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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 伊予土居駅前の町並みと人々のくらし

(1)駅前の町並みの移り変わり

 ア 昭和10年代から20年代の駅前

 「私(Aさん)が小学生のころ、駅前で小旗を振りながら出征兵士の方を見送ったことがあり、そのころにはかどや旅館があったことを憶えています(図表3-1-3の㋒参照)。また、駅前の通りと金毘羅街道の三叉路(さんさろ)の角にあった家のねき(すぐ近く)にお菓子屋さんがあり、そのお店のおばさんにとてもかわいがってもらったことを憶えています(図表3-1-3の㋓参照)。」
 「私(Bさん)は駅前の地域で生まれ育ちました。父親が転勤族であった関係で、小学1年生から中学1年生まで他所(よそ)で生活していましたが、駅前の家や店で以前と変わった所はほとんどありませんでした。松本屋という食堂は、元々誓松(ちかいまつ)のねきにあり、伊予土居駅が開業した後に駅前へ移って来たそうです(図表3-1-3の㋔参照)。このほかにも駅前には様々なお店ができて、私が生まれたときには、駅前の通り沿いには加藤の呉服屋さんや鮮魚店があったほか、金毘羅街道沿いには白川屋という呉服屋さんもありました(図表3-1-3の㋕、㋖参照)。また、昔、駅前の松屋タクシーの場所には旅館があり、その前辺りに人力車が停(と)まっていたそうです(図表3-1-3の㋗参照)。私の子守りをしていたおばあさんが、お客さんがいないときに人力車に乗せてもらったことがあったという話を祖母から聞いたことがあります。松屋タクシーの南隅辺りには火の見櫓(やぐら)があり、それに接するようにして、同級生のお母さんがうどん屋さんを営んでいましたが、昭和30年(1955年)ころに生花店に変わりました(図表3-1-3の㋘、図表3-1-4の㋐参照)。うどん屋さんの隣では、おばあさんがタバコ店を営んでいて、お店の中の壁には短歌が書かれた短冊がたくさん掛かっていたことを憶えています(図表3-1-3の㋙参照)。タバコ店の南側はお店の移り変わりが多い場所で、子どものころ、ビリヤードなどの遊戯場があったり、戦後の一時期、せとうちバスの事務所があったりしました。」
 「駅前にあった化粧品店では、化粧品を扱う前はいろいろな商品を扱っていました。私(Cさん)が若いころには、時々そこでお茶などを買うこともあったことを憶えています(図表3-1-3の㋚、図表3-1-4の㋑参照)。お店の御主人はもう亡くなっていますが、御主人といろいろな話をしたことも思い出として残っています。」

 イ 昭和30年代の賑わい

 「昭和30年代の伊予土居駅前の辺りは、生活に必要な物が全て揃(そろ)うほどいろいろな商店があり、『土居銀座』と呼ばれるほど賑わっていたことを私(Bさん)は憶えています(図表3-1-4参照)。昭和34年(1959年)、土居町に生協が開店すると、町外の組合員さんが生協へ買い物に来たついでに駅前の商店でも買い物をするようになりました。今では生協はこの地域の生活を支えています。その2、3年後に国道11号が開通してからは、この地域でも車の通行量が増え、町外に大型店ができてそれまでとは買い物の形が変わりました。現在、駅前の辺りはかつてのような賑わいこそありませんが、食料品の購入は便利ですし、交通の便なども良く、80歳を過ぎた今でも車がなくても生活できる住み良い地域だと思います。」
 「私(Cさん)は、魚、肉、野菜などほとんどの物を駅前にある青果店で買っていました(図表3-1-4の㋒参照)。駅前には、バスの営業所や医院があったほか、電器店や衣料品店、家具店なども駅から徒歩で10分から15分くらいの距離にありました。生協ができるまではこの辺りには大きな店がなかったので、日用品以外でどうしても買わなければならないものがあるときには、主人が新居浜か三島へ行って買っていました。昭和40年(1965年)前後の話ですが、私の店で仲居さんをしていた方が、大阪に住んでいた娘さんを訪ねて帰って来ると、『田舎であっても土居の駅前ほど、何でも揃っていて便利の良い所はない。』と話していました。大阪では生活するのに便利な地域もありますが、住宅街の中にはお店やお医者さんに行くのにも遠くて不便な場所もありました。当時、土居駅前には生活に必要なものを売っているお店が揃っていて、私の家から歩いて行くことができる範囲内にあったので、日常生活で不便さを感じることはありませんでした。」
 「私(Dさん)が嫁いで来たころ、今の蔦廼家の東側駐車場の場所には、スーパーマーケットの走りのようなお店があり、平成に入る前ころまで営業していました。そのお店をいつから始められたのかは分かりませんが、店主の方は最初、三宅の自転車預かりの南側の狭い場所で商いをされていた、と義母(Cさん)から聞いたことがありました(図表3-1-4の㋓、㋔参照)。また、国道11号が開通したとき、すぐに国道沿いに移ったお店はあまりありませんでした。やがて、車の通行量が増えてくると、金毘羅街道は道幅が狭く歩行者が通行するのも危ないので、こちらにあったお店が少しずつ国道11号沿いに移って行ったのだと思います。」

 ウ バスの記憶

 「かつては土居駅の方からやって来たバスが金毘羅街道を通行していて、朝はかなり渋滞していた、という話を私(Dさん)は聞いたことがあります(写真3-1-5参照)。また、昔、義母から聞いた話ですが、お店の仕事で忙しかった義母に代わり、義父が息子の子守りをすることがあったそうです。義父はせとうちバスの株券を持っていたので、バスに乗って息子の子守りをしていたそうです。子どもはバスに乗せていれば機嫌が良かったので、株主優待で乗車できるバスに乗せて子守りをしていたのです。昭和30年代は、まだ自家用車が少なかったので、通りを走っていた自動車は仕事で使用する車や公共のバスくらいだったのではないかと思います。」

 エ 駅の利用者が多かったころ

 昭和32年(1957年)発行の『広報ちかいまつ第35号』には、「国鉄気動車は高松-伊予三島間、松山-多喜浜間をそれぞれ運転しているが三島-多喜浜間のみが運転していないためこの間の土居駅以東川之江間の通勤者並に一般利用者は他の駅に比べ多くの不便を来している。(中略)これ(多喜浜までの気動車の延長運転)が出来ない限り下り朝の6時30分上り午後5時07分の殺人的混乱は絶対避けられない(①)」と記され、当時の伊予土居駅の朝夕の大変な混雑ぶりを物語っている。また、昭和40年(1965年)10月に実施された国鉄のダイヤ改正により、伊予土居駅にも準急列車が上り下り2本ずつ停車することになった(②)。
 「私(Aさん)が若いころには伊予土居駅に準急列車は停車していませんでしたが、夜行列車が上り下りとも停車していて、国鉄に勤めていたころはよく利用していました。戦後、国鉄に労働組合ができてから、私は退職するまでの間、何かしらの役員を務めていた関係で、月に1日か2日くらいは年次有給休暇を取得して松山で開かれていた組合の会合に出席しなければなりませんでした。夜行列車が松山駅を出発するのは午後11時30分ころで、組合の会合が終わった後に軽くお酒を飲んでから乗車するのにちょうどよい時刻で、伊予土居駅には午前2時半ころに着いていたと思います。その後、準急列車が停車していた時期もありましたが、利用客はあまり多くはなかったのではないかと思います。時期は前後しますが、国鉄では列車のスピードアップが叫ばれるようになり、利用客のあまり多くない、採算がとれない駅に特急列車が停車しなくなったのだと思います。」
 「今、伊予土居駅に停車する列車は1両か2両編成の普通列車ですが、昔は機関車が車両を何両も牽引していて、朝夕は伊予土居駅からも新居浜の住友さんなどへ通勤する人たちがたくさんいたので、車両はとても混み合っていました。そうした人たちの多くは駅まで自転車に乗って来ていたため、駅前には自転車預かりで生計を立てていた方が何軒もあり、どちらの駐輪場も自転車でぎっしり埋まっていました。私(Bさん)の家の敷地が駅と隣り合わせで、通勤・通学客向けの駐輪場を設置するにはとても都合が良かったこともあり、駅の北の方からやって来る大勢の通勤客を目当てに、『私の家でも自転車預かりをしてみようか』と考えたこともあったくらいでした。」
 「昔は木ノ川(きのがわ)など遠方から土居駅まで歩いて来て列車に乗っていた方もかなりいて、朝早い時間の列車に乗るときには早めに御飯を食べていた、という話や、食糧が不足していた時代には木に実っていたカキなどを食べたりしてしのいでいた、という話を聞いたことがあります。また、現在は土居駅に特急列車は停車しないようになりましたが、私(Dさん)がこちらへ嫁いで来た昭和50年(1975年)ころには、特急列車や急行列車が朝夕の通勤・通学の時間帯には停車していたことを憶えています。」

(2)お店で働く

 伊予土居駅前で古い歴史をもつ割烹(かっぽう)・旅館店を営んでいるCさん、Dさんから、お店や仕事にまつわる思い出について話を聞いた。

 ア 蔦廼家

 「蔦廼家はお店を始めた当初から料理屋さんを主体として経営してきました。現在、役所で飲食店を管轄している部署は保健所ですが、かつては公安が管轄していた時期もありました。管轄する役所が変わっているため古い記録をたどることが難しいのですが、私(Dさん)から見て先々代の経営者が、大正11年(1922年)3月31日にこの土地と建物を登記した記録が残されています。また、私がこちらに嫁いで来たころ、西土居に住んでいるお年寄りの方から、『昭和3年(1928年)には蔦廼家の3階建ての建物があったことを憶えている。』とお聞きしたこともあります。
 お店の形態は時代とともに変わってきた部分もあり、先々代の経営者のころはカフェ(大正時代から昭和時代初期ころ、主として洋酒類を供した飲食店)も経営していたそうです。その後、時代の変化に伴って、少しずつ建物の補修や増築を行いながら、家業として現在に至っていると思います。」
 「私(Cさん)が日通に勤めていたころは、私の店を含む3軒のお店で日通の権利を持っていましたが、その後、他の2軒のお店は日通の取り扱いをやめています。私の店が日通の取り扱いを行っていたころの写真が残っていますが、運送を取り扱う権利を所有していただけでなく、実際に荷物の運送を行っていたのかどうかまでは分かりません。」

 イ 食糧難の時代

 「私(Cさん)は昭和20年(1945年)11月に結婚してこちらに嫁いで来ましたが、終戦直後は物が不足していたので、お店ではしばらくの間は商売になりませんでした。飲食店のウィンドウといえば、普通はお寿司などの料理が並べられているものでしたが、終戦のころ、ある飲食店のウィンドウに蒸したサツマイモが二つ並べられていたのを見て、とても驚いたことを憶えています。お店で少しずつ商売を再開するようになったころ、お米はまだ配給米しかなかったので、私の店に来た宿泊客の方は必ずお米を2合くらい持参していました。当時は、自分が食べる分のお米を持参しなければ、どこの宿泊施設にも泊めてもらうことができませんでした。御飯を炊く際には、復員してきた主人が持ち帰った飯盒(はんごう)を使用し、お米を洗うと七輪に火を起こし、その上に飯盒を置いて御飯を炊いていました。飯盒は内盒と外盒の二重構造になっていて、両方を使うと一度にお客さん2人分のお米を炊くことができましたが、その当時は、お客さんが一度に何人もやって来るということはなかったので、それでも問題はありませんでした。また、お客さんにお酒を提供しようにも、当時は、お米と同様に、配給される何合かのお酒しかありませんでした。そこで、主人は自転車で徳島の方まで出掛けて各家庭を回り、いらなくなったお酒を買い集めていたこともありましたが、それでもお店でお客さんに提供するのに必要な量にはほど遠いものでした。」

 ウ 多忙な日々の記憶

 「昭和20年代の初めころは、まだお店もそれほど忙しくはありませんでしたが、20年代の後半ころから少しずつ忙しくなってきました。そのころは、お花見の時期になると、朝渡しといって、お客さんが朝の7時とか8時にお弁当を受け取りに来る、ということがあったので、受け取りに来る時間に間に合わせるために、徹夜でお弁当をきちんと用意しておかなければなりませんでした。また、徹夜明けの日であっても、お昼の仕事が入っているときには、その準備のために寝ることができなかったため、若いころではありましたが、とても辛(つら)かったことを私(Cさん)は憶えています。」
 「義母がまだ店で仕事をしていたころには、事前に予約を入れることなく宴会や宿泊を申し込んでくるお客さんもいました。そうしたお客さんにもできる限り対応するようにしていると、馴染(なじ)みになったお客さんは、当たり前のように事前予約なしで宴会などを申し込んでくるようになりました。仕出しの仕事を朝までしていたときでも、お昼前後には今でいうランチのような感覚で昼食を食べに来たり、夕方には仕事帰りに夕食を食べに来たりするお客さんもいました。そのため、1日中何かしらの仕事をしているというような状態でしたが、お店をしていればそれが当たり前のことだと受け止めていました。しかし、不意に来るお客さんがあると休む時間がなくなってしまうので、台所でお刺身などのちょっとしたお料理を義母が、お酒の燗(かん)などを義父が担当し、接客を仲居さんに任せる、というように分業するようにして、仕事の合間にうまく体を休める時間を取るようにしていました。その当時はお店に仲居さんが5人から6人くらい常駐していたと思います。また、板場さん(調理師)を雇うようになったのは、主人が子どものころのことなので、昭和30年(1955年)ころだと思います。そのころにはお店がかなり忙しくなっていて、義母だけでお料理の世話をするのは無理だということで、板場さんを雇うことにしたのだそうです。」

 エ 宿泊客の変化

 「お店が少しずつ忙しくなってきた昭和20年代の後半ころ、宿泊客といえば、旅行客の方も少しはいましたが、県庁などの役所に勤めている方が出張の際に宿泊することが多かったと思います。その当時は自家用車を所有している人もそれほど多くはなく、交通事情も良くなかったので、松山や高知県から出張でやって来た方は1泊することが多かったことを私(Cさん)は憶えています。そのころは、行商の方たちも多くいて、土居のお店に商品を卸しに来た行商の方や、富山の薬売りの行商の方なども宿泊したことがありました。その後、交通事情が随分良くなると、松山や高知県から出張でこちらへやって来ても自動車で日帰りできるようになったので、出張のときに宿泊する、というようなことはなくなりました。」
 「野村(のむら)町(現西予(せいよ)市)はお相撲が盛んで、今も大相撲の巡業が行われていますが、ある方から、『土居にもお相撲さんがやって来たことがあり、そのときは、蔦廼家にもお相撲さんが泊まっていた。』という話を私(Dさん)は聞いたことがあります。おそらく、その当時のお相撲さんは列車で移動していて、私の店が駅から歩いてすぐの場所にあった、という理由で宿泊したのではないかと思います。また、現在は昔に比べると宿泊客も素泊まりの方が多くなってきたため、私の店ではビジネスホテルの形態でも営業するようになっています。私が嫁いで来た昭和50年(1975年)ころには、高速道路の建設などの仕事の関係者の方や、関東の方からこちらの会社に商用で来た方などがよく宿泊に利用していて、中には1か月から2か月くらい続けて宿泊する方もいたことを憶えています(写真3-1-8参照)。」


<参考引用文献>
①土居町『広報ちかいまつ 第35号』 1957
②土居町『広報ちかいまつ 第105号』 1965

<参考文献>
・日本交通公社『時刻表 通巻401号』 1959
・日本通運株式会社『日本通運社史』 1962
・日本国有鉄道四国支社『四国鉄道75年史』 1965
・土居町『土居町誌』 1984
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・四国旅客鉄道株式会社『四鉄史』 1989
・土居町教育委員会『土居のくらし(第8訂版)』 2002
・土居町『土居町50年のあゆみ・できごと』 2004

図表3-1-3 昭和10年代の駅前の町並み

図表3-1-3 昭和10年代の駅前の町並み

聞き取りにより作成。民家は表示していない。

図表3-1-4 昭和30年ころの駅前の町並み

図表3-1-4 昭和30年ころの駅前の町並み

聞き取りにより作成。民家は表示していない。

写真3-1-5 駅前のかつてのバス通り

写真3-1-5 駅前のかつてのバス通り

平成30年9月撮影

写真3-1-8 駅前から見た現在の蔦廼家

写真3-1-8 駅前から見た現在の蔦廼家

平成30年9月撮影