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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 駅のすがたの変化

(1)駅の賑わい

 通勤・通学の列車やお祭りの際の交通状況について、Cさんは次のように話してくれた。

 ア 通勤・通学

 「昭和20、30年代には、自動車がまだ普及していなかったので、通勤や通学の際には多くの人が列車を利用していました。朝夕の通勤・通学の時間帯は貨客の混合列車ではなく、朝は客車のみの4両編成にしていたことを憶えています。宇和島へ向かう場合、近永駅ではまだ乗客がそれほど多くなかったので座席に座ることができましたが、伊予宮野下(いよみやのした)駅(宇和島市)に列車が到着するころには、通学の生徒が大量に乗り込んでいたので、客車に乗り込むことすら大変でした。
 乗客は、宇和島へ行かれる方がほとんどでしたが、水分(みずわかれ)経由の国鉄バスもあったので、そちらを利用する人もいました。この路線は昭和26年(1951年)に開通し、日吉、三島、泉(いずみ)(現鬼北町)辺りからバスを利用して登校する高校生がかなり多かったので、そのときには2台のバスが一緒に走っていました。」

 イ お祭りの際の客車

 「祭りのときは、乗降客が非常に多かったので、客車を増結していました。昭和30年代、近永の弓滝神社の秋祭りは、御練りなどがあって本当に賑やかでしたし、内深田(うちふかた)の大本神社は『深田の桜』として有名で、春の桜祭りの際にもかなり多くの人が来ていました。当時は、ほかに娯楽というものがそう多くなかったので、本当に祭りが楽しみでした。宇和島の和霊神社のお祭りの際は、貨車にまで人が乗り込んでいる状態でした。その貨車は無蓋車で、あまりにたくさんの人が乗っていたので、特に峠などでは車輪がスリップして線路上で空回りすることがよくあり、列車が坂を登ることができない、ということがあったことをよく憶えています。立ち往生してしまったときには、線路に砂をまいたり乗客が列車から降りて後ろを押したりしていました。」

(2)駅の無人化と切符の委託販売

 駅の無人化の理由について、Bさんは次のように話してくれた。
 「駅の合理化が、無人化が決定された大きな理由です。戦後、国鉄が、満鉄(まんてつ)(南満州鉄道株式会社)や鮮鉄(せんてつ)(朝鮮総督府鉄道)の職員、引き揚げ軍人などを受け入れていたために余剰人員を大量に抱え、それに加えて赤字経営が重なっていたので人員整理をする必要に迫られ、駅の無人化が決定されたのです。これにより、多くの駅が無人駅に変わりました。無人駅になってから、一時は委託で切符販売を続けていました。四国全体でどこかの企業が切符販売を請け負い、その企業の職員が切符を販売していました。中には、駅前のうどん屋さんが切符の委託販売をしていた所もあります。その場合には、宇和島駅に無人駅を管理する部署があり、その部署の方がうどん屋へ切符を配達していました。今でもその部署が無人駅の管理を続けています。」
 深田駅のすぐ近くで雑貨店を営んでいたCさんは、次のように話してくれた。
 「私の家でも切符の委託販売を行っていた時期がありますが、切符がなかなか売れなかったことをよく憶えています。利用客がいつ切符を買いに来るのか分からないので、家を留守にすることができませんでした。ただ、切符を購入していなくても、列車内で車掌から購入することが可能な上に、着駅で代金を支払う方法もあったので、駅前の店舗で切符を買わずにそのまま列車に乗る人がほとんどだったこともあり、切符の委託販売をやめてしまいました。」

(3)駅職員の仕事

 戦前、戦後の駅員の仕事について、Bさんは次のように話してくれた。
 「勤務形態は、日勤勤務と夜勤勤務の二つがありました。日勤勤務の場合は朝から午後5時までの勤務で、夜勤勤務の場合は翌日が休日となり、それらを交替制で行っていました。駅員の仕事は、出札掛(切符に関すること)と荷物掛(荷物や貨物、貨車、小荷物に関すること)とがありました。戦時中には踏切が機械化されていなかったこともあり、遮断機の上げ下ろしの仕事も行っていました。列車の本数が増え、遮断機も戦後のある時期から機械化されたので、少しは仕事が楽になったことを憶えています。」
 昭和30年(1955年)ころの近永駅について、Cさんは次のように話してくれた。
 「国鉄時代は比較的のんびりと仕事をすることができていました。列車数は、1日に片道で11、12便で、往復で24、25本程度ですから、列車の来る間隔が1時間以上あるときには、列車の到着の合間に同僚と碁や将棋をしていたことをよく憶えています。また、当時は除草剤がなかったので、線路の中に生えてきた草を引く仕事も、協力しながらよく行っていました。」


<参考文献>
・広見町『広見町誌』 1985