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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 農業と人々のくらし

(1)養蚕指導員として

 ア 養蚕指導員を目指して

 「私(Aさん)は昭和26年(1951年)に地元の日吉中学校(現鬼北町立日吉中学校)を卒業後、日吉村農業協同組合に採用され、精米所での仕事を主な業務として担当していましたが、高校で学びたいという気持ちを強くもっていたので、翌年に退職し、日吉分校(愛媛県立北宇和高等学校日吉分校、平成24年〔2012年〕3月閉校)へ入学しました。同校を昭和30年(1955年)に卒業し、その後、大洲(おおず)(大洲市)の国鉄駅前にあった県蚕業講習所へ入学して養蚕に関する県の資格を取得しました。講習所を翌春修了した私は、1年間の努力が認められて兵庫県の明石(あかし)(兵庫県明石市)にあった兵庫県蚕糸試験場へ研究生として行くように勧められ、そこでより専門的な養蚕技術について学びました。試験場での研究を修了した私は地元の日吉村(現鬼北町)へ帰り、これまで学んできた養蚕の専門的な知識を生かした仕事に就きたいと考えていましたが、当時の日吉村には養蚕指導に関係する職の募集がありませんでした。日吉村で養蚕が盛んに行われていたのは、昭和40年代から50年代にかけてのことなので、当時は専門知識を生かす仕事に就くことができなかったということです。
 明石の試験場から日吉村へ戻っても、学んだことを生かすことができる仕事がなかったので、4年ほど大阪や東京で専門とは全く違う職種の仕事に就いていました。まず大阪で造花の製造販売会社で1年半ほど仕事をして、その後、大阪市内の映画館に住み込みで映画技師として半年ほど勤務しました。この映画館での月給は8,800円だったことを憶えています。昭和35年(1960年)には東京へ行き、赤羽(あかばね)(現東京都北(きた)区)にあった百貨店でセールスとしての仕事をしたり、上野(うえの)(東京都台東(たいとう)区)の電器店で電気機器の販売や修理の仕事はもちろんのこと、電気工事の仕事までしたりしていました。東京で仕事をしていたとき、実家の都合で帰郷しなければならなくなり、昭和39年(1964年)4月に日吉村養蚕農業協同組合に臨時職員として採用され、その後、昭和42年(1967年)4月に愛媛県養蚕農業協同組合連合会に本採用となりました。最初は臨時職員での採用ではありましたが、やっとふるさとの日吉村で専門的な技術を生かすことができる仕事に就くことができたのです。養蚕の仕事に就いてからは、38年もの間、養蚕技術の指導に携わることができました。
 県養連に本採用となった翌年からは、大洲の菅田(すげた)養蚕農業協同組合に駐在となり、6年間は大洲市で勤務していました。菅田は愛媛県内でも養蚕が盛んに行われていた地域で規模が日吉村よりもはるかに大きく、その上、養蚕の技術が高かったので、そこで専門的な知識を生かした仕事ができました。菅田での勤務後は、広見(現鬼北町)の養蚕組合での勤務となり、地元で技術指導に携わることができました。」

 イ 養蚕指導員の仕事

 「昭和40年代から昭和50年代にかけては、村内でも養蚕が盛んに行われ、このころには養蚕農家が186戸ありました。巡回指導では、それぞれの農家が育てている蚕の様子を1年に5回から6回ほど観察に行き、技術的な指導を行っていました。また、蚕は二齢か三齢までは養蚕家を雇って、組合の飼育所で指導員の管理の下に育てられていたので、村内の3か所にあった飼育所へも巡回指導に行っていました。上大野(かみおおの)、下鍵山(しもかぎやま)、上鍵山(かみかぎやま)、父野川、日向谷と、村内各地区の養蚕農家を先輩と2人で分担して巡回指導するときにはオートバイを使って移動していました。父野川は広範囲なので、地区をさらに細かく分担して巡回していました。オートバイが導入されるまでは、遠方の地区へ指導に行くときでも自転車で行かなければならず、1日でそう多くの地区を回ることができなかったので、オートバイを使うようになってからは移動時間が短縮され、効率よく巡回指導ができるようになりました。各地区では養蚕農家の方に地元の公民館へ来てもらい、指導員が技術的なこと全般について話をしていました。話の内容は、難しい技術や専門的なことではなく、聞きに来られた養蚕農家の方に内容を理解してもらえるように、蚕の飼い方など、初歩的なことから話をしていました。私は職場の先輩と2人で各公民館を巡回して養蚕農家の方へ技術指導をしていたことを憶えています。私が生活をしている上大野地区でも、養蚕が盛んだった当時は16軒の養蚕農家がありました。指導員として勤務していたころは、養蚕が村の基幹産業だったこともあり、養蚕農家の方々から、『先生。』と呼ばれ、とても頼りにされていました。例えば、『蚕が桑を食べず、少し様子がおかしいぞ。』ということになると、『下に溜(た)まった糞(ふん)を除(の)けて消毒してやんなはいよ。』というようなアドバイスをしていました。」

 ウ 忙しい毎日

 「飼育所で蚕を育てている間は、泊まり込みで蚕の世話をしなければなりませんでした。飼育所では作業員として、泊まり込みで蚕の世話をしてもらう女性を多く雇っていました。蚕が小さい間は、朝昼晩の3回、餌(えさ)として与える桑の葉を細かく切る作業も担当してもらっていました。三齢の蚕で12日間必要なので、その間は当番で交替に寝泊りしてもらっていました。夜中には餌やりなどの作業はありませんが、温度調節を行うために何回かは起きなくてはならず、大変な仕事だったと思います。しかし、皆さんベテランの方々で、私が指示を出すと指示通りに仕事をしてくれていたので、安心して任せることができていました。飼育所で育てられた蚕は配蚕といって、各農家へ配られていました。配蚕により農家が蚕を飼い始めると、養蚕指導員が各農家の状況を巡回しながら確認をし、必要に応じて技術指導を行っていたのです。蚕はほとんどの養蚕農家が二段飼いで育てていたことを憶えています。農家の敷地の中で養蚕に適した場所をそれほど広く取ることができなかったので、一段ではなく二段にして、場所を取ることなく効率良く蚕を育てていたということです。
 指導員は各養蚕農家への指導とともに、蚕の餌となる桑を採る作業など、飼育所での蚕の飼育の仕事があり、一日中休む暇もなく仕事をして、勤務を終えて帰宅する時間が遅い上に、朝も早く出勤しなければならなかったので、本当に忙しく働いていました。」

 エ 大切な蚕を病気から守る

 「蚕にはさまざまな病気に罹(かか)る可能性がありました。硬化病は蚕の体内に細菌が入り込み、体が固まってしまい、色が白くなってしまう病気でした。軟化病もあり、これは体が軟らかくなって蚕が死んでしまう病気でした。蚕を健康に保つためには、飼育する場所の温度や餌となる桑のやり方など、細かい所まで注意を払う必要がありました。風通しを良くし、よく成長した桑を食べさせることが大切だったのです。このような蚕を飼うに当たって、基本的な技術であると思われることまで、養蚕農家にはきっちりと丁寧に指導をする必要があったのです。」

 オ 新しい技術を学び続ける

 「指導員として勤務している間にも養蚕の技術が進歩するので、指導員の立場でも新しい技術について学ぶことが必要でした。ただ、新しくなると言っても、伝統的な手法の上に立った技術だったので、養蚕では古くから受け継がれてきている伝統的な技法に詳しくなっておくことが大切でした。基礎的な技術を理解することで、初めて新しい技術を導入できるということです。養蚕において、基礎となるのは温度と湿度と餌となる桑の質です。温度では23℃から24℃を保つことが必要で、春先のまだ気温が低いときには、練炭を焚(た)いて室内の温度を上げ、温度が上がり過ぎる前に除けるという細かい温度管理を行っていました。組合の飼育所で育てる二齢から三齢までの蚕の適温は28℃だったので、高い温度で温め続けなければならず、担当の者にとって配蚕までの温度管理は大変な仕事だったことを憶えています。湿度の管理では、雨が降ると湿度が上がり、蚕は高湿の状態が続くと白きょう病などの病気になってしまう可能性があるので、指導員は雨上がりの晴れた日に養蚕農家を巡回して、太陽光の強さや気温などから素早く判断して、適度な湿度に下げるための風通しの方法などを指導していました。蚕を病気にしないよう、指導員には天気の状況に応じた適切な判断力が求められていたのです。蚕の餌となる桑の手入れは養蚕農家にとって一番大切な作業でした。桑を育てる肥料でも○桑(マルクワ)肥料という特別な肥料を使って育てていました。養蚕農家にも桑の栽培に適した肥料を購入してもらうよう指導し、蚕を育てるための良質な桑が育つようにしていました。桑の栽培では、新梢(しんしょう)挿し木といって、15cmほどの長さに揃(そろ)えた挿し穂を5cm程度の深さまで挿し込み、挿し床の上に,トンネル形にビニール布と葦簀(よしず)を被覆する方法がありました。」

 カ 地域の養蚕農家のために

 「蚕が繭を作ると、それを組合が集めて三島(みしま)(現鬼北町)にあった製糸工場へ出荷していました。繭から糸がどれくらい採れるかで買い取りの価格が決まっていました。大きな繭であればたくさんの糸が採れて価格が良いというように、繭の大きさが農家の収入に大きく影響するのです。私たち養蚕指導員は、蚕が繭を作るまでの過程を指導していましたが、大きな蚕を育てることができるかどうかは、私たち指導員の指導力によるところが大きかったと言っても過言ではありません。それくらい、養蚕については知識と腕を持っていたという自信があります。技術者は指導をし、養蚕を通して地域に利益を誘導できるようにするための知識と腕が必要ですし、そして何より地域の方に受け入れてもらえるように、良好な人間関係を築き上げることが大切だったのです。」

 キ 先輩の背中を追って

 「昭和40年(1965年)ころ、日吉村では農業をはじめ、林業や木炭製造、畜産、そして養蚕と、さまざまな分野の指導員6人が産業技術センターという一つの建物で勤務をしていました。日吉の養蚕組合には私を含めて2名の指導員がいました。もう一人の方は、私にとっては大先輩で、公私にわたってよく世話をしてもらいました。私が養蚕指導員の仕事に就くことができたのもこの先輩のお陰(かげ)で、私が高校を卒業した時に先輩から、『お前は資格を取って蚕の先生やれや。』と勧められたことがきっかけでした。先輩のこの一言で、私は将来への希望を持つことができたのです。一緒に仕事をしていたときには、『俺の跡を継いで、しっかりと養蚕指導の仕事をしてもらいたい。』とよく言われていました。愛媛県内には48名の養蚕指導員がいましたが、中でも指折りの指導員として名前が通っていた先輩から多くのことを学ぶことができ、私が仕事をする上で貴重な財産になったことは間違いありません。平成3年(1991年)に退職するまで立派な先輩の背中を追いかけて、やりがいを感じながら仕事に打ち込むことができたことは私にとって誇りでもあるのです。退職の一年前に開催された蚕糸の質を競う大会で、私は1位を獲(と)ることができました。表彰状をもらい、お世話になった先輩のところへ真っ先に報告に行った時に、『Aさん、ようやった。』と声を掛けられ、感謝の気持ちがこみ上げ、先輩の前で涙を流してしまったことは、今でも良い思い出として心に残っています。」

(2)牛を育てる

 ア 牛を大切に育てた祖父

 「私(Bさん)が結婚した当時は、父野川の家では夫の祖父母、父母、私たち夫婦の三世代で農業の仕事をしていました。昭和30年代に耕耘(うん)機などの農業機械を購入するまでは牛耕を行っていて、農作業に牛は欠かせず、小学校1年生の子どもでも鼻やりをしていました。近所の家でも牛耕をするためにほとんどが牛を飼っていたことを憶えています。私は結婚するまで牛とは無縁の環境で生活してきて、牛を触ったことはもちろん、見たことすらほとんどなかったので、初めは牛が怖くてたまりませんでした。
 家では主人の祖父が乳離れをして餌を食べるようになった牛を買ってきて、その牛を肥育牛、それも肉牛の素牛(もとうし)になるところまで育てていました。今でも思い出すのですが、祖父は飼っていた牛を相当かわいがっていました。
 牛を育てるには人間の子どもを育てることと同じようにしなければならないところもあるのですが、祖父はカボチャやイモなどの野菜を生のまま餌として与えることがなく、どんな御馳走(ごちそう)ができるのか、というくらいクド(竈(かまど))でどんどんと煮炊きをし、柔らかくなった野菜をハミ切りで小さく切った藁(わら)に混ぜて与えていました。餌が温かい間に食べてくれればよいのですが、そんなにすぐに食べるわけでもなく、時間が経つと餌が冷えて硬くなってしまっていました。このように手間をかけて大切に牛を育てていたので、祖父が育てた素牛を購入して連れて帰った方から、『牛が生の野菜を食べず、手間がかかって仕方がない。』と嘆かれたこともあるくらいです。
 一方、私の主人は、『牛は第四胃まであるので、口を動かしてよく噛(か)んでから餌を飲み込んだ方が良い。』と言っていました。牛が反芻(はんすう)するには長い藁の方が良いので、主人が餌をやるときには、藁を半分くらいの長さに切っていました。もし、祖父が主人の餌のやり方を見たら、『こがいなやり方して。』と怒っていたと思います。」

 イ 牛舎の改善と牛の繁殖

 (ア)家畜人工授精師

 「最初、牛2頭を飼育することができる駄屋が家のすぐそばにあったので、夏場になると牛舎の臭(にお)いが家の中まで入ってきていて、私はその臭(にお)いがよっぽど嫌でした。
 しかし、地方競馬の畜産振興補助事業で人家から少し離れた条件の良い場所に牛舎を新しく建築したことで、臭(にお)いの悩みからは解放されました。
 牛舎が広くなったので、人工授精で牝(めす)が産まれたら、それを素牛にして子牛を100頭生産することを目標として繁殖牛を飼うようになりました。まず、5頭の素牛を購入して、一年一産で子牛を産ませていこうという目標を立て、私の主人は野村(のむら)(現西予市)の畜産場(愛媛県立種畜場、現愛媛県農林水産研究所畜産研究センター)へ家畜人工授精師の免状を取得するために1か月ほど行き、免状を取得した後は自分で人工授精を行っていました。当時は『1年に子牛が4頭産まれたら上等。』と言われていて、私の家では30年以上の長い年月をかけて目標の100頭に到達することができました。」

 (イ)牛の観察と出産

 「牛が発情する時期を逃すと人工授精ができなくなるので、牛の様子を気を付けて観察しておく必要がありました。牛は発情するとそわそわしてくるので、普段から牛の動きを細かく観察しておけば動きが違うことが分かってきます。発情が終わると牝牛の性器から透明の液体が出てきて、授精のタイミングではなくなるので、それが出てくるまでに授精させなければなりませんでした。
 牛の観察は私の役目で、餌やりなど牛に直接触れる仕事は主人が行っていましたが、餌をやってほったらかしではだめで、夫婦がそれぞれの役割の中で牛の細かな変化にも気を付けておかないと繁殖牛を飼育する仕事はうまくいきませんでした。
 人工授精ができ、いよいよ牛が出産するというころには、牛舎に寝泊りできる部屋があったので私もそこで寝泊りをし、生まれてくる子牛が母体から見えるようになると引っ張り出す作業を手伝っていました。
 牝牛でも経産牛になると子牛の育て方に心配するようなことはありませんでした。子牛が生まれると自分で子牛をぺろぺろと舐(な)めて子牛の体をきれいにしたり、子牛が乳を飲みに近づくと動かなかったりするので、苦労することは一つもありませんでした。一方、初産牛は乳の飲ませ方すら知らない状態で、子牛が乳を飲もうと母牛の後ろの脚の方から近づくと、なぜかくるくると牛舎内を逃げるように歩いていました。生まれてきた子牛もどうすればよいか分からず、母牛の周りをうろうろと歩き回るだけなので、子牛に初乳を飲ませるためにいろいろと策を講じなければならず苦労しました。あるときには少し酔わせれば動きが鈍り、初乳を飲ませやすいかもしれないと考えて日本酒を買ってきて母牛に飲ませたことがありました。また、梯子(はしご)を使って牛舎の隅に母牛を追いやって動けないようにして子牛に飲ませるようなこともしました。
 印象に残っている牛の出産は、寒い冬の時期に体の弱い子牛が生まれたときのことです。子牛は生まれてから母牛が体を舐めているとすぐに立ち上がるのですが、その子牛は立ち上がることができませんでした。その子牛は目方(重さ)が少なく、さらに牛舎の中では毛布を掛けたりストーブを焚(た)いたりして体を温めてやることができなかったので、どうしようかと考え、お湯を50℃くらいに沸かしてそれを一升瓶に入れ、毛布で3本ほど包んで子牛のお腹に抱かせました。すると、体を温めたことが功を奏したのか、子牛は立ち上がることができたのです。このように、生まれてきた子牛を何頭も助けてきましたが、子牛が立ち上がったときには、わが子のことのようにうれしく、安心したことを今でも憶えています。
 子牛が乳離れをして大人の体に近くなると鼻環を付ける作業(鼻貫き)を行います。私は主人の助手としてこの作業を何度も手伝いました。鼻貫きでは牛の左右の鼻に指を入れ、指の感覚で一番薄いところに鼻貫き専用のペンチのような道具を使って穴を開け、『抜けたぞ。』という合図ですぐに取り付けることができるように準備しておいた鼻環を主人に渡していました。」

 ウ 減農薬の良いサイクル

 「野菜のくずを肥料に変えるコンポストを業者の方が売りに来たときのことです。私が『家には昔からあるから必要ない。』と言うと、業者の方が『それ、いつどこで買ったのですか。』と聞いてきたので、『駄屋にある。』と答えました。当時は、野菜のくずはもちろんのこと、お茶がらでさえ捨てずに駄屋へ持って行き、牛に餌として与えていたので、すでにコンポストと同じ原理で処理ができていたのです。また、近所の方も野菜のくずが餌になっているということを知っていたので、ダイコンの葉っぱやイモ蔓、キビがらなど、捨てる部分を持って来て、『牛の餌に使ってくれ。ここへ持って来たら役に立つ。』と言っていました(写真2-1-6参照)。
 私の家では牛の飼育以外にも養蚕や米作りを行っていたので、農作業で一年中忙しい思いをしていました。しかし、牛、養蚕、稲作は相互に関連付けられるので効率の良い農業だったと思います。例えば、夏になると所有する山の草地に有刺鉄線を張って柵を作り、そこで牛を放し飼いにし、気温が下がり、牛を山から牛舎に戻すまでの間、牛舎が空くのでそこで養蚕を行います。養蚕では蚕に桑を与えますが、蚕が食べ残した桑は全て牛の餌として与えていました。また、蚕が小さい間に排出する糞は栄養価が高く、『麦を与えることと同じだ。』とよく言われていて、天日に干して牛に与えるとよく食べていました。牛はこれらの餌を食べて育ち、牛糞の堆肥で田や畑が肥え、作物がよく育ち、害虫がつきにくいと感じていました。私の家では農業において減農薬の良いサイクルが構築されていたのです。」

 エ 牛への愛情

 「牛を育てていく中で、私に懐いた牛がいました。その牛は私が牛舎へ行くと、まるで『背中を掻(か)いてくれ。』と言わんばかりに私にすり寄って来ていました。その牛は肉牛として出荷する際には最上ランクに位置付けられたので、私は『牛には心を込めて、手をかけて世話をするものだ。』と思ったことを憶えています。
 ただ、牛は売られて家を離れるときになると、とても嫌がります。トラックの荷台に乗るのを嫌がってなかなか乗り込もうとせず、何度もこちらを振り返って見つめてくるので、牛との別れは本当に辛いものでした。私は牛を牛舎から出して荷台に乗せるときに嫌がる牛を見て、主人に、『お父さん、これだけ嫌がるのだから売らずにもう少しここに置こうや。』と言ったことがありました。心を込めて世話をすることは大切なことですが、商品として飼っている以上、情が移ってはいけないということなのです。主人からも、『生きものを飼うときには、あまり情を移さないことが大切だ。』と言われていましたが、長い間世話をすると、どうしても情が移ってしまって、嫌がる姿を見て、『かわいそうに。』と思うことがしばしばありました。」

写真2-1-6 牛舎内部の現況(2階部分)

写真2-1-6 牛舎内部の現況(2階部分)

稲藁など、牛の餌が保存された。鬼北町。平成28年10月撮影