データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 製紙業と人々のくらし

 愛媛県の東端部に位置する四国中央市は、東は香川県に面し、南東は徳島県、南は四国山地を境に高知県に接しており、四国で唯一4県が接する地域である。四国中央市は、パルプ・紙・紙加工品の製造品出荷額では14年連続全国1位(平成29年〔2017年〕実績)となっており、製紙・紙加工業において日本屈指の生産量を誇る「紙のまち」となっている。
 この地域における製紙業の歴史は、宝暦年間(1751~64年)に遡るとされている。当初は自生のコウゾやミツマタを原料に、豊かな水を利用して紙を漉いていたもので、農家の副業にすぎなかったが、明治初年には多数の専業者もでき、家内工業として自営するようになった。コウゾ・ミツマタを使った上質紙の研究や生産高の向上、販路の拡大を図った薦田篤平(1823~97年)や、機械動力による原料叩解(こうかい)(紙の原料を押し潰したり、切断したりしながら繊維を短くすること)、蒸気乾燥機の発明など技術革新に努めた篠原朔太郎(1865~1952年)は、この地域の製紙業の先駆者であり功労者である。明治維新後、製紙工場はさらに増加し、紙の販路拡大や製紙技術の革新に向けた努力により、今日の当地域における紙産業の隆盛の基礎が築かれていった。明治末期には手漉き和紙の全盛期を迎えたが、その後、時代の流れとともに機械抄(す)き製紙工場が次第に増加し、主流は手漉き和紙から機械抄き製紙へと変化していった。機械抄き製紙の生産の拡大に伴って手漉き和紙の生産は衰退し現在に至っている。
 機械抄き製紙は、大正時代にスウェーデン製の抄紙機(紙抄き機)が導入されたことが契機となって急速に機械化が進み、機械抄き製紙工場が次第に増加した。第二次世界大戦以後は紙の需要増加を背景として、生産規模の拡大が図られていった。特に昭和22年(1947年)には洋紙抄紙機が導入され、洋紙、板紙への新しい領域への進出が図られたり、昭和27年(1952年)には銅山川疎水事業が完成し工業用水が確保されたりした結果、この地域の製紙業は飛躍的発展へと向かった。日本経済が高度成長期に入り、紙の需要が急速に拡大すると、企業の大規模化と新規参入が増大するとともに、原料や薬品を扱う商社や製紙機械メーカー等の総合的な補完体制が整い、紙産業の基盤整備が進んだ。現在、四国中央市の紙産業における製造品出荷額は約5,400億円(平成29年度実績)に上り、これを大きく分類した製品別全国シェアでは、新聞巻取紙や包装紙、衛生用紙、書道用紙などがいずれも高い数値で推移している。また、この地域で生産される品目は、新聞紙、文庫紙、紙おむつ、不織布、金封、書道用紙、封筒荷札、タック紙、紙管、漏斗紙、再生紙など多種多様を誇っている。
 本節では、昭和40年代を中心とする手漉き和紙の製造について、Aさん(昭和16年生まれ)から、昭和50年代以降の製紙工場における機械抄き製紙について、Bさん(昭和28年生まれ)から話を聞いた。