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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 宇和島自動車で働く

(1)宇和島自動車への入社

 「終戦後、私(Aさん)は三瓶(現西予(せいよ)市三瓶町)へ帰ってから運転免許を取得し、農業などの仕事を経て昭和33年(1958年)に宇和島自動車へ入社しました。入社後4年ほどしてから、バスの運転手として三瓶へ帰ることができました。それまでは、八幡浜でも勤務しましたし、トラックのドライバーの仕事もしました。宇和島から高松(たかまつ)(香川県高松市)や宿毛(すくも)(高知県宿毛市)まで荷物を運んでいたので、知らない道はないと言っても過言ではないくらいでした。」

(2)運転手として

 ア 経験を積む

 (ア)トラック運転手として

 「当時はバスの運転手として登用する前に、トラックの運転手としての経験が必要だったようです。人を乗せる前にトラックで荷物を運ぶ仕事を任せて、大型車に慣れてもらうためだと思います。トラックの運転手として経験を積み、運転の技能が向上して、これならバスの運転手を任せられると判断されるとバスの運転手として乗務できるようになっていました。私(Bさん)の叔父もこのように経験を積んでからバスの運転手として勤務していました。」
 「宇和島自動車が保有していたトラックは大型のトラックだったので、経験を積むには良かったと思います。中予運送(現四国名鉄運輸株式会社)と宇和島自動車が所有するトラックは県内でも大きなトラックとして有名になるほどでした。私(Aさん)が乗務していたトラックも3人乗りの大きなトラックでした。」

 (イ)路線を走る

 「宇和島から高松まで荷物を運ぶときには、新居浜(にいはま)で1泊して、翌日高松に到着して荷物を降ろし、高松でも1泊してから朝早い時間に出発して、宇和島まで帰るという行程でした。宇和島から高松の間には、委託された荷物取扱店が数十か所もあり、往路、復路ともに大量の荷物の積み降ろしをしていました。運転で疲れている上に、たくさんの荷物をどのように荷台に積むと効率的か、ということを考えながら仕事をしなければならず、大変ではありましたが、充実していたと思います。私(Aさん)は、仕事を通して、この時期の国の経済成長を実感していました。」

 イ バス運転手として

 (ア)地元で働くことの喜び

 「昭和37年(1962年)に八幡浜から三瓶へ帰らせてもらって、三瓶という私(Aさん)にとっての地元で勤められるということは本当に楽しく、幸せに感じていました。昭和40年(1965年)ころ、三瓶の営業所には運転手が8名在籍し、八幡浜路線のバスは1時間に1本程度で運行され、どの時間帯のバスも大勢のお客さんが乗っていて、穴井から通学している三瓶高校の生徒や、盆や正月には子どもを連れた帰省客が大勢乗っていました。
 当時はまだ、自家用車の普及率が低く、どこかへ出かける方はバスを利用することが多かったので、大勢のお客さんが乗る便では、『これ以上乗ったらドアが閉まらんけん、乗るのをやめてくれ。』と、お客さんにお願いをしなければならないこともあったほどです。それでもお客さんが乗り込んでくるので、バスの中は超満員の状態となり、車掌さんは扉を閉めるのに一生懸命で、『もうこらえてください。後の便にしてください。』とお客さんにお願いしていたことが印象に残っています(図表3-2-2参照)。」

 (イ)勤務形態

 「私(Aさん)たちの勤務形態には拘束と実働の二つがありました。実働というのは例えば、三瓶から八幡浜へ行く便の正味の運転時間を指します。当時、三瓶-八幡浜間が55分かかっていたので、この場合、55分の実働となります。拘束は、朝出勤して夕方退社するまで、その間はバスに乗務していようが休憩を取っていようが、その時間が8時間を超えると勤務時間として認められるという勤務形態でした。実働は7時間半乗務していれば、それを超過した時間分は30分にいくら、1時間にいくらというように手当が付く勤務形態でした。
 三瓶始発のバスは6時ころだったと思います。そのバスに乗務するには5時には起床をしなければなりませんでした。勤務時間を実働にするか拘束にするかについては、『今日はどこそこを走るけん、拘束の方が都合がええけん拘束にしよう。』などと、自分の都合の良い方で選択することができました。三瓶-八幡浜間の路線は、今なら30分ほどで行ける距離ですが、当時は55分ほどかかっていました。八幡浜まで運行して、そこで20分から30分の休憩を取って三瓶へ帰る便に乗務していました。三瓶行きの最終のバスは、八幡浜を22時ころに出て、海岸線を経由して23時ころに到着していました。運転手の勤務は交替制だったので、夜の勤務のときにはこの便を運転することがありました。夜間に運転をすることが怖いということはなく、どこの道を走るのにも自信を持って運転をしていました。ただ、お客さんが多く、気を遣うことが多かったので精神的に疲れるということはあったと思います。
 勤務時間が長くなる貸切バスに乗務するときには、拘束での勤務を選択した方が運転手にとっては有利でした。朝出発したら目的地の宿泊所に到着するまでの間、船の中や途中の観光施設で休憩しても拘束の内に入っているので、超過分の手当が多く支給され、時には基本給よりも手当の方が多くなるというようなことがありました。」

 ウ プロ意識

 (ア)車体の点検

 「運転手には1台ずつ担当の車(バス)が割り当てられ、自分の乗務するバスは分かっているので、わが子のように大切に扱いました。大切な車であり、お客さんを快適に目的地に運ぶ仕事なので、きれいに洗車をして車体を磨き、不備がないように徹底的に点検をしていました。毎日のように整備をしていたので、車体はピカピカに光っていたことを憶えています。また、整備士だけではなく、運転手もちょっとした整備を行っていました。当時の道は凸凹で、タイヤや車体への負担が大きく、タイヤの振動を吸収するスプリングが折れたり、タイヤに不具合が生じたりするようなことがありました。そのような場合には、各営業所に1人か2人は整備士が常駐していましたが、自分が担当する車なので、私(Aさん)も一緒に手伝って交換や修理の作業をしていました。
 乗務するときは毎朝車体の点検を行ってから出発します。私たち乗務員はハンマーでタイヤを叩(たた)くと、その音でエアが多いか少ないかがすぐに分かるほどでした。また、タイヤの溝があるかどうかや、オイル点検など、安全な運行に必要な箇所を全て点検していました。また、運転席に座って、ブレーキやハンドルの異常がないかどうか、エンジンをかけて異音がないかどうかなど細部まで確認を行っていました。」

 (イ)安全運転

 「私(Aさん)は、先輩の運転手から、『運転手として一番大切なことは、貨物を積んでトラックを運転しているのではない、という意識を常に持ち、お客さんには急ブレーキや急発進などで、乗車中に不愉快な思いを持たせてはいけないということである。』と、教えられていました。技術的なことになりますが、バス停など目的地が近づいてくると、その手前から徐々にスピードを落としていき、目的地に到着するときにはバスが自然に止まるというような感覚で運転をすることが大切でした。バス停でバスを急いで止めて、『さあどうぞ降りて下さい。』という運転ではなく、お客さんにとって優しい運転をすることに細心の注意を払う必要があったということです。また、出発するときは、前方に40%、左右後方にそれぞれ20%ずつの割合で注意を払いながら確認を確実に行って運行していました。お客さんを安全に目的地まで運ぶ、ということが仕事であったので、運転に際してはこれらの安全に関する確認などは習慣となっていました。私は、『これらのことが確実にできなければ、お客さんを乗せてバスを走らせる資格がない。』と常に心に思いながら、運転手という仕事をしていました。
 また、初めてバスを走らせる道路については、気を付けなければならない箇所を頭に入れながら運転をしていました。また、運転手同士でもそれぞれが走った路線について、『あそこがこうなっとるけん、気を付けよ。』というような情報交換を行っていました。私は路線を一度走ると、路線のここはこういう状態になっている、ということが分かっていたので、会社の後輩の運転手から色々と相談や質問をされると、先輩として、『そういうときにはこうしたらええ。ああしたらええ。』というように丁寧に教えていました。
 市街地便に多く乗務する運転手は、郊外便に乗務するときに、道路状況について分からないことが多くあり、『郊外へ出るのはいやぞ。』という運転手もいたくらいです。やはり、お客さんを運んでいるということが第一にあったと思います。貨物であれば車体が少々揺れても問題ありませんが、お客さんを乗せている場合は、乗り心地に気を配り、悪路であってもあまりフラフラと車体を揺らすことはできなかったのです。お客さんが乗り心地を悪く感じるのは運転手の責任であるから、上手に運転をしなければならないという意識を強く持っていました。私は自分なりにカーブの多い所はスピードを出すことなく、ゆっくりと走り、お客さんが、『あそこのカーブいつ曲がったんやろ』と思うくらい車体を揺らすことなく慎重に走り、直線部分など安全な所では通常通りのスピードで走っていました。安全な直線道路で速くバスを走らせることは、お客さんにとってみれば当たり前のことだったので、路線の中でスピードを調節しながら30分なら30分で、1時間なら1時間で、時間通りに運行できるように調整していました。お客さんの声は運転手にも入って来ていて、運転手がスピードを調整せずに運転をしていると、『あの運転手さんのバスには乗りたくない。』というお客さんが出てきていたので、運転手によるスピードの調節は大切な仕事でした。」

 (ウ)伊方原発

 「四国電力からの依頼で、伊方(いかた)原発(1号機は昭和48年〔1973年〕着工、昭和52年〔1977年〕営業運転開始)の従業員を宇和島自動車や伊予鉄道のバスやタクシーが運んでいました。私(Aさん)は、大型バスを運転して川之石(かわのいし)(現八幡浜市保内(ほない)町)から従業員を運んでいましたが、バスに乗っている従業員から、『このバスは大きいが、あの狭い道を通れるかな。』と心配されるような所を運転していました。私は一度運転して走った経験があったので、運転には自信がありましたが、原発に続く道が狭いことから、他の運転手からは、『あんな大きなバスであの道を走られたら、私らはよう走らんけん困る。走れる運転手と走れない運転手ができたらいかんけん、大型バスは使わんように、Aさん、遠慮してくれ。』と言われたことがありました。
 原発へと続く道には、1か所だけ通行が難しい所があったので、私は他の運転手に対して、『手前から大きく回して行かなんだら、切り替えないかんようになる。そうなったら動けんようになってしまうぞ。』というようなアドバイスをしていました。私はどのようにハンドルを切ればうまく曲がれるかということが分かっていたので、運転には自信満々でした。」

 エ 協力して動かすバス

 (ア)道路工夫さん

 「当時の道路状況は今では考えられないようなもので、舗装された道がなく、ほとんどが砂利道で道幅が狭い細い道路でした。雨が降ると道路に窪(くぼ)みができますが、そのときには道路工夫さんが要所要所にあった砂利置場から窪みの所まで砂利や土を持って行って流し込んで埋め、平坦な道路を維持してくれていました。円滑なバス運行のために少しでも道路の状況を良くしようと、暑い中を裸になって作業をしていたことを憶えています。
 私(Aさん)は運転手として安全にバスを運行することができ、道路工夫さんには本当によくやってもらったと今でも感謝しています。三瓶にも道路工夫さんとして仕事をされていた方がいました。私はこの方に、『いつでもかまんけん、バスに乗ってくださいよ。』と言って感謝の気持ちを表していたことをよく憶えています。その方は真面目で几帳面(きちょうめん)な方だったので、公私混同となるような形でバスを利用することはなく、自転車で移動することが多かったようです。」

 (イ)バスガイドさん

 「貸切バスでは九州一円、広島、山口、島根などの中国地方、一番遠い所で東北の仙台(せんだい)の方まで運転して行ったことがあります。観光バスの運行は、会社があらかじめ行程を決めてくれています。九州へ渡るフェリーは宇和島運輸を使うか、三崎(みさき)から国道フェリーを使うか、本州へ渡るフェリーについても、高松から乗船、松山(まつやま)から乗船というように指定されていました。
 しかし、貸切バスの乗務では、知らない道を走ることが多く、えらかった(しんどかった)と思うので、当時、現地の専門の会社へ委託をして乗務してもらっていたバスガイドさんにはとても感謝しています。
 例えば、三瓶から別府(べっぷ)へ観光バスを運行した場合、別府に到着してから、現地で専門的にガイドを行っている方を乗せていました。どのルートを通って何時にどこへ行って、というような観光ルートの詳細を事前に伝えておくと、そのガイドさんが観光ルート通りにバスを運行することができるように案内してくれていました。私(Aさん)たち運転手が道に不慣れな場合でも、現地のガイドさんがうまく案内してくれていました。ガイドさんはバスが向かう先を確実に把握していて、時間通りに到着することができるよう、『次の交差点を左に曲がりますからご注意ください。』というようにルートを選んで教えてくれていました。私たち運転手も一度案内を受けるとそのルートが頭に入り、次回観光バスに乗務したときにはガイドさんに頼ることなくバスを走らせることができたので、このガイドさんの案内には大変助けられたと思っています。」

 (ウ)車掌さん

 「運転手は直接お客さんと関わりませんが、直接関わる車掌さんは切符の販売や車内での座席を巡る問題などで、お客さんとの間にトラブルが起こることがあり、このようなときには、運転手は車掌さんとお客さんとの間に入って、トラブルを解決させる役割がありました。車掌さんは社内でしっかりとした研修を受けて乗務していますが、切符を切るのも大勢のお客さんに1人で対応しなければならず、手が回らない状態になったこともあると思います。そのようなときに支払いやお釣りの受け渡しでトラブルが起こることがあり、大変だったと思います。
 私(Aさん)が運転手になったころ、車掌さんは販売した切符1枚ずつにパンチで穴を開け、お客さんに手渡していましたが、お客さんの数が増えてくると、短い時間で処理できるように10円券や100円券というように金額が記された数種類の切符に改められ、行先に応じて必要となる金額分の切符を運賃と引き換えに手渡す方式に変わっていきました。車掌さんの仕事は本当に大変だったと思います。」

(3)バス路線

 ア お客さんの声

 「当時、三瓶からのバス路線は八幡浜、卯之町、高山方面行きがありました。私(Aさん)は貸切バスにも乗務しましたし、定期便にも乗務しました。貸切バスの運行は毎日ではなかったので、定期便の合間に貸切に乗務するという形態でした。また、三瓶営業所に所属するバスの中でも、新型の良いバスに乗務させてもらっていました。旧型のバスは、サスペンションが板バネの構造(リーフ式サスペンション)でしたが、私が乗務していた新しいバスには空気バネを取り入れたエアサスペンションが採用されていて、乗り心地が柔らかく、道路の凸凹を通過する際にもお客さんの身体に響くような車体の揺れなどをあまり感じさせないものでした。私はそのバスを運転して八幡浜から三瓶、そして宇和島まで運行していましたが、このバスがバス停に止まると、乗り込んでくる乗客から、『ええバスが来たぞ、これ乗ろぜ。』という声が聞こえていました。
 吉田(よしだ)辺りまでは一本道が続きますが、吉田に入ると国道へ合流し、松山や宇和島への直通のバスが運行されていてバス便がたくさんあったので、私が運転するバスが停留所に止まっても、『このバスは遠くから来てお客さんが多いけん、後のバスに乗ろや。これに乗らんでもすぐに来よる。』というような声が聞こえていました。多くのお客さんが乗っているときに、停留所でバスを待つお客さんからこのような声を聞くと、『バスの混み具合まで理解していただいてありがたいことだ』と思っていました。私が長距離の区間を乗務していたときは、どの便もお客さんが多く、満員近く乗っていたことをよく憶えています。三瓶から下泊、下泊から高山方面へ行き、その先の渡江(とのえ)や俵津(たわらづ)、法華津(ほけつ)や立間(たちま)を経由してから吉田へ入り、そして知永越(ちながこし)を経て宇和島へという路線に毎日乗務していましたが、本当にどの便にも多くのお客さんが乗っていました。同じ路線で毎日乗務するので、お客さんのお名前までは分かりませんが、顔を見るとそれぞれのお客さんがどの停留所まで利用するか、『この方は三瓶のどこそこのお客さん、この方は皆江(みなえ)、この方は蔵貫(くらぬき)』というように、すべて把握できていました。もちろん、三瓶から八幡浜への海岸線経由の路線でも、垣生や周木(しゅうき)、穴井、真網代(まあじろ)、川上(かわかみ)、合田(ごうだ)、舌間(したま)など、すべての停留所についてどこのお客さんかを把握していたのです。もちろん、お客さんの方も私たち乗務員の顔と名前を覚えてくれています。『あっ、今日はAさんの運転やった。』というようなことをお客さんから話かけられていたことをよく憶えています。名前と顔をお客さんに覚えていただくことは、運転手として本当にありがたいことだと思っていました。仕事で疲れを感じることが多かったですが、バスに乗務していると、少しではありますが、お客さんとのやりとりがあったので、楽しく乗務できていたと思います。
 また、バスの運行が運転手と車掌のツーマンから、運転手のみのワンマンに変わると、運転手がマイクを付けて停留所の案内をするなど、お客さんとコミュニケーションを取ったり、さらに、運賃箱に投入される金額を確認したりするなど、余計に気を遣わなければならなくなったことを憶えています。
 しかし、最近の話にはなりますが、『あなた、バスに乗っていたAさんでしょ。』と声を掛けられたことがありました。私は声を掛けてきた方が誰なのか分かりませんでしたが、その方から、『私はよくバスを利用していたので覚えていますよ。お世話になったのでよく覚えているのですよ。』と言われました。退職をして何十年も経(た)っているにも関わらず、このように声を掛けていただけたということは、運転手として仕事をしてきた私にとっては、とてもうれしいことでした。」

 イ 路線

 (ア)三瓶からの路線

 「三瓶から八幡浜への路線は、谷(たに)・釜の倉(かまのくら)線、横平線、和泉線、海岸線の四つがありました。私(Bさん)が中学生か高校生のときにはAさんが運転手として乗務していたバスに客として乗ったことがありました。谷・釜の倉線、横平線、和泉線はすべて山間部を経由する八幡浜行きのバスですが、布喜川(ふきかわ)で合流し、それ以後は同じ路線を走って八幡浜へ向かいます。当時は谷、横平、和泉の各地区にも、バスを利用する人がいたので路線がありました。」
 「子どもの小学校の関係もあったのではないかと思います。鴫山(しぎやま)にはバスが通っていなかったので、子どもたちは学校へ行くのに、バスの時間までにきちんとバス通りにある停留所まで来ていたことを私(Aさん)は憶えています。」
 「宇和(うわ)へ行く道は、今の停留所から警察官派出所まで行き、そこを右に曲がってその突き当たりを左に曲がり、それからは旧道を走り、授産場から真っ直(す)ぐ山道へ入って行っていました。この路線にある、宇和へ抜けるために造られた三瓶隧(すい)道は、狭いトンネルなので対向車が来ると入り口でその車が抜けるまで待たなければならなかったことを私(Bさん)は憶えています。
 この三瓶隧道は、海運業で財を成した宇都宮さんが私財を出して建設したトンネルです。このトンネルは、所在地は宇和ですが、三瓶の方が建設費を多く拠出していることから名称が三瓶隧道となったそうです。」

 (イ)城辺・宿毛への路線

 「当時は城辺(じょうへん)へ行くにも1泊する行程でした。現在の国道56号や宇和島道路を通ると早く行くことができますが、当時、バスは三浦半島の端(はな)を回って運行されていたので、昭和40年代の前半ころでもかなり時間がかかっていました。私(Bさん)は、城辺へ行ったときには、城辺荘という宿で宿泊をしていたことを憶えています。」
 「宇和島から宿毛へは、片道走ってそこで泊り、翌日に宇和島へ帰ってくるというような運行形態でした。道路が整備されると、日帰りで楽に行き来できましたが、未整備であったころは宇和島から宿毛へ行くのにも、『やれやれ』と思いながら運転をしていました。また、1泊して翌日に帰る便を運転するときにもまた、『やれやれ』と思いながらの運転だったことを私(Aさん)は憶えています。」

 ウ 難所

 (ア)急カーブ

 「山あいの道路では、カーブに差し掛かると道路の端が削(そ)げている状態で、カーブを曲がるには大回りをしないと通ることができないような道路だったこともあり、上手にハンドルを切ってタイヤを持っていかなければ路肩から外れてしまうので、怖かったことをよく憶えています。時にはタイヤが路肩に生えている草の上に乗ると、その路肩が軟らかくなっている場合があったため、そのような可能性があるということもしっかりと頭に入れて慎重に運転をしなければなりませんでした。 
 また、バスは天井(車高)が高く、斜面から垂れ下がっている木の枝などが天井を擦ることがあったため、狭い山道を走る際には、路肩とともにバスの上側にまで気を遣わなければなりませんでした。
 八幡浜行きの谷線には三段カーブと呼ばれる急カーブがありました。当時は、『道の悪い所があった。』というよりは、『良い道がなかった。』と言った方が良いかもしれません。横平線も和泉線もバスを運行するには大変な道でした。
 私(Aさん)が乗務を始めたときはボンネットバスで、後に箱型のバスに切り替わっていきました。初めて箱型のバスに乗務しなければならないときに、『こんな四角いバスに乗れるんやろか』と、不安に思ったことをよく憶えています。
 箱型のバスは運転手が車体の一番前に位置します。つまり、前輪より運転手である自分の方が前方にいる形となり、急カーブを曲がるときなど、車輪は道路に残っていても、自分はガードレールのない道から外れた所に身体があるような感じがしていたのです。ボンネットバスはボンネットがある分、運転手が後ろに位置していましたが、箱型のバスはそれとは全く違っていたので、運転手の誰もが不安を感じていたと思います。カーブを曲がる感覚一つにしても、自分が道路を外れた位置にいても、タイヤが道路に残っていれば落ちることはないという感覚を持つまでに時間が必要でした。慣れるには、まず、カーブのどの辺りにタイヤが位置しているか、を頭に入れていかなくてはならなかったことをよく憶えています。」

 (イ)狭い路地
 
 「海岸線のバス路線は、最初は周木止まりで穴井までは通っていませんでした。八幡浜まで路線が延びてからも穴井や舌間には道幅の狭い難所がたくさんありました。集落の中の道路では、両側の家の軒先が出ている状態で、バスがその軒先に当たって瓦を落としてしまった、という話を私(Aさん)はよく聞いていました。
 バスがよく接触してしまう家があったようですが、家主さんも慣れてしまったのか、怒ることもなく、『ええよ。ええよ。』と言って、ほとんど何も言うことはなかったと聞いています。どうやら、いつもバスに乗せてもらっていて、とてもお世話になっているということがあったようです。」
 「私(Bさん)も11tダンプを運転して通ったことがありましたが、川名津(かわなづ)の農協があった場所が一番狭かったと思います。夜、川名津を走るときには暗い中をミラーなどで確認しながら、『行けるか行けないか、いや行ける。ええい。』というような感じで通過しなければならないほどでした。車体と建物との間隔が5cmか10cmかという状態だったので、ちょっとでもハンドル操作を誤ってしまうと、すぐに当たってしまうほどでした。」

 (ウ)台風時の海岸線

 「伊予紡績三瓶工場では、会社独自の送迎バスを持っていました。私(Bさん)は工場の運転手が休むと、その代理として高山まで送迎バスの運転をしていました。工場のバスは明浜(あけはま)の高山や宇和の明間(あかんま)まで運行していたので、工場に勤めている方は、ほとんど路線バスを利用していなかったと思います。酒六織布三瓶工場でも町外からの通勤はほとんどなく、多くが町内からの通勤だったので、通勤でのバス利用は少なかったのではないかと思います。
 私は、夜に高山までの海岸線を運転することが本当に怖かったことをよく憶えています。田之浜から岩井(いわい)の間は台風の時期になると、風雨でポロポロと岩が道路へ落ちて来て、今にも崩れてしまうのではないかと心配になってしまうのです。会社が操業しているときは、台風であっても従業員を迎えに、また、工場で仕事をしている従業員を送らなければなりませんでした。台風で会社が休みになるということは記憶にないので、ほとんどなかったのではないかと思います。」

 エ 冷房

 「私(Aさん)がバスの運転手になったころは、当然ながらバスに冷房が付いていませんでした。恐らく、昭和40年代の半ば以降に取り付けられていったのではないかと思います。
 夏場の暑い時期には、お客さんがたくさん乗って車内が暑くなるので、窓は全て開けられていましたが、道路が舗装されていないため、バスが走ることで前輪が巻き上げて立つ土埃(ぼこり)が窓から入ってくるので大変でした。特にバスがスピードを緩めて停車するときには、吹き返しのような風が起こり、土埃がその風に乗って車内まで入ってきていました。バスを一便走らせて車内の様子を点検すると、シートが土でザラザラしているというような状態になっていました。宿毛行きの便を走らせたときは特に土埃がすごかったことをよく憶えています。それでも夏場は車内に熱がこもって暑くなるので、お客さんは窓を開けていました。」
 「私(Bさん)が伊予紡に入ったのが昭和44年(1969年)でしたが、その翌年くらいにやっと会社の乗用車にクーラーが別に取り付けてられていたと思います。当時のクーラーはエンジンの回転数を上げずに低い回転数で走っていると、凍り付いてしまうものでした。クーラーが凍り付かないように上手に走らないといけなかったので、運転がさらに大変になったことを憶えています。」


<参考文献>
・宇和島自動車株式会社『第63期営業報告書(路線図のみ)』 1959
・宇和島自動車株式会社『第75期営業報告書(路線図のみ)』 1965
・三瓶町『三瓶町誌 上巻』 1983
・愛媛県『愛媛県史 社会経済3 商工』 1986
・愛媛県立三瓶高等学校社会科『わが町三瓶町 平成4年版』 1992
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・三瓶町『三瓶町ふるさと写真集 想いの足跡』 2004

図表3-2-2 三瓶営業所におけるバス利用者数の推移

図表3-2-2 三瓶営業所におけるバス利用者数の推移

『三瓶町誌』により作成。