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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 養豚に取り組む

(1)地元で始めた養豚

 ア 城川町土居に生まれて

 (ア)農家の豚

 「終戦直後ころは、私(Cさん)の家でも豚を何頭か飼っていたと思います。昭和20年代半ば以降のことだと思いますが、家で飼っている豚がある程度大きく成長すると、近所の方も大勢が集まってその豚を捌いていたことを憶えています。私の両親が他の農家から捌いた豚肉をもらって帰っていたことをよく憶えているので、当時の農家では飼っている豚を家で捌いていたのではないかと思います。もちろん、成長した豚そのものを売ることもしていたと思いますが、大勢が集まった中で敢(あ)えてそれを捌くということは、自分たちで分けて食べるためだったのではないかと思います。」

 (イ)野球に打ち込んだ青春

 「私(Cさん)の家では、別棟で養蚕を行っていた時期がありましたが、私はその仕事をあまり手伝うことができませんでした。私は中学生のころから休みもないくらい野球部での練習に打ち込んでいて、ほとんど家の仕事を手伝うことができなかったのです。決して裕福な生活ではありませんでしたが、両親は養蚕で得た収入で私たち兄弟を育ててくれたと思います。
 私は高校でも野球を続けたいと思い、野村高校(愛媛県立野村高等学校)へ進学しました。この地域のほとんどの者は土居分校(愛媛県立野村高等学校土居分校、平成22年〔2010年〕3月閉校)へ進学していました。土居分校には軟式野球部があり、なかなか強かったのですが、私はどうしても硬式野球部がある高校へ行きたかったのです。野村高校への進学に当たっては、私たち兄弟を懸命に育ててくれている両親に相談をしました。そのとき私は、『どうしても野球を続けたい。』と両親に強く伝えたことを憶えています。
 高校入学後は毎日バスで通学し、野球部での練習を終えて最終バスに乗って帰宅していました。当時は国鉄バスが日吉(ひよし)(現鬼北町)から出て、宇和(うわ)(現西予市宇和町)まで行っていたので、その路線に乗って野村(のむら)(現西予市野村町)まで通学していました。朝一番の通学時間の便には大勢の高校生が乗っていて、バスの中が通学客で一杯になっていたことをよく憶えています。また、最終便は夜9時ころに土居(現西予市城川町土居)に到着する便だったと思いますが、ほぼ毎日、この最終便に乗って帰宅していました。我ながらよくやったと思えますが、当時はただ野球がしたかった、これに尽きます。
 野村高校の野球部で一緒に頑張った友人は、私にとっての宝です。入学時は新入部員が20名くらいいましたが、練習がきつかったこともあって、3年生最後の大会まで続けることができたのは私を含めて3人だけでした。1人は野村で、もう1人は松山(まつやま)で生活をしていますが、今でも電話で連絡を取り合い、相談したり、気軽に『お茶でも飲みに来んか。』などと言ったりできる仲です。今でも仲の良い友人を得ることができたということが、野村高校へ進学し、学び、野球に取り組んだ価値の一つと考えています。」

 (ウ)地元で養豚農家を志す

 「城川町で生まれた私(Cさん)は、八幡浜(やわたはま)や奈良県で仕事をしていた何年かを除いて、ほぼ地元でくらしています。地元を離れた何年かの間に一生懸命に働いて資金を貯(た)めて養豚を始めました。奈良県では、5年ほど建設関係の会社で頑張っていましたが、ふと将来の生活について考えたときに、『このままこの仕事を続けていたので良いのだろうか』という思いが湧き、『何かを始めるために、資金を作っておこう』と考えるようになりました。資金を作るには金融機関からの融資を受けるという方法もありますが、私はなるべく融資には頼りたくない、という思いを強く持っていたので、少しでも多くの自己資金を作ることができるように努力をしましたが、地元を離れた県外での生活であったので、実際には思うようにはできませんでした。しかし、私には地元で何か事業を始めようという強い思いがあったので、農協の方にも相談に乗ってもらっていると、『豚を飼うのなら、農協からの融資が可能である。』というお話をいただいたことや、金融公庫からは、『施設を整備するための資金を借りることができる。』というお話があったこと、そして何より、私が八幡浜で会社勤めをしていたときに、肉を仕入れる部署で仕事をしていた関係で、養豚農家へも行って、実際に飼われている豚やその設備を見る機会があり、私にとって養豚はとても身近な仕事だったことなどから、昭和48年(1973年)、私が30歳を目前にしたころに実際に養豚の事業を始めることができたのです。」

 イ 養豚を始めたころ

 「豚は年によって値の動きが大きいのが特徴でした。値が良くなれば養豚を始める方が増えて、市場に出回る豚の数も増えてきます(図表2-3-3参照)。さらに2、3年後にその豚が子を産み、それまで100頭の出荷だったところが200頭出荷されるようになります。そうなると、市場の需要に対して供給過多となり、一気に値が下がるのです。 
 私(Cさん)が養豚を始めたころは、一般の農家でも豚を飼う家が多くありました。もし、豚を飼う家が何軒かあれば元豚が50頭となり、元豚が50頭いれば500頭の肉豚が生産されるくらいの割合で豚は増やしていくことが可能でした。ちょうどそのころに、豚の価格が急激に下落した時期があり、この辺りでも5頭程度の母豚を飼う農家がありましたが、価格が下がったことにより、豚を繁殖させて出荷するということをやめていったようです。
 私は養豚を50頭程度の母豚で始めたので、決して大型の事業ではありませんでした。ちょうどそのころに豚の価格が下落したので農家が養豚から手を引き、農家で豚を飼う家はなくなっていきました。これらの農家の方は、生まれた子豚が30kgほどの大きさになったところで売る『子出し』を行っていました。このような形態では価格の変動に対応できないということで、私は50頭の母豚で一貫経営を始めたのです。かつて城川には100軒ほどの小規模な養豚農家がありました。しかし、私が養豚を始めたころには20軒ほどにまで減少していました。残った養豚農家の多くは20頭ほどの母豚を飼っていた農家で、やめていった農家よりは規模が大きかったのです。
 昭和40年代、土居地区で企業的な養豚を始めていたのは、私のところを含めて3軒だけでした。他の2軒も10年くらいは続けていたのではないかと思いますが、経営が難しいということでやめられてしまい、私のところだけが土居地区で養豚を続けることになったのです。私自身も厳しい経営環境の中で、何とか少しでも利益を上げようと懸命に努力を続けてきましたが、利益の面だけで養豚という事業を振り返ると、結果的には十分に得ることができなかったのではないかと思います。」

 ウ 設備を整える

 (ア)豚舎

 「ある程度の頭数で養豚を始めるには施設が必要になるため、まとまった資金を準備しなければなりませんでした。私(Cさん)が養豚を始めた当初は、融資を受けて豚舎を建設してもらいましたが、後には重機が必要となる土地の造成だけを行ってもらい、造成が終わると飼っている豚の頭数に合わせて自分で豚舎を少しずつ広げていきました。もちろん、豚舎の中の設備や機械は購入しなければなりません。これらの購入資金は融資を受けて調達していました。
 豚舎を建設するに当たって最初に考えなければならないことは、水を確保できる場所かどうかということでした。私が豚舎を建設した場所は水が湧き出ていたので、『水があるからここにしよう。』ということで決めたことを憶えています。水は主に豚の飲料水に使われるので、豚舎を建設する際にタンクを設置して水を一旦溜(た)めてから各豚舎へ流すことができるような設備を整えました。タンクに水を溜めておくことで、タンクを満たすのに必要な水量だけを使うことができ、それ以外の水は川へ流すことができるため、自然環境保護の観点からもタンクを設置しておくことは大切なことでした。豚舎で使っていた湧き水は、湧き出てから谷へ下りる前のきれいな水で、年中切れることなく湧き出ていたので、仕事をする上で水に困ることはありませんでした。
 最初に建設した豚舎は長さが26m、幅が8mの大きさでした。この豚舎には豚を入れる房が片側で30くらいあったと思います。房は幅が70cmから80cmくらい、奥行きが2mくらいの広さで造られていて、この房に母豚が入っていたのです。豚舎の真ん中には通路があり、片側に母豚が入る房が30程度並んでいました。通路を挟んで反対側には分娩房があり、分娩(ぶんべん)房は10程度あったのではないかと思います(図表2-3-4参照)。
 豚舎では、夏になると熱が籠もらないように暑さ対策を、冬になれば寒さ対策を行わなければなりませんでした。私が豚舎を建設した昭和48年(1973年)当時は、豚舎にエアコンなどは設置していなかったので、冬場には風が豚舎の中に入らないように戸を閉め切ることや、夏になると逆に戸を開けっ放しにして風通しを良くするように注意していました。豚舎には分娩房があり、そこだけは冬になると電気やガスで暖めていたことを憶えています。」

 (イ)餌用のタンク

 「豚舎を建てた当初、餌をタンクに入れるとそれが自動で豚舎へ送られる設備が一番大掛かりでした。自動で餌が出される機械は、タンクに餌を入れる作業が必要である程度で、餌の量や与える時間など、ほぼ全てが自動化されたものでした。この機械を導入するまでは、柄杓(ひしゃく)で1頭分ずつ餌を与えなければならなかったので、飼育頭数が増えていくと、それに比例して仕事量も大幅に増えていました。このまま仕事量が増えていくと、規模を拡大することが難しくなると考えられたので、なるべく手が掛からないように省力化できる機械を導入する必要があったのです。
 餌用のタンクは2本設置され、片方のタンクの餌がなくなれば、もう片方のタンクの餌が使われるようになるので、空になったタンクに餌を補充して、常にどちらか片方のタンクは餌で満たされている状態を保つようにしていました。これは城川の冬場の天気を考えて行っていたことでした。城川は冬になると雪が積もることがあります。雪が積もってしまうとトラックが動かず、餌を注文してもすぐに届けられない可能性がありました。そういう状況になったときに、タンクの餌が尽きてしまうというリスクを回避するための対策の一つだったのです。
 餌をタンクに入れる作業はほぼ自動で行われていて、バルク車(粉粒体運搬車)で運んだ餌を荷台部分から直接タンクに入れることができました。私の豚舎ではバルク車に4t程度の餌を積み込んでタンクまで運んでいました。規模の大きな豚舎であれば、餌を自動でタンクに入れることができなければ大変な作業になってしまうので、バルク車に積まれている餌をタンクへと送る装置はかなり前からあったのではないかと思います。私が養豚を始めるよりも前から規模が大きな豚舎では使っていたと思います。」

(2)養豚の仕事

 ア 経験と効率化

 「豚舎での作業は順番が決められていました。朝は食事を済ませてから豚舎へ行き、8時ころから仕事を始め、夕方の5時か6時には仕事を終えるというサイクルでした。1日中、豚舎での仕事になりますが、お昼ごろになると比較的時間に余裕があったと思います。
 私(Cさん)は豚舎へ行くとまず、朝の餌やりの作業を行っていました。また、母豚の分娩があると、その豚に付きっきりで見守らなければなりませんでした。養豚を始めた当初は、母豚から子豚がなかなか産まれなければ一晩中起きていたり、手で子豚を引っ張り出したりと、かなり手を掛けて母豚が全ての子豚を産み終えるまでその場にいて世話をしていました。しかし、仕事に慣れて豚の分娩についてもある程度経験をすると、『人が手を掛けなくてもある程度は上手(うま)く分娩できるのではないか』という思いを持つようになり、産み始めの様子だけを確認して他の仕事に取り掛かる、というように効率良く仕事ができるようになっていきました。産まれた直後の子豚が冷えてしまわないように、電気やガスを使って分娩を待つ母豚がいる区画を暖めておくと、私がいなくても母豚は無事に分娩を終えていたのです。」

 イ 分娩房

 (ア)種付け

 「豚は種付けをしてから出産までの日数が決まっているので、大体の出産日を予測することができ、出産が近づいた母豚の様子を見ていると、その日のいつごろ出産するということまで分かっていたので、出産日が近づくとその日に合わせて分娩房へ入れていました。
 種付けにもタイミングがあります。母豚を見ていると耳をピンと立てていることがあり、これが発情しているサインで種付けには一番よいタイミングです。また、発情し始めた母豚はイライラしているので、その様子を見ているだけで発情していることが分かっていました。発情している母豚は、私(Cさん)が背中から尻の近くにちょっと手を置いてやると、オスが来たと勘違いをして、耳を立てていました。母豚がこのような状態になったときには、『早よ、オスの所へ持って来い(連れて来い)。』と言って、母豚10頭に1頭の割合でいたオンタ(オス豚)がいる房へ母豚を入れて種付けを行っていました。」

 (イ)妊娠と出産

 「母豚の妊娠期間は、『三月三週(みつきさんしゅう)』と言われていて、種付けをすると4か月弱で出産していたので、出産から離乳までの期間と発情までの期間を考えると、上手にスケジュール管理ができれば、1年間に2回半は種付けが可能でした。ただ、母豚もいろいろで、発情するのに一月かかるものもいれば、10日ほど、1週間以内で発情するものもいたため、私(Cさん)の立てた年間の計画通りになることはありませんでした。
 母豚は一度の妊娠で10頭ほどの子豚を出産していました。産まれたばかりの子豚は1kgもない、とても小さな体でした。1頭の母豚から年間25頭は生まれる計算になるので、母豚が50頭いれば、豚舎全体で500頭程度の豚が常時いる状態にすることは、数の上では案外容易なことでした。
 母豚を分娩房で分娩させて、子豚が乳離れをするまでの25日程度は、母豚と子豚がこの分娩房で一緒に生活をしていました。乳離れをした子豚は、豚舎での生活に慣らすため分娩房と同じ並びにある子豚舎に入れられて1週間から10日程度生活をし、親と離れた生活に慣らされていました(図表2-3-4参照)。
 出産を終え、20日から25日くらい経って子豚が離乳すると、母豚は再びオンタの隣の房に入れられます。オンタの近くに置くか置かないかで発情の仕方は全く違っていて、オンタの近くに母豚を置くと、大体1週間以内には発情してオンタのいる方へ寄って行き、そこでじっとしていることが多くなっていました。ただ、母豚にはオンタの好みがあったようで、特定のオンタの近くでなければ発情しないということがありました。私は最初、オンタの近くに置いた母豚が発情しない理由が分からず、『おかしいなあ』と思いながら母豚を移動させていたのですが、オンタを選ぶような母豚は、好みのオンタの近くでなければ房の中で暴れていたので、これが母豚なりの意思表示だったのではないかと思います。暴れていた母豚は、好みのオンタの近くに移動すると、一切暴れることなく、おとなしくじっとしていたことを憶えています。」

 ウ 「子出し」から「一貫経営」へ

 「昭和50年(1975年)前後のことになりますが、このころには養豚の仕事が順調になり、子豚舎の不足を解消して利益を上げるために新しい豚舎を建設しました。
 また、私(Cさん)の養豚場では子出し(35kgくらいになった豚を売る)をしていて、生まれて1か月から2か月ほど経た子豚を出荷していましたが、これを肉豚にまで育ててから出荷する一貫経営に切り替えることにしました。そのころは町内の他の業者さんでも子出しをするところが多く、一貫経営はあまり行われていませんでした。私の養豚場から出荷された子豚は、魚成(うおなし)の養豚業者さんのところで大きく肉豚に育てられて、そこから肉豚として出荷されていたのです。私は、『肉豚にまで育てなければ、十分な利益は得られない』と思い、また、子出しをしていた町内の養豚業者の方も同じ考えを持つようになったことで、このころから町内でも一貫経営を行う業者さんが増加していきました。
 一方、15頭ほどの母豚で経営を行っていた小規模な業者さんは、一貫経営への切り替えができなかったところが多く、一貫経営を行う業者の増加に伴い、子出しで出荷する子豚の買い手が少なくなり、経営環境が厳しくなったことで養豚をやめていかなければならなくなってしまったようです。」

 エ 肉豚を育てる

 「母豚と肉豚との豚舎は分けられていて、肉豚が入る豚舎は別に整備されていました。肉豚舎は長さが100m近くある建物で、それが何棟か並んでおり、肉豚の太さ(大きさ)によって入れられる家(棟)が変わっていました。
 産まれて間もない、まだ乳離れができていない子豚は、親豚と一緒に生活をさせなければなりませんが、中にはすぐに乳離れをする子豚もいて、このような子豚は乳離れをすると直ちに子豚舎へ入れて育てていました。その後、30kgになると別棟へと移動させ、さらに4、5kgくらい大きく成長した豚を肉豚舎へ移動していました。
 肉豚にはいつでも餌を食べることができるよう、餌箱に必要な分量の餌を入れていました。例えば、一つの区画に10頭の肉豚が入っていれば、1頭が1日にどれだけ食べて、1日に全体で必要な餌は何kgということは分かっていたので、その区画に必要なだけの餌を餌箱に入れていたのです。肉豚舎の方についても、当初は人力で餌を餌箱に移し替えていましたが、自動的に餌が供給されるシステムとなり、労働という観点で考えると、その負担は大きく減少しました。」

 オ 肉豚を出荷する

 「豚を出荷するときには、豚をトラックの荷台に乗せなければなりません。豚を荷台へ乗せるのは運送会社の方でしたが、豚は歩くことを嫌がることが多く、特に坂を下ったり、水溜まりを渡ったりすることを相当嫌うので、荷台へ移動させなければならない豚がなかなか思うように動かず、苦労されていたことを憶えています。当時は荷台が2階建てになっている12tトラックに積んで出荷していましたが、12tトラックは大きすぎて豚舎の近くまで行くことができなかったので、比較的小さく、豚舎横まで行くことができる2tトラックを2台使って、豚舎から12tトラックを止めている場所まで出荷する豚を運び、積み替えていました。12tトラックには60頭から70頭くらいの豚を積んで出荷していたと思います。
 豚が出荷されるときには、約110kgを超えるくらいの大きさにまで成長していました。豚を出荷するときには、小さ過ぎても等外となってしまい、逆に大き過ぎても等外となってしまいます。等外となってしまうと、通常の取引額の半額にも満たない値段でしか売れませんでした。
 豚は出荷されると屠(と)場で枝肉に処理され、その枝肉の目方で売買されます。この枝肉の価格により、出荷した豚に掛かった餌代等の費用に満たなければ赤字となってしまっていました。1頭の豚の代金と、掛かった費用とがいかに釣り合いが取れ、さらに利益が出るかということが、安定した経営を行うには大切だったのです。私(Cさん)が養豚を始めてからも、やはり赤字になってしまったことがありました。しかし、そのときには『次にようなる(良くなる)けん』という希望を持って仕事に励んでいました。」

(3)地元で養豚に取り組んで

 「私(Cさん)が養豚を始めたときには、前を向いてやるだけ、という意識が強かったので、将来のことに対する不安はあまり感じていませんでした。しかし、実際にやり始めてみると、思っていたよりも利益が上がらず、苦労をしました。とてもしんどい仕事であったと思うので、一緒に仕事をしてくれた妻には負担を掛けてしまったと思います。妻は母豚の分娩が夜中であっても立ち会ってくれるなど、私よりも忙しく働いてくれました。今は感謝の気持ちしかありません。
 また、城川町で養豚が盛んに行われていたときには、養豚業者が集まる会合が農協で開かれていて、分からないことは自分で抱え込まずに、どうしたら良いのか尋ねるとすぐに答えてくれる、というような良い雰囲気があったと思います。私は養豚を始めたころからこの会合に出席し、他の出席者から多くを学び取ったことで、最初は何も知らなかった私が養豚の仕事を続けることができました。この会合で得た知識や技術は、私が養豚の仕事を続けていく上でとても重要だったと思っています。惜しむことなく知識や技術を教えてくれた方々には心から感謝しています。
 私は養豚の仕事に従事して、『失敗だった』と思ったことは一度もありません。約35年の間、この仕事に従事して、身体はしんどかったかもしれませんが、仕事自体は良かったと思う気持ちの方が強くあります。また、地元で仕事をしてきて良かったという強い思いを持っています。」


<参考文献>
・城川町『城川町誌』 1976
・城川町栗生産同志会『救えくり園』 1978
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』 1983
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
・愛媛県『愛媛県史 社会経済1(農林水産)』 1986
・中国四国農政局『城川町の農林業』 1987
・城川町『広報しろかわ縮刷版(第1巻)』 1992
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994

図表2-3-3 城川町における年次別豚の生産状況

図表2-3-3 城川町における年次別豚の生産状況

『城川町誌』により作成。数字は「肥育」と「子豚」を合計した頭数。

図表2-3-4 豚舎の概要

図表2-3-4 豚舎の概要

聞き取りをもとに作成。縦横比、房の数が正確に表されているものではない。