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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 農業と人々のくらし

 『伊予三島(いよみしま)市史』によると、旧伊予三島市の区域の昭和25年(1950年)当時の耕地面積は、10,793反(約1,079ha)であったが、その後の都市開発や工場の発展に伴い、徐々に減少していった。また、昭和40年代の中ごろになると、米の生産量増加と国民の食糧消費傾向の変化によって余剰米が生じたことから、本格的な米の減産が進められるようになり、水田野菜のサトイモやヤマイモ、ショウガなどの換金作物の栽培へと転換されていった。
 中でもサトイモは、古くはアオイモやフカイモ等が栽培されていたが、食糧事情の好転から現在の女早生(おんなわせ)種が栽培されるようになり、昭和46年(1971年)になると、サトイモが産地指定されたこともあって、昭和50年代にはその生産量が2,000t前後、出荷量が1,500t前後の水準を保つようになった。特に、山形県の「清川だし」や岡山県の「広戸風」とともに、我が国の三大局地風の一つである「やまじ風」の影響を受ける豊岡地区や寒川地区において、風に強い地下茎の作物が多く栽培されてきたことも生産量、出荷量の増加の要因の一つと考えられる。
 また、『川之江(かわのえ)市誌』によると、旧川之江市の田と畑の耕地面積は、昭和35年(1960年)にはそれぞれ740ha、276haであったが、昭和55年(1980年)には472ha、83haと、大幅に減少している。一方、樹園地は、昭和35年には175haにすぎなかったものが、昭和55年には444haとなっている。これは、昭和40年代前半を中心とするミカンの価格が好調であった時期に、田畑の改廃や転用により樹園地へ転換されたことや、山林が樹園地として開墾されたことが要因であると考えられる。
 しかし、昭和40年代後半に起こったミカンの生産過剰と価格の下落や、それに伴う昭和50年(1975年)の「改植等促進緊急対策事業」、昭和54年(1979年)からの「うんしゅうみかん園転換促進事業」により、樹園地の整理と廃園が進められ、栽培面積が大幅に減少するとともに、その生産は抑制されてきた。
 本節では、旧伊予三島市においては豊岡町のサトイモ栽培を、旧川之江市においては金生町のミカン栽培を中心に、戦後から昭和50年代にかけての農業とともにあったくらしについて、Aさん(昭和14年生まれ)、Bさん(昭和27年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。