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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 国鉄と人々のくらし

(1)国鉄で働く

 ア 入社試験の思い出

 「私(Aさん)は関川村(現四国中央(しこくちゅうおう)市)の農家の生まれで、生家は北山トンネルの東口付近にありました。当時、その辺りは今のように道路も整備されておらず、リヤカーが何とか通れるくらいの幅の狭い道があるくらいで交通の便の悪い所でした。当時は食糧の供出制度があり、米や麦を出すときにはその都度俵を担いで線路を越えて、柴車に載せて運んでいたことを憶えています。供出量は1反(約10a)当たりいくらと割り当てられていましたが、供出した米や麦などは国が公定相場で買い取ってくれたので、大地主さんは良い生活ができていたようです。
 私は尋常小学校(関川村立関川尋常小学校)に通学していましたが、卒業して間もなく校名が国民学校(関川国民学校)に変わったと思います。当時の義務教育は尋常小学校の6年間で、私は中学校に進学したかったのですが、親が許してくれなかったので高等科に2年間通っていました。高等科に通っていたころは、学校が終わると学校や友達の家でよく遊んでいました。ある日の夕方、私がいつものように友達と遊んでから帰宅すると、父の同級生で、三島(現四国中央市)の県の地方事務所に勤めていた方が訪ねて来ていて、その方から、普通の仕事をしていたのでは徴用に取られるが、国鉄に入社すれば徴用の対象にはならない、ということを教えてもらいました。国鉄に入社するといっても伝手(つて)が全くありませんでしたし、国鉄の入社試験を受けるためには身元保証人が2人必要であり、身元保証人の条件が直接国税を5円以上納めている人か国鉄職員であることだったので、役場に勤めていた同級生の父親と、近くに住んでいた川之江分区長さんにお願いして身元保証人になってもらいました。入社試験は西条(さいじょう)保線区で行われたのですが、受験に行く前に分区長さんから、『車掌が乗車券の確認に来たらこれを見せるように。』と言われて、自分の名刺に何か書いて渡されたのですが、それが乗車券の代わりになりました。入社試験では国鉄の服務規程を渡され、その条文を読むように指示されましたが、私は『…の虞(おそ)れあるときは…』という条文中の虞れの文字を読むことができず詰まっていると、保線区長さんから早く読むように促されました。そこで、私は思い切って、『おいはん、この字は何と読むん。』と質問したところ、『こいつは面白いやつだ』と思ったらしく、『それは、おそれと読むんじゃ。』と親切に教えてくれたことを憶えています。」

 イ 国鉄に入社する

 「入社試験の後で、私(Aさん)は昭和19年(1944年)2月1日付けで川之江分区の寒川(さんがわ)線路班への配属が決まったことを伝えられました。保線区には、線路分区という保線区の出張所のような組織がいくつかあり、一つの線路分区は三つの線路班から構成されており、川之江分区には寒川、三島、川之江の線路班が、土居分区には土居、多喜浜(たきはま)、新居浜(にいはま)の線路班がありました。当時、この辺りで国鉄に入社したのは私だけだったと思いますが、国鉄の職員になったことで徴用の対象にはならなかったため、軍需工場などに動員されることはありませんでした。
 線路班の責任者は線路工手長で、その下に副長がいて、私のような若い職員は正式には線路工手というのですが、よく『線路工夫』と呼ばれていました。私の入社当時は、高松(たかまつ)(香川県)にあった教習所で保線作業についての講習会が年に2か月くらい行われていて、そこで様々なことを教えられました。しかし、保線作業に必要とされる技術は、専門的かつ高度なものであったため1年や2年くらいで習得できるようなものではなく、昔の徒弟制度のように、先輩の職員に一から教わりながら経験を重ねて身に付ける、といったものでした。後に線路分区は支区という組織に変わり、従来の線路班も作業班と検査班に分かれました。作業班では線路工手が行っていた保線作業のような仕事を行い、検査班では分岐器(線路の切り替えを行う所のことでポイントとも言う)の機能検査を行ったり、線路の高低のレベルを測量したりしていました。そのころ、私は川之江支区に所属していて、作業長を務めていたころは、若い作業員たちと一緒に分岐器を組んだりしていましたが、その後、検査長を何年か務めて定年を迎えました。」

 ウ 自宅が戦災に遭う

 「私(Aさん)が国鉄に入社したころ、軍需用の石炭などを運ぶための一環だったと思うのですが、中国地方の柳井(やない)線を山陽本線に切り替えるために新しい線路を建設する工事が行われていました。私も先輩の職員に連れられて、助勤として出張していました。出張先で1か月くらい仕事をして、交替の作業員が来るとこちらへ戻り、それからまた出張先に行くというような形でした。出張先には布団などを自分で用意していたのですが、出張先から送った布団がまだ届いていないのに、また出張に行くということもあったため、布団の包みを2組用意していました。私が柳井線の大畠(おおばたけ)駅に出張して工事を行っていたとき、関西一円で米軍機(グラマン戦闘機)により機銃掃射をされたそうですが、土居の辺りも機銃掃射を受けました。そのときに自宅が被害に遭(あ)い、飼っていた牛2頭が焼け死んでしまいましたが、幸い人命の被害はありませんでした。出張先から帰って来ると、自宅が焼けてなくなっていたので大変驚いたことを憶えています。」

 エ 保線の仕事

 「私(Aさん)が国鉄に入社した当時は、1日の勤務時間は10時間で、休日は10日に1日の割合で与えられ、週休ではなく『旬休』と言っていましたが、当時は労働条件について今ほど厳しく言われることがなかった時代でもあり、それが当たり前のことだと思っていました。戦後に労働基準法が制定されてからは、1日の勤務時間は上限が8時間となり、休日も週に1日与えられることになりました。また、労働組合から会社に対し、土曜日を半休にするように要求したところ、事務系統の職員については認められましたが、私たち現業職員については認めてもらうことができなかったということがありました。
 保線の仕事は、普段から線路に異常がないか点検し、異常が見つかれば補修するという作業が中心となります。線路の直線部は真っすぐでなければなりません。在来線の軌間(レールとレールの間の間隔)は1,067mmでしたが、それより広いのは10m当たり7mmまで、狭いのは3mmまでと許容限度が決められていました。測定は、レールの側面に沿って10mの糸を張り、糸の5mの所でのレールと糸との水平距離で表しました。また、曲線部はできる限り真円に近い円形で保守しなければならないという規定があり、その作業のことを円度整正と呼びましたが、なかなか難しいものでした。軌間を測定するときにはゲージという測定器を使用し、軌間が許容限度を超えている場合には、犬釘(レールを抑えている釘のこと)を打ちながら、ミリ単位でレールを外側へ出したり内側へ入れたりして補修していて、当時、大抵の線路工手はそうした作業を1人でも行うことができていました。
 列車がカーブを走行するときには遠心力が働くため、外軌(曲線部の外側のレール)が外側に押されて軌間が広がりやすい傾向があります。また、走行速度が速いほど列車が外側へ倒れようとする力も大きくなるため、それを防ぐために、外軌を内軌(曲線部の内側のレール)よりも高くするように決められており、その高低差のことを『カント』と言います。服務規程では、カントの値は、レールの曲がり具合と通過する列車の走行速度によって決めることになっていて、走行速度が速いほどカントは大きくなりました。作業現場では、線路工手は線路工手長の指示を仰ぎながらカントを決めていました。線路の直線部に比べると曲線部の方が高い頻度で補修を行わなければなりませんでしたが、この辺りでは、関川駅と多喜浜駅の間の区間はカーブが多いため、補修に手が掛かっていたことを憶えています。」

 オ 大雨による線路の被害

 「私(Aさん)が国鉄に勤めていた間には、土砂崩れで線路が埋まったというような経験はありませんでしたが、大雨で線路の下の築堤が崩壊し、線路がはしごのような状態になっていたのを見たことがありました。そういうときには列車の運行を止めて修復工事を行わなければなりませんが、そのような工事は、工事を請け負った土木・建設業者の方々が行っていました。」

 カ 分岐器

 「私(Aさん)は若い作業員たちを連れて、川之江や観音寺のほか、遠い所では今治(いまばり)支区の桜井(さくらい)(今治市)の方まで応援を頼まれて分岐器を組みに行ったこともあり、多くの分岐器を組んでいました。その当時、私たちが組んだ分岐器が今でも三島に2、3か所残っていますし、伊予土居駅の付近にも残っています。分岐器の交換を行う作業は、列車の運行間隔の長い時間帯でなければできないため夜間に行われることも多く、業務変更や、夜間と昼間の勤務時間変更という形態をとって作業を行っていました。正規の勤務時間を超えて作業が行われることもあり、本給よりも増務給(正規の勤務時間以外の勤務に対する手当)の方が多いくらい、作業が多かった時期もありました。線路工手の仕事は肉体的にはかなりの重労働であったと思いますが、私は面白いと感じながら作業していたことを憶えています。
 作業で使用するレールは、専用の貨車に積み、それを貨物列車が牽引(けんいん)していました。レールを積んだ貨物列車が伊予土居駅に着くと、構内で連結を外して貨物列車専用の引込線に入れ、そこから作業現場へレールを運ぶときには、トロッコのようなものに積み替えてモーターカーで運んでいました。レールを切断するときには、レール切断機という電動のこぎりのような機械や、穿孔(せんこう)機というドリルの付いている機械を使用していましたが、昔は、金切りのこぎりで手作業でレールを切断していた時代もあり、あるとき、作業員同士で馬鹿話をしながら切断していたために、レールの切り口が斜めになってしまうというようなことがあったことを憶えています。レールの長さは番数(数字が大きいほど線路の曲線が緩やかになる)によって決められており、機械で切断するときには、切り口をまっすぐに切断しなければなりません。また、ボルト穴の位置が少しでもずれるとレールを締結することができないため、レールに穴を開けるときには十分に注意して行う必要がありました。私が作業長を務めていたころ、若い作業員の中には、どのような機械でも器用に使いこなす人がいて、私が、『レールはこうやって切断して、直径何ぼの穴をこうやって開ける』と指示をして、穴を開ける位置が分かるようにレールに印を付けておくと、1人でレールを切断し穴を開けることができていました。ところが、あるとき、その作業員が、『おやじさん、弱った。』と言ってきたので、私が、『どうしたんぞ。』と聞くと、『リードレール(トングレール後端とクロッシングレール前端とをつなぐレール)を少し短く切り過ぎた。』と言うのです。わざと間違えたわけではなかったため、『何しよったんぞ』と怒鳴りつけるわけにもいかず、短く切断したレールをいろいろと入れ替えてみたもののうまくいかず、結局、レールが使い物にならなくなったこともありました。レールの長さが少し違っただけでもそうしたことが起こるので、分岐器を組む作業を行うときには、かなり神経を使っていたことを憶えています。」

 キ 軌道検測車

 「私(Aさん)が国鉄に入社したころは、客車に私たち作業員が乗車して車体動揺の状況を検査し、軌道に異常がないか調べていました。そのとき、紙袋に入った石灰を用意しておき、車体の揺れ具合から、線路に異常があると感じた地点を目がけて石灰を落とし、補修する場所の目印にしていました。その後、保線区から石灰を落とした地点を教えてもらって、集中的にその部分の線路の補修を行っていました。今、考えると随分非科学的なことをやっていたものだと思います。
 その後、私が検査班で検査長を務めていたころには、軌道の検測を行うとき、高速軌道検測車が使用されており、車両の形式記号がマヤであったことから、私たちは高速軌道検測車のことを『マヤ車』と呼んでいました。マヤ車にはコンピュータ機械が搭載されていて、通常の急行列車などに連結して走行しただけで、高低や通り、軌間、平面性、水準などの軌道変位を測定することができました。その結果は記録紙に記録され、『マヤチャート』と呼ばれていましたが、当時、検査長であった私は、マヤチャートという軌道狂い波形が記録された用紙を受け取っていたことを憶えています。そのマヤチャートを基にして、検査班が担当区域の作業計画を立て、それを助役から作業班に伝えていました。私は検査長を最後に、国鉄の分割・民営化の少し前の昭和60年(1985年)ころに定年退職しましたが、私が検査長としてマヤチャートを活用していたのは退職前の3、4年くらいのことだったと思います。」

 ク 関川駅の設置

 「私(Aさん)が国鉄に入社した当時、関川駅はまだ開業しておらず、小学校の大先輩に当たる町議会議員の方に頼まれて、伊予土居駅と多喜浜駅の間に駅の設置を求める運動に協力したことがありました。伊予土居駅と多喜浜駅の間は十数kmとかなり距離があったうえに単線であったため、国鉄は両駅の間に信号所を1か所設置して列車の行き違いをさせる計画だったようですが、それに合わせて駅を設置することになったのだと思います。また、駅が建設される位置は、計画段階では北山トンネルの西側になっていましたが、トンネルの東側に設置してもらうように運動してくれないかと頼まれて、各方面へ走り回ったことを憶えています。当時、地元ではこの運動をとても歓迎していて、関川駅の建設について反対する人はほとんどいませんでした。こうした運動が実を結び、関川駅が開業したのは昭和36年(1961年)のことでした(写真3-1-2参照)。」

(2)駅に運ばれてきた貨物

 ア 日通で働く

 「私(Cさん)は津根(つね)村(現四国中央市)の出身で、昭和16年(1941年)に尋常高等小学校の高等科を卒業して、その年の11月から日通土居支店に勤めるようになりました。当時、私のいとこが土居の郵便局に勤めていて、あるとき郵便局にやって来た日通の土居支店長さんから、『知り合いで誰かうちに勤めてくれる人はおらんかね。』と尋ねられたことがありました。私は、いとこからその話を聞き、日通に勤めることにしました。
 当時、国鉄の各駅に運送業者が入っており、伊予土居駅には日通以外の運送業者はありませんでした。日通の事務所は駅前にあり、自宅から事務所までは毎日歩いて通っていました(図表3-1-3の㋐参照)。毎朝8時くらいまでには出社し、終業時刻ははっきりとは憶えていませんが、夕方には帰宅していました。その後、私の家から歩いて10分くらいの所に住んでいた私の同級生が日通に勤めるようになると、一緒に帰宅するようにしていたので、帰りが少し遅くなったときも寂しいことはありませんでしたし、ときには近所の方が家の近くまで迎えに来てくれたこともありました。終戦の年(昭和20年〔1945年〕)の10月末まで日通に勤めていましたが、支店長さんの体の具合が悪かったため、私が支店長の代理として会社の会合に出席することもよくありました。」

 イ 米俵

 「私(Cさん)が日通に勤めていたころ、土居支店には荷馬車はなく、普通の荷車がありました。通常の荷物であれば1人で荷車を引っ張っていましたが、荷物が多いときにはもう1人が後ろから荷車を押して動かすようなこともありました。当時の伊予土居駅では貨物が取り扱われており、貨物専用の引込線の終点部分の傍(そば)には、貨物列車で運ぶ荷物を一時的に保管するための倉庫が設けられていました。倉庫は上屋の建物で、そこへ農産物などが集荷されていました。上屋の倉庫から貨車に分厚い木の板を橋のように渡し、その板の上を通って荷物を積み込んでいました。当時、土居駅には米俵が数多く運ばれて来ていたと思います。日通の事務所の西隣には、土居の農協のものだったと思いますが大きな倉庫があり、そこに荷車で米俵などの荷物が運び入れられ、貨車に積めるくらいまで集められると、日通の仲背(なかせ)さん(荷物の運搬を職業とする人)たちが引込線の傍の倉庫まで運び、そこから有蓋(ゆうがい)車(屋根付きの貨車)に担いで積み込んでいました(図表3-1-3の㋑参照)。駅前の広場がかなり広く、貨物列車が駅に到着してから倉庫の荷物を貨車まで運んでいると時間がかかってしまうのでそうしていたのだと思います。現在、かどや旅館の西隣に残っている木造の建物は、かつて日通の事務所として使用されていた建物で、その西隣に農協の倉庫があったのですが、取り壊されてしまったため現在は残っていません。」

 ウ 鉱石

 「赤石鉱山で採掘された鉱石は、伊予土居駅のほかに天満(てんま)の港へも運ばれていた、という話を聞いたことがありましたが、私(Cさん)が日通に勤めていたころには、小型自動車で土居駅までよく運ばれて来ていました。鉱石は駅前の広場に降ろされると、仲背さんたちによって米俵と同様に線路の脇の上屋まで一旦運ばれ、そこからスコップで無蓋車(屋根のない貨車)に積み替えられていたことを憶えています。」
 「昔、浦山川の上流には伊予鉱山があり、私(Aさん)が小学生のころ、川沿いの道端に落ちていた小さな銅の鉱石を拾い集めてよく遊んだものでした。銅山で採掘された鉱石は、新居浜の港までバタンコ(小型のオート三輪車)で運ばれていて、私の小学校の先輩に当たる方がバタンコを運転して鉱石を運んでいたことを憶えています。また、赤石鉱山で採掘された鉱石も土居駅まで運ばれ、そこから貨車に積み替えられていました。」

写真3-1-2 関川駅

写真3-1-2 関川駅

右奥に北山トンネルが見える。平成30年12月撮影