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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1)交通とくらし

 ア 道路の整備

 「昭和25年(1950年)ころ、高山-宮之串(みやのくし)間は道路が整備されていましたが、宮之串-岩井(いわい)間は岩壁が海の方へせり出しているために整備されていませんでした。海岸線の道路が三瓶(現西予市三瓶町)まで整備されたのは昭和33年(1958年)のことですが、宮之串-岩井間の道路建設は難工事であったことを私(Cさん)はよく憶えています。」
 「高山本浦と田之浜とを結ぶ道路が開通したのは昭和28年(1953年)のことで、それまではきちんと整備された道はありませんでした。また、交通手段があまりなく、木炭車が主流だったので坂道を進むときには本当に苦労したことを私(Dさん)は憶えています。」

 イ 自転車が移動手段の主流

 「昭和30年(1955年)当時の道はガタガタの砂利道で、まだ舗装されていなかったことを私(Cさん)はよく憶えています。現在と違って自動車が普及しておらず、荷物はリヤカーで運搬し、主な移動手段が自転車という時代でした。高山には自動車が2台しかなく、1台は石灰業を営んでいた方が所有していた『バタンコ』という三輪の自動車、もう1台は製材所が所有していたトラックで、木炭を燃料としていました。自転車で憶えているのは、自転車に乗った助産師の方が往診などの際に砂利道を移動していたということです。また、タイヤのサイズが28インチと非常に大きかったことから、当時私たちが『ハチ』と呼んでいた自転車がありました。子どもは全く足が地面に着かず、大人でもつま先立ちをしてようやく足が着くほどの大きさだったので、乗っている人はよく怪我(けが)をしていたことを憶えています。」
 「当時、自転車がたくさんある訳ではなかったので、誰かが自転車を買ったという情報があれば、みんなでその方の家へ行って、『乗せてくれ。』とよくお願いしたものです。そのときには、全員が交代で自転車に乗っていたことを私(Eさん)はよく憶えています。」

(2)水とくらし

 「高山には井戸がたくさんあります。昔から高山でくらしている方の家にはだいたい井戸が掘られています。」とFさんは話してくれた。現在は埋め立てられてしまった井戸もあるが、かつては高山六区だけで20以上の井戸が掘られていたという。また、実際にマンホールとして活用されている井戸もある。井戸の利用について、地域の方々は次のように話してくれた。

 ア 井戸の共同利用

 「個人で掘った井戸もありますが、大抵は共同で使用していたことを私(Dさん)は憶えています。井戸の深さは6mくらいなので、それほど深くはありません。機械でボーリングするなら10m以上掘れますが、高山の井戸は全て手掘りです。ただし、鉄分が多く含まれています。」
 「一つの井戸を5、6軒が共同で使用していたことを憶えています。私(Cさん)がくらしている宮野浦地区の井戸の深さは4mくらいで、上から井戸を覗(のぞ)くとかなり深く見えますが、実際に測ってみると、そうでもありません。高山の銘酒『鴨川』がおいしかったということは、よほど良質の水が取れる井戸を使用していたのだと思います。」
 「年中行事の一つとして、旧暦の7月7日前後には井戸替え(井戸の内部を清掃すること。井戸浚(さら)いとも言う。)をしていました。共同井戸では隣近所総出で行い、作業中は道に水が溢(あふ)れるなどお祭り騒ぎでした。作業が終わると井戸の周りに塩と酒を撒(ま)き、『井戸神様』を祀る小さな祠(ほこら)にもそれらをお供えし、豆腐とイリコをつまみにしてみんなで一杯やっていたことを私(Bさん)は憶えています。上水道ができてからは井戸や祠は姿を消しましたが、井戸神様は今でも崇(あが)められていますし、盆や正月には井戸があった所にお供えやウラジロが飾られているのを今でも見受けます。」
 付記 昭和21年(1946年)12月21日に発生した南海大地震は人々の生活に甚大な影響を与え、「地盤沈下によって、町内の井戸に海水が混入して、生活用水としての使用が適さなくなる一方、伝染病発生の虞(おそ)れもあって、町民の保健衛生上、もっとも憂慮(ゆうりょ)すべき事態(③)」となった。昭和25年(1950年)、建設省(現国土交通省)が地盤変動事業として被害地域に対して簡易水道の敷設を勧奨(かんしょう)すると、高山村でも同年に敷設工事に着工し、西川上流に水源地を選定して鑿井(さくせい)(石油や地下水などの採取、探査のため掘られた井戸)を新設し、城の森に配水池を設けてポンプ揚水して翌年から給水を実施した。現在は住宅となっている(図表1-2-3の㋩、写真1-2-8参照)。

 イ 高山銘酒「鴨川」

 「二級酒として醸造された『鴨川』は甘口で、一級酒よりもおいしかったことを私(Dさん)はよく憶えています(写真1-2-9参照)。二級酒というのは、高山醸造は規模が小さく大量生産できなかったため、一級酒に認定されなかったということです。また、当時は交通状況が今とは全く違っていて、他(ほか)の場所から取り寄せるということをあまりしなかったので、高山の商店で販売されている二級酒は『鴨川』しかありませんでした。」
 「当時、石灰鉱山で採石した後に、たくさん積もって残った土や屑(くず)石をザルにすくい取って清掃をする『込み掃き』という仕事を1日行ったときの日当が200円で、『鴨川』の価格が500円でした。誰かが、『酒飲もうや。』と言ったときには、給料袋をそのまま出さなければいけなかったので、普段は合成酒や焼酎ばかり飲んでいたことを私(Cさん)はよく憶えています。」
 「『鴨川』は高価で、祝言(結婚式)や家の新築のときなどに御祝儀(木箱、一升瓶10本入り)として持っていくと、『上等な物をいただいた。』と喜んでもらったことを私(Bさん)は憶えています。また、高山醸造や孫店(まごみせ)では『鴨川』の一杯売り(コップ一杯分のみを販売)や、お客さんの求めに応じて一合から一升未満売りもしていました。」

(3)電気とくらし 

 大正8年(1919年)、俵津村、狩江村、高山村(ともに現西予市明浜町)の3か村に初めて電気の供給が開始され、各地に給電所及び散宿所が設置された。高山散宿所は昭和38年(1963年)に閉鎖され、狩浜に開業した明浜町営業店に統合されたが、それまでは高山への電力供給の要として地域の方々と密接に関わっていた。

 ア 散宿所の記憶

 「郵便局の北側に散宿所がありました(図表1-2-3の㋪参照)。昔は電球を使用していて、電線を家の中まで直接引き込み、ヒューズと電線を繋いでいました。当然ブレーカーはありません。当時は電気を使用できる量が非常に少なく、150ボルト以上使用したときにはヒューズが切れてしまっていました。そのようなときに修理をしに来てくれたのが散宿所の職員の方でした。現在なら、ブレーカーが落ちればスイッチを入れ直すだけで電気が点(つ)きますが、当時は新しいヒューズを各自が持っている訳ではなく、自分で修理をすることができなかったので、散宿所の職員の方の存在は本当にありがたかったことを私(Cさん)は憶えています。また、散宿所では電球の販売も行われていましたし、電信柱の電線の管理も行っていました。その意味で、散宿所は当時の私たちの生活と切り離して考えることができない大切な存在でした。なお、岩井地区に電気が点いたのは昭和29年(1954年)のことで、道路の整備と同時に電灯事業が行われたことを憶えています。」

 イ 電話についての記憶

 「高山は養蚕が盛んで大量に電気を必要としたので、かなり早い時期に電気が点きましたが、それに対して電話の数が少なく、駐在所や役場くらいしか電話がなかったことを私(Dさん)は憶えています。当時、私の家には電話がなかったので、電話のある所へ行ってかけたり、電話番号を相手に教えたりといったことをよくしていました。電話がかかってきたときには、電話を所有している家主の方が私に知らせてくれ、電話の所まで急いで行ったものです。」

(4)高山小学校の記憶

 西予市立高山小学校は、明治7年(1874年)に庄屋の長屋門の一角を借りて高山簡易小学校として開校された。同23年(1890年)の町村制実施の際、本浦字フケ(現高山西集会所北側)に移転して高山尋常小学校と改称されるとともに、同27年(1894年)に高等科を設置して高山尋常高等小学校となった。現在地へ移転したのは経済不況中の昭和5年(1930年)のことである。
 戦後は昭和27年(1952年)の宮野浦小学校の統合や高山地区の人口増加もあり、明浜町が誕生した同33年(1958年)に旧村役場庁舎の一部を仮教室として使用(第三校舎)するとともに2階建て校舎1棟(第二校舎)を急増新築し、明浜町立高山小学校と改称された。その後、平成16年(2004年)の西予市誕生とともに西予市立高山小学校となったが、人口減少に伴う児童数減少のあおりを受け、平成27年(2015年)に俵津小学校、狩江小学校、田之浜小学校(ともに西予市立)と統合されることになり、約140年に及ぶその歴史を閉じた。
 昭和30年(1955年)ころまでの高山小学校について、地域の方々は次のように話してくれた。

 ア 校舎の記憶

 「昭和5年(1930年)に建てられた最初の第一校舎は、木造2階建てだったことを私(Aさん)はよく憶えています(図表1-2-3の㋫参照)。廊下には、私の親戚が寄贈した大きな振り子時計が置いてあったのですが、どこに行ってしまったのか、今は分からなくなってしまっています。また、私が通っていたときには第二校舎はなく、その場所には私たちがよく『講堂』と呼んでいた建物がありました。
 昭和30年代には、現在体育館がある場所に木造2階建ての第二校舎が建っていて、その西側に校舎に沿って南北に道が続いていました。現在は橋を架けて川向こうに道が続いていますが、これは昭和51年(1976年)に体育館を建設する際に整備し直したものです。また、あじき医院がある所(高山小学校東側)はこのころは池でした。池の南側(現在あじき医院の駐車場)には二つ建物があり、手前(高山小学校側)が旧村役場の建物、その奥が高山小学校の第三校舎で、確か木造2階建てでした。旧村役場の建物は当時も残っていて、校舎としてそのまま使用していました。」
 「第一校舎の西側には道路に沿って別棟にトイレがあり、校舎とは土間でつながり、外からの出入り口もありました。トイレの戸口上部に『尋一〜尋六、高一、高二、男子、先生』と書かれた札が掛かっていて、女子用トイレは学年に一つしかなかったので、足踏みをして待ったことを私(Bさん)は憶えています。男子用トイレは女子用トイレに背を向ける形で設置され、学年制限はありませんでした。また、トイレと講堂との間に物置(木炭や掃除用具等を常備)があり、これは後に物置前の空き地を足して炊事場に変わりました。第一校舎の裏側には1間(約1.8m)ほど離れた所に高い石垣があり、その付近が6年生までの実習地でした。実習地は学年ごとに割り当てられ、綿やソラマメ、花などを思い思いに育てました。また、昭和37年(1962年)には楽焼窯が設置され、お皿や湯呑みなどを作ったことを憶えています。」
 「昭和42年(1967年)に木造校舎から鉄筋コンクリートの校舎に改築する際、その廃材を活用して家を建てた方がいたことを私(Dさん)は憶えています。高山には、そのとき建てられた建物がそのまま残っている所がたくさんあります。」

 イ 宮野浦から登校

 「昭和21年(1946年)、宮野浦でくらしていた私(Cさん)は、小学校6年生の2学期から高山小学校へ通い始めました。これは、戦後の学制改革によって高山中学校が創設され、宮野浦小学校の校舎が当てられたためです。小学校3年生以上が高山小学校へ通学することになり、教室のあった第二校舎の1階まで、宮野浦から机とイスを自分で運んだことをよく憶えています。」

 ウ 今と異なる正門付近

 「現在の高山小学校の正門付近は昔運動場の片隅で、土地はもっと高かったことを憶えています。この運動場の片隅から道を隔てた東側には湧き水が出ている民家があり、掃除の水や飲み水としてよくもらいに行きました。また、当時の正門は『あじき医院』の近くに立っている門柱辺りにあり、校舎寄りの門柱近くには大きなポプラの木が聳(そび)えていました。
 戦前には現在の池の中ほどに奉安殿(各学校で、御真影や教育勅語などを収めていた建物)があり、集団登校した私(Bさん)たちはその前で整列して、班長(高二)の『気をつけーえっ!れーいっ!』の声で最敬礼し、教室へ入りました。」
 Aさんによれば、奉安殿は昭和8年(1933年)に藤井藤之丞石灰工場の方が寄贈したもので、戦争が終結した昭和20年(1945年)に取り壊されたという。

(5)公民館の建設と活動

 「高山小学校の第一校舎の北側にあった最初の高山公民館の整備は、昭和25年(1950年)に私(Aさん)たち青年団が行いました。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、青年団がヒノキの木の樹皮を持ち寄り、全員で葺(ふ)いていきました。公民館の建物は東西に長く、東側の1間から1間半(1.8mから2.7m)が公民館、真ん中の広いスペースが集会場、西側の残り1間ほどが宿直室というように、三つに区切られていました。それまでは金剛寺に集まって集会を開いていましたが、公民館ができることで話し合いがやりやすくなり、青年団の活動がより活発になっていったことをよく憶えています(図表1-2-3の㋬参照)。」
 「公民館での青年団活動は、衛生的なことが多かったように思います。トイレも現在のようにきれいなものではなく、各家のトイレは外からまる見えでした。青年団がトイレの消毒を月に3回ほど行っていて、そのときには、トイレの隅から隅まで消毒液を撒いていたことを私(Cさん)はよく憶えています。保健所ができてからは、保健所がその役割を担うようになりました。
 また、団体活動として歌謡大会やスポーツ行事などを開催したり、選挙の準備をしたりしていました。公民館は社会教育の拠点で、学校教育とはまた違ったことを学べる意義があったと思います。」


<参考引用文献>
①明浜町『明浜町誌』 1986
②明浜史談会『明浜こぼれ話』 1980
③明浜町『明浜町誌』 1986

<その他の参考文献>
・宇都宮長三郎、二宮章『高山の家号、家紋外調査』 1985
・愛媛県『愛媛県史 芸術・文化財』 1986
・角川書店『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』 1991
・田中貞輝『宇和島藩領 高山浦幕末覚え書Ⅰ、Ⅱ』 2009、2015

写真1-2-8 揚水ポンプがあった建物

写真1-2-8 揚水ポンプがあった建物

平成29年12月撮影

写真1-2-9 「鴨川」の看板

写真1-2-9 「鴨川」の看板

平成29年9月撮影