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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 明治乳業野村工場の記憶

(1)工場で働く

 ア 工場に採用される

 「私(Dさん)は長男で、地元に残らなくてはならないということで、昭和32年(1957年)に明治乳業野村工場に入り、転職するまで5年間勤務しました。
 社員の採用には、本社採用(専門職)と地元採用(一般職)がありました。本社採用は、本社で入社テストを受けて合格した人たちで、北海道から九州まで全国異動がありました。松山の三津浜工場で働いていた人たちも、野村工場ができた時に異動してきました。本社採用と地元採用との間に職階差はあったかもしれませんが、本社採用への窓口が設けられていて、登用試験が実施されていました。希望者は試験を受けて、合格すれば本社採用に切り替えるという制度です。
 野村工場が閉鎖したとき、私はすでに転職していたので元同僚からの伝聞ですが、工場閉鎖によって職員の多くは大洲工場へ、そのほか広島工場などへ異動したそうです。また、本人の希望で事務系や営業への職種転換もあったと聞いています。」

 イ 工場での仕事

 「明治乳業野村工場で製造されていたのは、市乳(飲用乳)、バター、チーズ、練乳、ホエーです。ホエーはチーズの2次産品で、これはキャラメルなどの菓子の原料になります。市乳は、野村町内をはじめ、周辺の市町村で飲用されるものがほとんどでした。地域外には恐らく出荷されていなかったと思います。バターは、松山か東京の本社方面へ出荷していました。チーズはその種類にもよりますが、製造してからしばらく発酵室で熟成させる期間を設けなければなりませんでした。当時、製造していたチーズの種類では、チェダーチーズ、ゴーダチーズが主で、そのほかにも試作品として、スモークチーズやカマンベールチーズ、パルメザンチーズを造っていたことを憶えています。
 入社後、最初に配属されるのは牛乳の受け入れ作業でした。どのような高学歴者であろうと、ここがスタートでした。野村工場にも、東京大学や北海道大学出身の方も何人かいましたが、必ず配属されていて、ここをクリアしないと次へは進めませんでした。一通り経験させて、どこが適当なのかをある程度見てから、最終的な配属場所を決めていたのだと思います。製造関係は緻密さが求められるので、そのエキスパートになるために勉強や経験を積み、最後に、『この人はここ』という部署へ定着することになります。私(Dさん)は受け入れ作業の後、チーズ製造、練乳製造と配属され、最後は試験室へ配属されました。」

 ウ 受け入れ業務

 「工場の門を入ってすぐの所に、牛乳(生乳)の受け入れ場所があり、そこに生産者が毎日牛乳を持って来ていました。大洲の集乳所へは工場と契約している運送会社の大型トラックで毎日集乳に行っていましたが、宇和方面からは、生産者が別に契約している運送会社の中型トラックで工場へ出荷していました。個人の持ち込みもありましたが、生産者がグループを作って、1斗缶のような大きな缶に入れて持って来るところもありました。地元の方は自転車で持って来るか、集落で冷却所を設置して、そこに牛乳を集めてリヤカーで運んで来ました。すぐ近くの方は負い子に背負って持って来ていたことを私(Dさん)は憶えています。
 牛乳が持ち込まれて来ると、まず受付を行います。受付を行ったら、持って来た牛乳(原乳)の検査が行われます。一つ目の検査がアルコール検査で、直径2cmくらいのペトリ皿(シャーレ)にごく小さい柄杓(ひしゃく)のようなもので牛乳を入れて、自分たちで作った試薬によって凝固するかどうかを検査していました。二つ目の検査が酸度の検査でした。この二つの検査を行って、1等乳、2等乳と分け、1等乳と2等乳では買い取りの価格が全然違っていました。また、異物が混ざっていてはいけないので、味見もしていました。検査結果はすぐに出され、その後、乳脂肪率や乳固形分が何%なのかという検査も合わせて行われていました。それを受けて1等乳は市乳とチーズ用として、2等乳と1等乳の一部は、遠心分離機にかけて脂肪分を取り、取った脂肪分をバター用として使っていました。脱脂乳は、試作するヨーグルト用に使ったり、チーズに使うための乳酸菌培養に使用したりしていました。また、2等乳は練乳の製造にも使用していました。
 検査後、1等乳や2等乳が入った重たい缶を人力で貯乳槽まで運び、それぞれの貯乳槽へ入れなければなりませんでした。空いた缶は、ジェット噴射を使って2人で水洗いをしていました。洗った後は、水管式の大きなボイラーから出てくる高熱の蒸気で殺菌、乾燥させます。乾燥させた後、缶を生産者に返します。乾燥するまでの間、生産者の方は待っていますが、それほど長い時間はかかりませんでした。
 受け入れ作業は、今日は貯乳槽へ入れる、今日は検査、今日は缶を洗うと分担して行われていました。初めは缶を洗う仕事から任され、その仕事を何日間か行っていました。」

 エ 練乳製造

 「野村工場では、加糖練乳を製造していました。これはそのまま缶詰製品になるものと、アイスクリームや菓子の材料になるものがありました。パイプラインで大きな荒煮釜へ送り、撹拌(かくはん)しながら殺菌をし、グラニュー糖を加え、次に大きな真空釜(パン)で沸騰させて水分を飛ばしてドロドロの状態になると、温度、水分や比重等を測定、記録して、仕上げのタイミングを見極めます。比重計を見て、『これで止めていいぞ、製品になるぞ。』となったら、スイッチをオフにします。練乳ができ上がると、アルミ製の5ガロン缶(1ガロンは約4ℓ)に移していました。一杯に詰め込んで、アルミキャップをハンダ付けした後、倉庫へ運ばれ出荷まで置かれていたことを私(Dさん)は憶えています。」

 オ チーズ製造

 「チーズ製造では、まず、3、4個あった縦2m、横4.5mくらいの大きさのバットの中に1等乳を入れます。次に、培養した乳酸菌を入れます。よく憶えていないのですが、乳酸菌にもF1やF2、Dなどの種類があり、チーズの品種に合わせて入れていたと思います。2、3種類の乳酸菌を入れることもありました。当時は撹拌機がなかったので、バットの中に乳酸菌を入れたものを、人力で撹拌していたことを私(Dさん)は憶えています。
 ある程度の温度になったときに、『レンネット』という凝固剤を入れて、さらに撹拌します。その後、バットの上に蓋をして、しばらく寝かせておきます。すると、バットの中でたんぱく質が凝固して硬い豆腐のようなものができるので、一度水分を抜きます。そこに30cmくらいの切れ目を入れて、しばらく置くと、また水分が抜けます。水分が抜けると固まるので、それを『ミル』という回転する細断機にかけて、サイコロ状にカットし、そこに塩を入れて混ぜます。混ぜ終わったら、一時蓋をして、さらに固めていきます。ある程度固まったら、チェダーやゴーダであればサイコロ状のものをアルミ製の丸い型枠の中に手押しで押し込み、それをプレス機にかけて、しばらく置いて水分を落とします。ただし、途中で反転させなければなりませんでした。チーズを発酵させるときも、水分のバランスを均衡にするために、1日のうちに何回か、反転させなければなりません。それと同じように、仕事が終わって帰るころに、反転させて朝までプレス機にかけておきます。朝、水分が飛んで固まったものをプレス機から外して発酵室へ運んでいました。時々、熟成の度合いを確認するための試食がありましたが、それぞれに味わいがあり、そのときから私は、ナチュラルチーズの虜(とりこ)になったようです。
 次に、パラフィン掛けをします。パラフィン掛けとは、蝋(ろう)のような材料で、チーズの水分を逃がさないように、ある程度したらコーティングを行うことです。パラフィン掛けをしたチーズを、また一時、発酵室へ置いてから出荷となります。出荷のときには、当時は今のようなプラスティック製の箱や段ボール箱がなかったので、自分たちで組み立てた木箱に詰めていました。業者に委託していた木箱のパーツが入ると、出荷日を見据えて計画的に作っておかなければなりませんでした。どの従業員も忙しく仕事をしていたので、手の空いた者が釘(くぎ)を打って箱を作っていました。できた空箱を置いておき、出荷の際にチーズを1個ずつ箱の中に入れて蓋をします。当時はビニール紐がなかったので、荒縄で縛って梱包をしていました。輸送コストが掛からないように、トラック一杯に積み込んで出荷していたことを憶えています。」

 カ 試験室

 「製品を出荷する前、試験室で検査を行います。私(Dさん)はこの試験室が野村工場での最後の職場でした。試験室ではまず、大腸菌がいるかどうか製品の細菌検査を実施します。検査は、最初に標準寒天培地で行っていました。アルコールランプで白金耳(はっきんじ)を焼いて消毒をして冷ました後、製品の牛乳やチーズを白金耳で取り出し、ペトリ皿(シャーレ)の中の標準寒天培地に擦り付けて一昼夜置きます。すると次の日に、いろいろな菌が擦り付けた所に出ていました。白金耳で1回擦り付けた標準寒天培地の中に、どれだけの数の菌がいるのかを顕微鏡で確認しながらカウンターで数を拾わなければなりませんでした。このような細かな作業を行って、製品の良し悪しを判断していたのです。大腸菌の数が多いかもしれないときは、確定培地で検査をして、確定させていました。最終的には工場のすぐ近くにあった保健所からOKをもらっていました。試験室では、いろいろな製品の脂肪率や乳固形分が何%かなども調べました。さらに、チーズに使う乳酸菌やヨーグルトに使う乳酸菌の培養も行いました。ヨーグルトに使う乳酸菌は、飲むヨーグルトのような感じで、余ったときには、私たちがおやつにいただいていたことを憶えています。」

 キ ポンプを開ける

 「乙亥会館の下側にある駐車場に小さな小屋が立っています(写真1-1-6参照)。そこに動力ポンプを置き、川の水をポンプアップして工場用水として使っていたことを私(Dさん)は憶えています。また、工場にはタイムレコーダーがあり、当番の人が朝3時ころに工場に出勤してタイムレコーダーを通した後、すぐにポンプ場まで行って、ポンプを開けるという作業が毎日行われていました。当時、タイムレコーダーが設置されている会社は珍しかったのではないかと思います。冬になるとポンプが凍ってしまうので、当番の方は家でお湯を沸かして、ポンプ場まで持って行き、凍っている所にお湯を掛けて氷を融かしていました。一度で融けなければもう一度掛けなければなりませんでした。このような作業を朝3時ころに行って、それから仕事が始まるのです。」

 ク きつい仕事

 「私(Dさん)が入った当時は、従業員が30人くらいでした。市乳は四季を通じて毎日生産されていました。春、夏、秋はよく売れるのですが、冬になって寒くなると売れなくなります。野村では、市乳は母乳の代わりに使われる程度で、『健康に良いから飲みましょう。』と宣伝しても、なかなか消費量が増えませんでした。冬になり市乳が売れなくなると、余った牛乳を製造に回さなければならなくなります。製造に回すにしても、チーズでは時間がかかるので、ほとんどを練乳に回します。24時間体制で、荒煮をする者、真空釜を使う者、荷造りする者など交替制でフル回転しなければなりませんでした。3、4人の交替で行っていたのですが、『風邪などの病気になった。』や、『用事で仕事へ行けない。』、『慶弔関係で行けない。』など、いろいろあると交替ができないので、朝3時から出勤して、ほとんど徹夜のような感じで、最後まで仕事をしていなければなりませんでした。冬にはこのようなローテーションが続き、体力的、精神的に弱ってしまうこともありました。
 当時、野村工場の初任給は、地方公務員の給料の倍近くありました。野村町では、給与面でトップクラスで、さらに残業がありました。徹夜で仕事をすることが何度もあると、その手当が月給の基本給の額と変わらないくらいになり、収入が倍くらいになったこともありました。給与面での待遇は良かったのですが、長時間の勤務があったので、身体を壊さずに済んで良かったと思います。
 練乳製造では、紙袋に入っているグラニュー糖を、倉庫から荒煮場まで人力で運ばなければなりません。重たい紙袋を担いで、結構な距離を行ったり戻ったりしていました。さらに、荒煮が終わったものに、紙袋の封を切って人力でグラニュー糖を入れなければならず、これもきつい作業だったことを憶えています。このような作業があったので、パートによっては体力的にきつかったと思います。チーズ自体も重たいので、発酵室で反転する作業、パラフィン掛けの作業、さらに荷造りをして発送する作業が、肉体的に辛(つら)い作業でした。今、考えてみると、製造現場はかなりハードな仕事だったと思います。」

 ケ 乳価闘争

 「私(Dさん)が野村工場を辞めた(昭和36年〔1961年〕)後に、問題になったのが昭和37年(1962年)からの乳価闘争です。昭和30年(1955年)に、愛媛県南予集約酪農地域指定を受けて、酪農産地の基盤が固まりかけていたころに起こりました。これは、『明治乳業が買い取る際の乳価を高くしてくれ。』というもので、第1回の酪農県民農民大会では、南予一帯の酪農家1,300人くらいが、役場前にあった公会堂の広場に筵(むしろ)旗を揚げて集まりました。また、昭和39年(1964年)の第3回県大会では、県全体の酪農組織を作って、本格的に流通から変えていこうという酪農民運動が起こりました。そこで、一元集荷多元販売の生産者組合として県酪連が、さらに四国乳業ができました。この影響もあって、明治乳業は昭和38年(1963年)に大洲へ転出したのです。それまでの東酪連(東宇和酪農業協同組合連合会)がなくなったため、明治乳業は県酪連から牛乳を買わなくてはならなくなりました。生乳の流通経路が全部、県酪連になったということです。」

(2)工場勤務を振り返って

 ア 工場閉鎖後

 「工場が閉鎖された後、跡地にJAのオートパルが入ったので、工場の建物は多少壊されましたが、受乳の所や煙突など、しばらくの間、部分的に残っていました。野村町には製糸の煙突と明治の煙突があり、名物になっていましたが今はもうその姿を見ることができません。」

 イ 工場の存在とは

 「現在、1次産業から6次産業へと、地元産業の結びつきを強め、付加価値を高めて町に活力を与えようという運動があります。明治乳業が野村町にできたことで、そのような酪農から乳製品の製造、販売までという、発展的に農工が一体化した町づくりができる仕組みになったことが良かったと思います。製糸もそうだったと思います。あれだけの一部上場企業が、よくこんな田舎に来てくれたものだと、私(Dさん)は思ったのですが、野村に来てくれたことで、かなり刺激にもなったと思います。野村工場に就業している人たちは独身者の人もいずれは所帯を持ち、子どもができ、ここで生活をして消費活動が進む、後継者も残るなど、いろいろな波及効果を期待していました。農村の産業として酪農に着眼して取り組み始めたときに、そういう将来を十分見通していたのだと思います。それが、残念なことに、少子高齢化と過疎化が進行しています。大きな時代の流れで、仕方がないのかもしれません。
 昭和46年(1971年)、農村地域工業等導入促進法が制定されました。農工一体の町づくりをしようというものです。野村には、臨海工業は立地できませんから、内陸型の工業しか入りません。それでも、明治乳業撤退後も一部上場企業の工場が入ってきました。そこで働く人も出てくる、町にとって良い工場が入ってくれたと思いました。農村に働く人たちも、地域の住民も楽しめる、豊かな農村社会を作ろうという夢がありましたが、残念ながら崩れてしまいました。世界を相手にしなければいけない時代になりました。これからは、TPPの問題もあり、酪農は大変だと思います。」


<参考文献>
・野村町農業協同組合『酪農創始25周年 生乳生産100石突破 記念小史』 1968
・大野ヶ原開拓農業協同組合『大野ヶ原開拓誌』 1970
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
・野村町『野村町勢要覧』 1991
・愛媛農林統計協会『野村町の農林業』 1992
・愛媛県『河川流域の生活文化』 1995
・愛媛県『愛媛の景観』 1997
・野村町『野村町誌』 1997
・野村町『野村町誌(完結編)』 2009
・黒河高茂『大野ヶ原に生きる』 2010

写真1-1-6 動力ポンプがあった場所

写真1-1-6 動力ポンプがあった場所

平成30年11月撮影