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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1)学校の様子

 ア 通学

 戦前の子どもたちの登校の様子について、Bさんから話を聞いた。
 「当時は学校の正門から真っ直ぐ見た場所に奉安殿があったので、学校から西の方角の田穂から通学する私たちは、近道となる西門を通り過ぎて正門から入り、奉安殿の前で立ち止まり、敬礼をしなければなりませんでした(写真2-1-6参照)。」
 昭和30年前後の子どもたちの登校の様子について、西門の近くに住んでいたEさんから話を聞いた。  
 「私が小学生のころは、西門のすぐ近くの家に住んでいたので、始業のチャイムが鳴ってから家を出ても間に合うくらいで、忘れ物をしたとしても取りに帰ることができるほどでした。当時、同級生からは『家が近い』ということでうらやましがられていたことを憶えています。」
 一方、学校から遠方に位置する男河内から通学していたDさんから、通学時の苦労について話を聞いた。
 「当時、4年生までは男河内分校へ通い、5年生からは本校の魚成小学校へ通うようになっていました。男河内から魚成小学校まで歩くと40分くらいはかかっていました。冬になると寒さが厳しく、歩いているだけでは身体が温まらないので、走って学校まで行くこともあったことを憶えています。また、大雪で膝くらいまで雪が積もったとしても、その雪をかき分けながら歩いて通学していました。長靴の中に雪が入り込んで足が濡れてしまい、その冷たさで足先が真っ赤っかになっていましたが、痛さは通り過ぎていたように思います。そのような中でも、子どもたちの誰も文句を言うことなく、むしろ楽しみながら学校へ行っていたことが思い出されます。」

 イ 中学校の校舎移転

 中学校の校舎移転について、Cさん、Dさんから話を聞いた。
 「私(Cさん)が中学校2年生のときに校舎が今田へ移転しました。机や椅子を1人が一つ持って2kmほどの距離を移動したことを憶えています。新しい中学校の校舎を建てるとき、柱の材料となる木を近くの山へ伐(き)り出しに行きました。また、夏休みには川で石拾いをしていました。この石は建物の基礎として使われたようです。今日も石拾い、明日も石拾いと、校舎新築のための作業が多くあり、あまり勉強をしたという実感がありません。」
 「私(Dさん)が中学生のとき、校舎の材料となる木が竜沢寺の奥の山林から伐り出されていました。私たち女子生徒は、伐り出された木を山から竜沢寺まで下ろす作業に従事していたことを憶えています。当時は木材の値段が良く、その木を売って校舎建築の資金にした、と聞いています。中学生のころの思い出としては、運動場作りや石拾いがあります。机や椅子も自分たちで持って運びました。そんな作業も楽しかったことを憶えています。」
 中学校移転に際して木が伐り出された山林について、Fさんから話を聞いた。
 「魚成には、中津川に魚成財産区という400町歩(約400ha)の共有林があります。私の祖父である岡田久一郎が村長を務めていたときに、植林が進められたようです。私の祖父は農学校で学んでいることから、植林に強い関心を持っていたのだと思います。昭和30年(1955年)ころは、祖父が植林をした木の樹齢が50、60年生となっていて伐るには最適で、木材の値段も良かったと思います。木を伐り出して販売することで資金を調達し、中学校を移転させるときの工事費のほとんどをこれで賄うことができた、と聞いています(写真2-1-7参照)。」

 ウ 小学校のPTA活動

 小学校のPTA活動の様子について、Aさんから話を聞いた。
 「昭和42年(1967年)、近隣の小学校が魚成小学校に実質統合されたときにPTAも統合されました。統合されたころのPTAの活動は、毎日が奉仕作業でした。統合された学校の敷地は荒れたままの状態で、グラウンドには石が多く転がっていたので、石を拾ったり、町が購入してくれた真砂土を広げて、整地用ローラーで固めたりしていました。また、教育環境の整備のためにバックネットや庭の池、遊具まで自分たちで造りました。作業の内容によって必要となる人数は違っていましたが、運動場の整備のときには100人くらいいたPTA会員全員が参加してくれたことを憶えています。3年間PTAの役員を務めましたが、環境整備に明け暮れた毎日で大変だったことが思い出されます。」

(2)子どもの遊びとスポーツ

 ア 清流で遊ぶ

 川で遊んだ思い出について、Fさん、Bさんから話を聞いた。
 「私(Fさん)が子どものころには、魚成川でウナギを獲ることができました。釣りに行くと、ハヤがよく釣れていましたが、食べるにはおいしくない魚だったので、釣り上げるとそのまま川へ返していました。
 また、水泳の授業は5年生から行われていて、学校にはプールがなかったので、魚成川の上流で授業が行われていました。授業が行われる場所は、水量が多く、背が届かないくらい深い所もあったので、泳ぎが得意でない子どもは河原の浅い所で遊んでいたことを憶えています(写真2-1-8参照)。」
 「『アカツリハヤ』と呼ばれる、頭の一部分が赤いハヤ(カワムツ)が釣れていたことを私(Bさん)は憶えています。最近はハヤがほとんどいなくなってしまい、この辺りで『アカツリハヤ』は見ることができなくなってしまいました。」

 イ 剣道

 地域で盛んに行われていた剣道について、Bさんから話を聞いた。

 (ア)剣道を始める

 「私は子どものころ、運動が嫌いだったので、いつかは心と身体を鍛え直したいと思っていました。戦前、戦中と盛んに行われていた剣道や柔道が戦後しばらくは進駐軍によって禁止されていましたが、解禁されたころに竹刀を手に取る機会があり、それがきっかけで剣道を始めました。昭和33年(1958年)ころになると、私のところに子どもたちが『剣道を教えてください。』と頼みに来るようになりました。私も未熟で段位を取得していませんでしたが、子どもたちの健全な育成のためにと思い、子どもたちに教えることにしました。教え始めたころには、人数分の竹刀を準備することができなかったので、伐った竹を竹刀の代わりに持たせて、田穂のお宮で素振りなどの練習をさせていました。面や胴は、戦後に進駐軍から焼却するように命令されていましたが、学校で使われていたものが講堂に残されていました。講堂には剣道の道具のほかに、木銃も残されていました。小手も残されていましたが、破れているものが多く、松山の武道具店で補修してもらったことを憶えています。」

 (イ)練習遠征

 「剣道の練習のために、自衛隊や警察へも行くことがありました。昭和45年(1970年)には、中学校の郡大会で勝ち上がり、夏休み中に開催される県大会に出場することになった私の教え子たちを松山東署の機動隊に預けました。1週間ほど機動隊で練習をさせましたが、その間は畳店の仕事を終えてから、夜に松山東署の道場へ行き、子どもたちの練習に立ち会って、その日のうちに魚成まで帰る、という生活が続きました。
 子どもたちは古町駅近くの大林寺に宿泊していました。朝、起床すると朝食のために平和通りの門屋旅館までランニングで行き、朝食後は練習場所である松山東署まで再びランニングで行くという日課だったようです(図表2-1-6参照)。
 子どもたちは厳しい練習の甲斐もあって、県大会で準優勝しました。優勝戦の相手は久万中学校で、2対2で迎えた大将戦で惜しくも敗れてしまいました。」

 (ウ)全国大会

 「昭和45年(1970年)には、東京の日本武道館で開催される試合に出場させました。当時は50人もの子どもに教えていたので、『1人でも多くの子どもを東京に連れて行ってやろう』と思い、補欠の子どもを含めて12人、隆森館(りゅうじんかん)道場チームと魚成小学校チームの2チームで出場しました。日本武道館の中を12会場に分けて試合が開催され、Aチームは、1回戦は不戦勝、2回戦で熊本のチームと対戦して敗れてしまいましたが、私が監督を務めたBチームは3回戦まで勝ち上がり、敢闘賞をいただいたことが良い思い出として残っています。
 この年には万国博覧会が開催されていたので、試合に参加する子どもたちは、出発前から『万博を見てみたい。』とか、『新幹線に乗ってみたい。』などと言っていました。
 出発当日、国鉄卯之町駅までは、公民館の自動車を借りて行きました。野村との間の桜ヶ峠は、狭くてカーブが多い峠道だったので、子どもたちは車窓から回りの木々の様子がよく見えたのでしょう、『クワガタがおった。』などと喜んでいたことを憶えています。新大阪駅からは、『新幹線のひかりに乗りたい。』と言っていましたが、こだま号に乗りました。車内では、座席に付いているテーブルを珍しがり、コップを置いて、『発車してもジュースが動かん。』と驚いていました。
 東京からの帰りには、大阪で開催されていた万博に立ち寄りました。万博会場内は自由行動としていたので、入場した子どもたちはすぐに散らばって行ってしまいました。万博のシンボルでもある太陽の塔を集合場所にして、子どもたちに分かるように隆森館道場の旗を掲げていました。集合場所に戻って来た子どもたちは、『月の石を何べんも見た。』などと言って、とても喜んでいる様子でした。子どもたちにとっては、試合そのものより、道中や帰りに立ち寄った大阪万博の方が思い出深いことなのかもしれませんが、とても懐かしく思い出されます。」

 ウ 城川オリンピック

 城川オリンピックについて、その創設に深くかかわった岡田康男氏の御子息であるFさんから話を聞いた。
 「城川オリンピックは、昭和43年(1968年)3月に私の父が中心となって始めました。もともと魚成小学校で魚成中学校区の競技大会が開催されていたので、町内の他の3地区(遊子川、土居、高川)との親睦を兼ねて始められたのです。城川町は昭和29年(1954年)の合併により成立しましたが、旧村を単位とした地域間の交流が活発ではなかったことから、体育での交流活性化を考えたのだと思います。当時の町長さんが、父の中学校(宇和島中学校、現愛媛県立宇和島東高等学校)の先輩であったこともあり、体育協会では町長さんが会長に、副会長の1人に父が就任しました。大規模な競技大会を開催するとなると、競技の練習も行わなければならない、競技に必要な道具も揃えなければならないなどの問題がありましたが、町長さんの後押しもあって、開催できたのではないかと思っています。
 昭和49年(1974年)10月には、NHKの新日本紀行という番組で、『山里のオリンピック』というテーマで取り上げられ、全国放送されました。そのとき、私は兄、姉とともに東京にいて、3人で一緒にその放送を観(み)たことを憶えています。放送では、実際に運営する父に焦点が当てられ、父が主役となっていたので、放送後には『いい格好をして。』と、やっかみを言っていた人もいたようです。しかし、町長さんは、『全国に放送が流れ、城川町の良い宣伝になった。』と、とても喜んでいたことを憶えています。
 競技は、魚成地区だけで開催していたときの種目をそのまま引き継いで行われていたと思います。現在は行われていませんが、20kgの重さの砂袋を最後まで持ち上げていた人が勝ちとなる重量挙げや、現在でも行われている『急げポンコツ』という競技も魚成地区で行われていたものだと思います。先日も競技見直しの会合が開かれましたが、『これは外せない。これも外せない。』となって、結局見直しで外れた種目は一つだけでした。やはり、見ていて面白い『竹馬』や『急げポンコツ』を外すことはできないと思います。
 4地区対抗の形でいつまで開催できるかは分かりません。過疎化や少子化の影響を受けて、遊子川地区は現在300戸となっています。参加者1人が複数の競技に出場しなければならない状態となっているのです。今後、10年は続けなければならないと思っていますが、続けていくためには4地区対抗にとらわれず、他の方法を考えなければならなくなっているのが現状です。」


<参考文献>
・『全日本少年武道錬成大会剣道の部大会要領』 1970
・城川町『城川町誌』 1976
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
・城川町『広報しろかわ縮刷版 第1巻』 1992

写真2-1-6 小学校正門跡

写真2-1-6 小学校正門跡

平成30年12月撮影

写真2-1-7 岡田久一郎頌徳碑

写真2-1-7 岡田久一郎頌徳碑

平成30年6月撮影

写真2-1-8 魚成川の現況

写真2-1-8 魚成川の現況

平成30年12月撮影

図表2-1-6 大林寺と門屋旅館、松山東署の位置関係

図表2-1-6 大林寺と門屋旅館、松山東署の位置関係

Bさんからの聞き取りにより作成。