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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 鉱山で働く女性

(1)入社までのくらし

 ア 戦時中の記憶

 「私(Bさん)は昭和8年(1933年)に生まれました。戦争中は国民学校へ行っていましたが、学校へ行って勉強をしたという思い出はあまりなく、出征された方がいる家の農作業などの手伝いばかりをしていたことが思い出されます。また、出征される方のお見送りに行ったり、武運長久を祈って千人針を作ったりすることもありました。あるとき、近所の方が派遣されている戦地の兵隊さん宛てに、私たち子どもが手紙を書いて送ったことがありました。私の書いた手紙がたまたま戦地で戦われている近所の方の手に渡ったようで、私宛てに返事が届いたことをよく憶えています。子どものころの思い出といえば、生活の全てが戦争のためだったということが強く心に残っています。」

 イ 農家の女性

 「私(Bさん)の家は農業をしており、主に米を作っていました。また、私が子どものころには、家で農耕用の牛が飼われていました。牛の世話は父が行っていて、私は牛が怖くて世話をすることができませんでした。
 当時は田植機や稲刈り機などの農業用機械がない時代だったので、農家での女性の役割は多くあったと思います。稲刈りのときには鎌を使って稲を刈って、腰に縛り付けていた藁(わら)を使って刈った稲を束ね、稲木に掛けいました。また、昔は農薬を散布していなかったので、田に雑草が生えてくると、草取りを何度も行うなど、普段から農作業を手伝わなければなりませんでした。草取りの作業は朝から夕方まで1日中行っていたので、大変な仕事だったことを憶えています。
 田植えは女性の役割でした。田植えは1人や2人でできることではないので、地域内の人に、『来てや、来てや。』と声を掛けて集まってもらわなければなりませんでした。私の家の田植えを手伝ってもらった場合は、その方々が田植えを行うときには必ず協力をしていました。田植えは大変な仕事でしたが、それより前に行わなければならない苗取りも大変な仕事だったことを憶えています。」

(2)ドロマイト鉱山で働く

 ア 農業との兼業

 鉱山での仕事と農作業との両立について、Bさん、Aさんから話を聞いた。
 「私(Bさん)は昭和51年(1976年)、43歳のときに近所の方から、『会社が忙しい。来てくれないか。』と誘いを受けてドロマイトに入社し、10年間苦土石灰肥料の製造に従事しました。10年間勤めたので、会社から感謝状をいただき、今でもそれを額縁に入れて家に飾っています。
 会社勤めをしているときは、朝はかなり早く起きなければなりませんでした。仕事が7時30分から始まるので、それまでに家の仕事もある程度は片付けておかなければならず、必然的に朝が早くなっていたのです。
 当時の会社までの道は、今の道路とは違って、いわゆる旧道です。道路状況も悪く、特に雪が降り積もったときには大変だったことをよく憶えています。通勤にはオートバイを使っていましたが、雪が積もっていても、オートバイしか通勤手段がなかったので、仕方なくそれに乗って会社まで行っていました。ドロマイトの女性社員さんは田穂にお住まいの方が多く、歩いて通勤される方がほとんどでしたが、私の家からは距離があったので、どうしてもオートバイを使わなければならなかったのです。
 また、ドロマイトでの仕事を終えると17時までには帰宅し、明るいうちは『山の仕事』へ行かなければなりませんでした。『山の仕事』とは、田んぼや畑の仕事のことを指します。家に帰ると、『どこそこへ鎌を持って来い』などと書き置きがあったので、一息つく間もなく山仕事に出掛けていました。そのほかにも畑での野菜の世話や、家に帰ると夕飯の準備や洗濯などの家事全般も行わなければならず、1日中働き続けるような状態だったので、忙しい思いをしていたことを憶えています。
 家で作る米は、現金収入を得るための貴重な手段でした。『ここの米はおいしいけん、分けてください。』と、他地域から買い求めに来る人もいたくらいです。ドロマイトでの仕事と家の農業との兼業で、仕事は大変でしたが、身体が元気だったので何とかやっていけたのではないかと思います。私の家で収穫した米は、脱穀した後に筵(むしろ)で干して乾燥させていました。それだけ手を掛けていたので、おいしいお米になっていたのではないかと思います。」
 「普段、仕事の日は7時30分始業でした。実家で農業をされている社員の方の中には、それまでに荒仕事を少しやって、という方もいらっしゃったようです。朝、1時間ほど農作業をしようとすると、夜明けとともに起床して作業を始めなければ、その時間を確保することができなかったと思います。明るくなったら起床して、一仕事して朝食を食べて通勤するという生活だったと思います。私(Aさん)も通勤前に農作業を少しやっていたことがありましたが、日中も坑内での仕事で体力を使っていたので、続けることができなかったというのが本当のところです。『草刈っとけ。』と、父から言われて朝早く起きたことがありますが、そのときにはどちらかというと仕方なく、という気持ちの方が強かったことを憶えています。父に言われたことをあまり断ってもいけない、仕事前の作業は仕事に差し支えるかもしれない、という二つの気持ちが私自身の中にあったのです。」

 イ 「パッカー」の仕事

 製造された苦土石灰肥料の袋詰めの仕事(パッカー)について、Bさん、Aさんから話を聞いた。
 「私(Bさん)は、製品となる肥料を袋に詰める、『パッカー』と呼ばれる仕事に従事していました。『パッカー』の部署で働く社員は全て女性で、5人か6人はいたと思います。女性の仕事には『パッカー』のほかに、発破の際の仕事がありました。鉱夫が削岩機で穴を開け火薬が詰め込まれると、穴を密閉するための『ギチ』と呼ばれていた砂袋を充填しなければ、爆力が逃げて石を採ることができません。この砂袋を詰めていく仕事を担っていたのも女性社員でした。女性社員が交替でこの作業に従事していて、私もこの作業を行ったことをよく憶えています。
 私が就職したころには、袋詰めの作業は自動化されておらず、肥料を入れておく大きなタンクから1袋分ずつ出して詰めていかなければなりませんでした。タンクに入れられている肥料は、手でタンクの口を開けると、『ザーッ』と音を立てて落ちてきていたので、袋に20kgくらいの肥料が入ったところでタンクの口を閉めていました。手作業で行うので、その手順を間違えたりすると、適切な分量を袋に入れることができないので、最初のうちは慎重に作業を行っていたと思います。今でも憶えているのは、肥料が落ちてくる口が詰まり、棒で突いてみましたが、それでも出てこないので、強く突いていると棒が曲がってしまった、というようなことがあったことです。
 仕事場は騒音と粉塵の中でした。タンクの口を開けるので、肥料が出てくるときに微粒子がどうしても広がってしまうのです。パッカーとして働く女性も、防塵マスクを着けて仕事をしなければなりませんでした。頭を手拭いで頭巾のように覆い、首元も手拭いで巻いて服の中に微粒子が入り込まないように工夫していたと思います。しかし、目はゴーグルなどで保護しているわけではなく、粉塵の中で目を開けて作業をしていたので、今考えると不思議なことです。微粒子をかなり被っているので、仕事を終えると埃(ほこり)まみれの状態になっていて、叩(はた)いて落としたり、作業場近くのコンプレッサーを使って吹き飛ばしたりしてから帰宅していたことを憶えています。
 仕事に慣れるまでは上手にいかないことがありましたが、経験を積むと仕事をスムーズに行うことができました。滅多にありませんが、自分自身の力で解決できないような複雑なトラブルが起こった場合には、先輩社員に助けを求めて解決していたことを憶えています。当時、先輩社員には、本当に優しくしてもらいました。私も後輩社員が入社してきたときには、仕事の要領などを優しく教えていたと思います。」
 「私(Aさん)が働いていたころにも鉱山には女性の職員もいましたが、坑内に入って作業を行うことはなく、工場で苦土石灰の肥料の袋詰め作業などに従事していました。肥料袋は1袋が20kgになるように袋詰めされますが、その作業を行っていました。また、工場内に肥料袋を積み上げていかなければならないので、製品となった肥料袋をベルトコンベヤーに載せる作業も行っていたと思います。肥料を乾燥させるためにバーナーをどんどん焚(た)くため、職場は高温になる上に、粉塵が立っていました。夏場でも重油を焚きっぱなしで同じ作業を行うので、より暑くなっていたと思います。パッカーの仕事を行う場所では、粉砕してバーナーで乾燥させた肥料がタンクに入っていたので、温度が上がっていました。ただ、冬になると、この熱で暖かさを感じることができていました。」

 ウ 繁忙期

 「作業場では20kg入りの袋を1日に3,000袋ほど製造していました。農家が苦土肥料をたくさん使う時期があって、稲刈りが終わった後の田んぼやミカン園に効果があったことから、吉田(よしだ)や立間(たちま)(現宇和島(うわじま)市)の果樹園でよく使われていたようです。10月ころから4月までよく使われていて、恐らく、2月ころが生産のピークではなかったかと私(Bさん)は思います。1日に3,000袋製造する時期になると、明浜陸運の13tトラックが何度も会社にやって来て運び出したり、一刻も早く肥料を手に入れたい農家が直接買い付けに来たりしていました。
 肥料が入った袋をトラックに積み込むには、コンベヤーが用いられていて、コンベヤーで流した製品を、トラックの荷台に男性社員、時には女性社員と運転手の2人ほどで上手に積んでいました。トラックに積み込む作業は本当に大変な作業だったようで、短時間に大量の袋を積むので、素手で作業をしていると手の皮が剥げてしまった、ということがあったそうです。手袋を着けていてもすぐに穴が開いてしまうほどの厳しい作業でした。肥料は乾燥させているため、肥料を詰めた袋の上で横になってみると、冬場でもとても暖かく感じたことを憶えています。パッカー下には、袋詰めされた肥料を受け取って、コンベヤーに流す役割の人がいました。この仕事には、男性も女性も交替で従事していたと思います。
 パッカーの仕事は、基本的には7時30分に始まり、夕方には終わる仕事ですが、忙しいときには夜勤を行うことがありました。私が会社へ就職した当初は、交替制の勤務体系が採られていて、昼過ぎから仕事を始めて、夜の9時過ぎころまでパッカーの仕事をしていたように思います。ある夜、夜勤を終えてオートバイに乗って帰宅をしていました。その夜は寒かったので、少しでも寒くないようにと厚着をしてマスクを着けていると、警察官に呼び止められて職務質問を受けました。夜、暗い中で怪しい格好に見えたのか、もしくは酔っぱらいのように見えたのかは分かりませんが、止められたときには驚いたことをよく憶えています。」

 エ 技術の進歩

 「私(Bさん)が入社したころには、まだコンベヤーが整備されておらず、袋詰めされた製品はリヤカーで運ばれていました。私が退職をする前、昭和61年(1986年)ころになるとロボットが導入されていました。このロボットには、パッカーから下りてきた袋を自動計量して、移動させながら袋の口を焼き付けて塞ぎ、真空パックにする機能がありました。
 私が勤めている10年の間に、機械化や自動化が進み、仕事の負担が減っていったことを実感しました。明浜陸運のトラックに積み込む大量の肥料袋を、コンベヤーで流すことができるようになったときには大喜びしたことを憶えています。コンベヤーで流すことで負担が減った分、ほかの仕事を任されるようになりましたが、製品を確認して判子(はんこ)を押す仕事など、力仕事ではなかったので、負担が減ったことを感じることができていたのです。」


<参考文献>
・佐々木実『黒瀬川鑛山調査報告書添付写真集』 1960
・愛媛県産業能率研究所『大日本ドロマイト鉱業(株)診断報告書(黒瀬川鉱山)』 1965
・城川町『城川町誌』 1976
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』 1983
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
・愛媛県『愛媛県史 社会経済1(農林水産)』 1986