958年)に高校(愛媛県立西条農業高等学校)を卒業するとすぐに家業の農林業に従事しました。私は男6人、女6人の12人兄弟の六男でしたが、長男、次男、三男が分家し、四男と五男が戦死したので、父が私を後継者にしたのです。
 そのころの加茂農協は、昭和35年(1960年)に千町にあった加茂園芸組合(職員2名)を、昭和36年(1961年)に荒川にあった加茂養鶏組合(職員2名)を吸収合併して河ヶ平に本所を置き、千町・下津池(しもついけ)・中之池(なかのいけ)・荒川の4か所に支所と店舗を営業して、常勤役職員が14名いました。私は、昭和37年(1962年)に加茂農協の監事(非常勤)になり、昭和40年(1965年)には組合長(常勤)になりましたが、同年11月に西条市内の8農協が合併して西条市農協ができると、常務理事を3年間務めて、退任後はまた農林業に従事しました(写真3-2-1参照)。」

 イ 盛んだった高冷地野菜の栽培

 「加茂地区では、昭和29年(1954年)から始めた高冷地野菜等の栽培が順調に拡大して、栽培農家は大変儲(もう)かっていました。夏場は標高350m以上の高地でないと野菜の栽培はできないので、夏でも比較的涼しい千町と藤之石でホウレンソウを栽培していました。西条市と新居浜(にいはま)市の青果市場では、夏から初秋にかけてホウレンソウなどの菜っ葉類の野菜を供給できるのは加茂地区だけだったので、非常に良い値で売れていたことを憶えています。梅雨明けの時期には、青果市場でホウレンソウが1束当たり300円から500円で売れることもありました。
 当時の加茂地区には農業に従事する人がたくさんいて、ホウレンソウ以外にも夏秋(かしゅう)トマトやカブラ、ピーマンなどの夏野菜を栽培して、地元の青果市場にたくさん出荷していました。昭和40年に農協が合併したころは、ホウレンソウ栽培が盛んであった神戸地区の米・野菜等の農産物の販売高は年間2億円くらいでしたが、加茂地区の販売高は1億円くらいありました。」

 ウ 農業の衰退

 「昭和52、53年(1977、78年)ころから、輸送技術の発達に伴い、長野県産など県外産の高冷地野菜が出回るようになると、夏場でもそれほどの高値がつかなくなり、昭和60年(1985年)ころには振るわなくなりました。昭和53年から千町と藤之石の農家8戸が高冷地野菜の代替産物として、稲藁(わら)でマッシュルーム栽培を始めて大阪市場へも出荷していましたが、高齢化の進行や後継者不足のため、平成15年(2003年)ころにやめてしまいました。また、昭和45年(1970年)から中之池や下津池の農家10戸が養蚕を始めて、1戸当たり1,000kgもの繭を生産していましたが、こちらについても同様の理由で平成5年(1993年)ころにやめてしまいました。現在、加茂地区在住の野菜の栽培農家のうち、年間売上高が200万円以上ある農家は2戸だけですが、サルやイノシシによる被害に悩まされています。また、シキビなどを西条市の直売所へ出荷している農家が30戸くらいあり、加茂地区全体での農産物の年間販売額は3,500万円くらいです。」

写真3-2-1 西条市農協加茂支所跡

写真3-2-1 西条市農協加茂支所跡

手前に見えるのが国道194号。西条市。平成28年12月撮影