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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 葉タバコ栽培と人々のくらし

(1)葉タバコ作りの仕事

 ア 盛んであった葉タバコ作り

 「私(Aさん)の家は田之内(たのうち)集落で代々農家をしていて、葉タバコを作る以前は米や麦を作っていました。また、昔からスギの山林を所有していたので、そこで伐採した材木を林業関係者に売ったりもしていたそうです。私が子どものころ、田之内集落ではどの家でも葉タバコを作っていましたが、私の家では作っていませんでした。戦時中は父が出征していたので、働き手といえば母と男衆(おとこし)さんか女衆(おなごし)さんが1人いたくらいだったので、米や麦を作るのが精一杯で葉タバコを作る余裕はなかったと思います。父が復員して来た時分には、私の家でも葉タバコを作るようになり、私も子どものころはよく手伝っていました。父の代には葉タバコを8畝(約8a)くらい作っていて、私の代になってから最も多く作っていた時分でも1反5畝(約15a)くらいで、栽培面積はこの辺りでは一番小さかったと思います。私が葉タバコ作りをしていたころは、自家用の米や麦を作ったり、サツマイモを作ってカンコロなどにして農協に出荷したりもしていました。新宮村では葉タバコの在来種の一つである阿波葉が作られていましたが、堀切(ほりきり)トンネルの向こう側(旧川之江(かわのえ)市)では黄色種が作られていました。私たちは黄色種のことを『米葉(べいは)』と呼んでいましたが、黄色種が米国産の葉タバコであるというところから、そうした名前で呼んでいたのだと思います。」
 「私(Bさん)は新宮地区の出身ですが、実家では葉タバコを作っており、苗床を作り、底土を入れるまでは近所同士で手間がい(お互いに助け合って作業すること)で行っていました。こちらへ嫁いで来たとき、『ここでもタバコを作らないといけないな』と思ったことを憶えています。この辺りの農家は、葉タバコを作り、専売公社へ納付して得たお金で生計を立てていました。現金がなければ生活に必要なものを買うことができなかったため、裕福な農家にお金を借りて、葉タバコを納付して受け取ったお金で借金を返済していた農家の方は多かったと思います。」
 「私(Cさん)は中学校を卒業してから農業に従事するようになりました。当時、私の家では、葉タバコのほかにサツマイモを作って加工して出荷するなどして、少しでも現金収入を増やすように努めていました。私の家では3反(約30a)くらい葉タバコを作っていたほか、先祖から受け継いだ土地で雑木を焼いて炭焼きをしていたこともありました。私は26歳のときに専売公社に就職しましたが、その後も両親が栽培面積を減らしながら、昭和50年(1975年)ころまで葉タバコを作っていました。この辺りは交通の便が悪く、作った野菜などを出荷するにも大変苦労していましたが、昭和30年(1955年)を過ぎたころから、軽トラックを借りて作物を積んで川之江や三島(みしま)などの市場へ運ぶようになりました。」

 イ 阿波葉と黄色種

 「現在、国内では主に黄色種が栽培されていますが、新宮村で栽培されていた阿波葉は、その名からも分かるように徳島県が本場の品種です。黄色種の葉はその名のとおり黄色っぽい色をしていて、収穫した葉を火力で乾燥させるのに対して、阿波葉は茶色い葉をしていて、葉を天日で乾燥させるという違いがありました。私(Cさん)が小学生のころ、杉谷(すぎだに)や広瀬(ひろせ)、大北(おおきた)の各集落では、5年くらい試験的に黄色種を栽培していましたが、朝晩と日中の温度差が大きいためにうまく生育しなかったということがありました。旧新宮村の中でも奥まった地区は日照時間が短かったため葉タバコの栽培にはそれほど適しておらず、日照時間の比較的長かった上山地区が主産地となっていました。」

 ウ 苗床作り

 「私(Aさん)は1月に苗床を作り、3月15日ころに播種(はしゅ)をしていました。苗床の中へ茅(かや)などの野草を30cmから40cmくらい積んで足で踏み均(なら)し、その上に肥料を混ぜた土を入れていきました。その上に播種する土を置きますが、この土はケンドでふるいにかけた細かい粒の土でした。苗床の縁には麦わらを置き、1mおきに杭(くい)を立てて、野地板のようなもので囲いをしていました。そうして苗床を作り、3月に行う播種に備えていました。」

 エ 種播きから本圃への移植まで

 「種は専売公社から配られ、不足があった場合には、苗を植えた時分にほかの農家と苗のやり取りをして対応していました。種を播(ま)くときには、回転して種が落ちていく種播き機を使っていました。この辺りでは5軒から7軒の農家が共同で歩行式の種播き機を1台購入し、種播きのときには順番を決めて使用していたことを私(Aさん)は憶えています。その当時、種播き機の価格はそれほど高くはなかったと思います。種播き機を転がしていくと、ひとりでに種が落ちて、等間隔に種を播くことができました。」
 「私(Bさん)の家がタバコ作りをやめる3、4年前は、苗床から1.5cmくらいの小さな苗が生えてくると、圃(ほ)地に等間隔で穴を開けた場所へ移植していました。本圃に苗を移植していたのは、小学校で入学式が行われる時期であったと思います。麦を植えている畝と畝の間に苗を植えていくのですが、2mくらいの竹に印を付けたものを定規の代わりに使用し、上で葉っぱが重なり合わないようにするため20cmくらい間隔を空けて植えていきました。その作業はピンセットを使って1本ずつ苗を植えていくというとても細かな作業で、それぞれの耕作農家が家族みんなで協力して行っていたことを憶えています。」
 「3月ころに種播きをして、それと同じころに畑に肥料を撒(ま)いて苗の移植の準備をしておき、4月の下旬から5月の上旬くらいまでに本圃へ苗を移植していました。私(Cさん)の家では種播きには、転播機を使用していましたが、もう残している農家はないと思います。転播機の中へ腐葉土と種を配合したものを入れて転がすと、種を等間隔に播くことができました。そのころは、圃地へ移植するために苗を引いたときに根を傷めてしまい、もう一度植え替えなければならないということがありました。後に、小さな育苗ポットの中へ腐葉土を入れて、種を2、3粒播いて、良い苗を残しほかのものは間引くという方法に変わりました。」

 オ 苗の本数調査

 「耕作農家は専売公社と葉タバコの栽培本数について契約を結び、専売公社からは各農家に許可証が出されていましたが、終戦ころには契約した本数よりも余分に苗を植えておいて、収穫した葉を周辺からやって来た買い取り業者に横流ししていた人もいたそうです。そういったことがないように、当時、新宮地域を管轄していた新居浜支所から検査員の方が圃地に植えた苗の本数を調査しに来ていたことを私(Cさん)は憶えています。検査員の方から指示を受けて、各地区の総代が手控えを持って圃地の苗の本数を数えていましたが、ときには、1本ずつ数えさせられたこともありました。」
 「圃地に植える苗の本数は、専売公社との契約で10a当たり何本というように決められており、余分に葉タバコを植えることは認められていませんでした。毎年、専売公社の指導員の方が圃地の苗の本数を検査するためにこちらに来ていましたが、それぞれの圃地で苗が植えられている列の数を数えた後、1列に植えられている苗の数を数えて本数を計算していました。当時、専売公社に申請した本数よりも余分に植えたりするような耕作農家はおらず、ほとんどの場合は反別何本という農家の申請がそのまま通っていたことを私(Aさん)は憶えています。」

 カ 収穫前後の様々な作業

 「『心止(しんど)め』というのは、主役である葉に栄養分を充分に行きわたらせるために、上部の咲いた花枝(かし)を切り落とす作業のことを言います。心止めを行うころには葉タバコも随分大きく育っていて、私(Aさん)は背伸びをしなければ作業することができませんでした。
 また、心止めを行うと、葉タバコの茎の、葉の付け根辺りからわき芽が生えやすくなるので、それを全て取り除いていきました。その作業を『芽かぎ』と呼んでいました。わき芽は本葉よりも上の方の茎から生えてきて、茎の上になるほど大きなわき芽が生えてきました。当時、わき芽だけを枯らせる農薬も販売されていましたが、葉の品質に悪い影響がないように、農薬を使用せずに芽を1本ずつ手作業で取り除いていたため、大変な手間が掛かっていたことを憶えています。」
 「葉タバコは生長すると背丈が1m以上にもなり、台風などの強い風雨のときに倒れやすくなるので、それを防ぐために土寄せという作業を行っていました。土寄せというのは、葉タバコが植えられている畝の両側の土を株の所へ寄せていく作業のことです。夏休みの早朝に、土葉の枯葉といって黄色くなった葉を収穫していましたが、それまでに1回目の土寄せを行い、その後、2回目の土寄せを行った後、3回目の土寄せを行っていました。3回目の土寄せのことを『大荒れ』と呼んでいて、それが最後の土寄せとなりました。最後の土寄せのときには、草が生えるのを予防するため、肥(こえ)を葉タバコの畝と畝の間へ入れていました。肥というのは、周辺に生えている茅などを刈って乾燥させたもののことで、それを丸めて杭を立てたものを『肥ぐろ』と呼んでいて、西予(せいよ)市のわらぐろに形が似ています。9月ころ、前の年の秋に刈って乾燥させておいた肥で肥ぐろを作り、圃地まで肥ぐろを背負って運び、葉タバコの畝の間に入れていっていました。肥入れを行うと、畝と畝の間に草が生えるのを防ぐ効果があったほか、葉タバコの根が湿気を帯びてしっかり張るという効果もありました。肥入れのときには、肥ぐろを作って圃地まで運ぶのに大変手間が掛かったので、とてもせこかった(大変だった)ことを私(Bさん)は憶えています。また、台風が来たときには、葉タバコの茎が倒れないように、足で土を根元に寄せた後、踏み固めていました。茎をまっすぐにしておかなければ葉がねじれることがあるので、何回も倒れた茎を起こしていました。台風などで葉タバコが倒れたときは本当に辛(つら)かったことを憶えています。」

 キ 連作障害

 「この辺りで葉タバコを作っていた農家のほとんどが連作を行っていましたが、その方が葉の色が黄色く色付いているという話をしていたことを私(Aさん)は憶えています。ピクリンという消毒用の農薬を圃地の土の中に打ち込んでおくと、根っこが線虫に食われてしまうことを防ぐことができましたが、私はあまり行ったことはありませんでした。」
 「私(Cさん)の家では60年くらい葉タバコを作っていたと思いますが、連作をしていると葉タバコが病気にかかることがあるため、同じ畑で作り続けずに、1年間は畑を休ませながら作っていました。また、同じ畑でずっと連作していた人も、収穫後にきちんと土地の消毒を行うようにしていました。終戦後には様々な農薬が出回りましたが、ときには、農薬を使用して収穫した葉が専売所での納付の際に、農薬臭(くさ)いという指摘を受けて廃棄させられることもありました。収穫後に、土の中の葉タバコの残骸を全て焼却したり、枯れ草などを敷いて圃地を肥やすようにしたりしていると、同じ圃地で10年連作していても葉タバコが病気にかかることは少なかったと思います。」

 ク 収穫

 「葉タバコの収穫は6月下旬から8月上旬ころにかけて行っていました。この辺りでは茎の一番下に生えている葉を土葉と呼び、そこから上へ向かって中葉、本葉、天下(てんじた)、天葉と呼んでいて、下の方の葉から上の方へという順に収穫していきました。収穫は手作業であったため、朝、下の方の葉から収穫を始めると、上の方の葉を採るころにはお昼ころになっていたことを私(Aさん)は憶えています。収穫は晴れの日に行い、雨天であれば収穫することができませんでした。収穫するときには、乾燥後に調理しやすいように、葉の種類ごとに分けて採るようにしていました。近所には3反くらいも葉タバコを作っている農家もありましたが、そこも家族だけで収穫を行っていました。上の方に生えている葉には葉を食う虫がよく湧いていたので、そうした虫を見つけると噴霧器で殺虫剤を散布することもありましたが、葉への影響を考えて、ほとんどの場合は1匹ずつ手で殺すようにしていました。」
 「収穫のため葉タバコの中へ分け入るときには、汚れてもよい、着物のような作業着に着替えていました。茎の上の方の葉ほど粘り気が強く、作業着に葉の脂(やに)が付くことがよくあり、その脂の粘り気は、市販の固形の洗濯用石けんを使っても落とすことができなかったので、自分で米ぬかと洗剤の素とで洗剤を作っていました。当時は、洗濯板を使った手洗いであり、重労働であったため、私(Bさん)の家で葉タバコ作りをやめたときは、本当にうれしかったことを憶えています。」
 「この辺りでは葉タバコの収穫を6月末から行っていて、私(Cさん)も子どものころ、夏休みになると収穫の手伝いをしていたことを憶えています。収穫する時分は暑い時期だったので、午前中に収穫していました。上の方の葉ほどニコチンの含有量が多いのですが、最近はニコチンの含有量の多い銘柄のたばこは好まれなくなっているので、良い値のたばこに使うことができるのは中葉の中どころでした。専売公社の買い取り価格が良かったのが中葉と本葉であったため、下の方の葉を飛ばして収穫する耕作農家もいたほどです。雨天のときには収穫ができなかったので、天気をにらみながらの作業でした。収穫の際には、まだ黄色くなっていない、淡い緑色の葉を採っていきましたが、葉は熟し過ぎると品質が悪くなり、納付時の等級が下がってしまうので、同じ集落の人たちと助け合いながら、収穫の時期を逃さないようにしていました。」

 ケ 乾燥

 「乾燥室で乾燥させていた黄色種とは異なり、阿波葉は天日で乾燥させていました。私(Aさん)の家で葉タバコを作っていたころは、お盆の時期であっても家族みんなが葉タバコにかかっていたため、お盆休みなどはありませんでした。そのころ、真っ青な色をした中葉、本葉、天下、天葉を採ってきて縄に挟んでいきました。タバコを縄に挟んだものを連縄といいますが、それを最初は屋内の日光の当たらない場所で吊(つ)っておきました。すると、葉が発酵して青色から黄色く変色していくので、半分くらい黄色に変色すると天日干しにしていました。その時期には、下の方の葉はすでに黄色になっていたので、採ってきて連縄にして外で干していました。私の家にはタバコを干すための乾燥場もあり、当時は1軒全て使ってタバコを干していたことを憶えています。」
 「葉タバコを作っていた農家では、屋内に乾燥室を設け、収穫した葉から順に干していたことを私(Cさん)は憶えています。収穫は葉が淡い青色をしている時期に行い、屋内で少し発酵させてから屋外で天日干しをしていました。屋外に、乾燥室の庇(ひさし)に接して外枠を設け、鉄線を張り、鉄線に通しておいたS字のフックに連縄を吊るして干し、夕方には葉タバコの連を外枠から庇の下へ押し込んでいました。随分後になると、ビニルハウスの内部で乾燥させることもありました。」

 コ 葉熨し

 「収穫した葉を乾燥させるとしわが寄ってきますが、そのままでは納付できないので、葉を熨(の)して広げていきます。終戦後には40枚を1束として結束していました。葉を熨した後で広げると、刻んだときにきれいな形になります。葉の中骨(ちゅうこつ)(葉脈)という部分を切除してから切って、何枚か重ねたものを刻み、刻んだ葉はキセルで喫(す)っていました。私(Cさん)は子どものころ、葉熨し作業をよく手伝っていて、広げた葉の枚数に応じてお小遣いをもらっていました。お小遣いをもらうと、よくお店へ飴(あめ)玉を買いに行っていたことを憶えています。」
 「タバコの葉を破らないように気を付けて葉熨しを行った後、四角に揃えて家の中へ積んでおくと、葉の重みで自然と形が整っていました。納付するときには、中葉、本葉、天下など葉の選別をしてから梱包(こんぽう)していたことを私(Aさん)は憶えています。」

 サ 納付

 「集落ごとに専売所(新宮たばこ取扱所)への納付日が決められていて、その日になると、私(Aさん)は葉を俵詰めにしたものを荷車3台に積んで、父と専売所まで運んでいました。田之内集落は上山地区でも西の端の方にあるので、専売所までは比較的近い方でした。
 専売所では専売公社の鑑定人が、『中葉の何等』、『本葉の何等』などと等級を決めていました。葉の色が赤黄色いものが最も上の等級で、等級は5等くらいまであったと思います。1等と3等では専売公社が葉を買い取る価格に随分開きがありました。きちんと葉の選別がされておらず、質の良い葉に悪い葉が混じっていると、等級を落とされていました。
 自分の家で作った葉タバコの納付は1日で終わりましたが、新宮村の全ての耕作農家が納付を終えるまでには15日から20日くらいかかっていたと思います。多喜浜(たきはま)(新居浜(にいはま)市)から通って来ていた職員の方は、その間ずっと専売所の近くにあった旅館に泊まっていました。葉タバコの納付期間中は、上分(かみぶん)町(現四国中央市上分町)からやって来た呉服屋さん、金物屋さん、傘屋さんなどが専売所の近くの家を借りて店を出していました。専売所で葉タバコの納付を終えた人たちは、それらの店でいろいろな品物を買っていたことを憶えています。」

 シ 専売公社で働く

 「私(Cさん)は専売公社に就職後、岡山県と大分県にあった研修所で1年近く研修を受けました。私が新宮出身だったこともあり、最初は新居浜支所に配属となり、新宮のたばこ取扱所に駐在で勤務していました。その後は、黄色種の産地であった川之江や西条(さいじょう)のほか、香川県や高知県でも勤務していたことがありました。
 当時は、管轄地域の区割りをして、地区ごとに年間5回くらい栽培技術の説明会を開いていました。その説明会も管轄地域全体を対象にして各集落の長に集まってもらう会と、各集落の全ての耕作農家を対象とする会とに分けて開催していました。耕作農家を対象にした説明会では、今年度はどのような点に気を付けて栽培していけばよいか、などというようなお話をしていました。苗の作付けや移植の前など耕作の大事な時期に開催していたほか、収納後には反省会も行っていました。葉タバコは肥料の与え方一つで品質が大きく変わってくるので、品種や土地に適した肥料を使用することや、冬場には窒素分の高い肥料ではなく油粕などを混ぜることなどを指導していました。きちんと圃地を整備して耕作していた人の葉タバコは、収穫時に1級、2級といった上位の等級のものが多かったように思います。
 私は技術指導員として勤務している間、耕作農家の方に対して、必ずこういうやり方で葉タバコを作りなさい、というようなことは絶対に言わないように心掛けていました。私たち技術指導員も、毎日付きっきりで指導することはできなかったので、『この辺りで良い品質の葉タバコを作っている方のやり方を取り入れてみたらどうですか。』という話し方をして、農家の方にとって無理なことを押し付けるようなことはしませんでした。そのようにして60歳の定年まで勤め上げることができましたが、今になって考えると、当時の耕作農家の方々は本当によくやってくれていたと思います。」

 ス 葉タバコ作りを振り返って

 「この辺りでは、昭和38年(1963年)ころに葉タバコ作りをやめた農家は多かったように思います。家にあった古い土蔵を現在のような蔵に建て替えたのは、私(Bさん)の長男が小学校1年生のときだったので昭和40年(1965年)のことだったと思います。私の家でもそのときにはすでに葉タバコ作りをやめていたことを憶えています。新宮では随分前に葉タバコ作りが終わったため、今の若い人たちは葉タバコを見たこともないと思いますし、どのようにして栽培していたのかといったことも全く知らないのではないかと思います。」
 「新宮のような傾斜地で葉タバコを栽培していると、畑の土が次第に下へずって(ずり落ちて)くるので、ずってこないように土を上へ持ち上げなければならないという苦労があったことを私(Aさん)は憶えています。この集落には私より2、3歳上で、とても熱心に葉タバコを作っていた方々がいたのですが、何年か前に亡くなってしまいました。」

(2)山村のくらし

 ア 戦時中の記憶

 「私(Aさん)が子どものころ、近所に葉タバコを作っていた農家はありましたが、養蚕を行っていた農家はありませんでした。養蚕を行っていた集落では、葉タバコと蚕の相性が良くないため、なるべく葉タバコを作らないようにしていて、葉タバコ作りと養蚕の両方を行っていた農家はせいぜい1軒くらいでした。当時、田之内集落の向こうにある中上(なかうえ)集落には養蚕農家が2軒くらいあり、そこへ桑の木の皮を剥ぎに行き、採った皮を学校へ提出していました。
 また、私の家には男衆さんと女衆さんがいた時分もあり、住み込みで寝食を共にしていました。男衆さんはどちらの出身であったのかはっきりとは憶えていませんが、女衆さんは田之内の隣りの倉六(くらろく)という集落から来てくれていました。」
 「戦時中のことですが、私(Bさん)が小学生のころ、ヒウジ(カラムシの別名)の皮を採って提出するという夏休みの宿題が出されたことがありました。ヒウジという植物はこの辺りではたくさん自生しており、そのときは親がヒウジの皮を採って来て家で干しておいてくれて、それを学校へ提出したことを憶えています。当時は、ヒウジの皮や、養蚕農家が育てていた桑の木の皮を学生服の原料にしていたと聞いています。戦時中の日本は物資が不足していたので、子どもたちにまでそのようなものを供出させていたのだと思います。」

 イ 重労働だった稲作

 「昭和30年(1955)年ころには、川之江や三島では製紙関係の会社が増え始めていました。そのころ、私(Aさん)の弟は親から田畑を購入してもらって農業に従事することになっていたのですが、農業を嫌がり会社へ勤めに出てしまいました。そのため、弟が耕作する予定になっていた田んぼが宙に浮いてしまい、私の家で4年か5年くらい耕作していました。
 この辺りの田んぼは米だけを作る一毛作でした。集落にまだ田んぼが多く残っていたころは、山の上の方にある田んぼが雨水を受けると、その水を順番に下の方にある田んぼへ落としていき、耕作に必要な農業用水を確保していました。今では、上の方の田んぼで米作りをしていた方が耕作をやめてしまったため、下の方の田んぼへ落とす水がなくなっています。また、昭和30年代は、家に車を所有している人はそれほど多くはありませんでしたが、この辺りのような山間地では車がなければ生活が不便だったので、軽トラックや乗用車を所有している人が結構いたことを憶えています。」
 「その当時は、田植機や稲刈り機といった農業機械も普及していなかったので、田植えから稲刈りまで全ての農作業を手作業で行っていました。私(Bさん)の家では、平成21年(2009年)まで米作りをしていました。主人は昭和46年(1971年)ころから農業共済組合に勤務するようになったので、普段は主に私だけで米作りを行っていて、主人も休日などには農作業をしていました。この辺りでは、湧き水のことを『出水(でみず)』とも呼んでいて、田んぼの周辺から湧き出る出水を農業用水として利用し、おいしい米を収穫することができました。田之内集落では、どの家も簡易水道から取水せず、出水を生活用水としても利用するほど、水にはとても恵まれています。
 私の家で5反(約50a)くらいの田んぼで米を作っていた時分には、この辺りの多くの家から、『お米を売ってほしい。』と言われていました。そのため、私は、米を収穫した後、籾(もみ)すりをして精米機にかけ、夜には部屋の電灯の下で黒い粒の米をけんどして(選(よ)り分けて)いたため、目を痛めて入院したことがありました。そのときは、周りの人から、『仕事のし過ぎよ。』と言われましたが、私は、『結婚してその家に入ったら、せざるを得んのよ。』と話していたことを憶えています。また、夏から秋にかけての台風による被害などで良い米が収穫することができなくても、収穫した米を自分の家で食べてしまわなければなりませんでした。今はお店で米を買うようになり、せこい目をして米を作らなくてもよくなったので良かったと思っています。」