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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 養蚕と人々のくらし

 愛媛県では、幕末から明治初めにかけて、士族授産事業の一つとして、養蚕業が各藩で奨励されたが、明治4年(1871年)の廃藩置県によって定着しなかった。明治維新後、県による殖産興業政策と士族授産事業によって、養蚕業は新興事業として発展していく。特に、明治20年(1887年)に着任した藤村紫朗知事は在任わずか1年であったが、愛媛の養蚕業の発展に尽くした功績は大きかった。明治20年代、養蚕業は士族授産の域を脱し、農家の副業として定着していく。明治末年から県は、技術指導と補助体制をさらに強化し、養蚕業の拡大を図った。その結果、明治40年(1907年)に3,000町歩(約3,000ha)であった県下の桑園面積は、昭和元年(1926年)には10,000町歩を超え、養蚕農家も全農家の約4割の5万戸にも達し、西日本一の養蚕県となった。
 南予地方は、気候が適していることから、農村部に養蚕が広まった。明治中期以降、南予の段畑地帯などで養蚕業が盛んになるにつれて、宇和島(うわじま)は繭の集散地となり、製糸業が盛んになった。また、旧津島(つしま)町においても、宇和海沿岸の段畑地帯で養蚕業が盛んになってくると、明治42年(1909年)、岩松に最初の製糸工場が開業したことを皮切りに、その後、相次いで製糸工場が開業していった。製糸業が盛んとなるに伴って、さらに南予地方の養蚕業は発展し、県の桑園面積の7割を超える主要産地となった。
 昭和初期、恐慌によって繭価が暴落すると、西日本一の養蚕県であった本県は大きく打撃を受け、特に主要産地であった南予地方は深刻な影響を受けた。桑園面積も急減し、桑園は水田や果樹園に変わっていった。戦後、食糧増産期を過ぎると、再び養蚕業は脚光を浴びるようになってきた。旧津島町においても、「町内の山間地帯、特に立地条件のよい御内、上槇地区に集団的養蚕団地を造成して(①)」養蚕業の振興を図っている。
 本節では、御槇における養蚕と子どものころのくらしにまつわる思い出について、Aさん(昭和8年生まれ)から話を聞いた。