データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予の遍路道(平成13年度)

(1)突合から下坂場峠・鴇田峠を経て下畑野川へ①

 遍路道は、吉野川橋を渡ると小田町突合(つきあわせ)の三差路に至る。その角の家の軒先に道標⑭がある。ここで道は左右に分かれる。澄禅は、「爰ニテ川ヲ渡りテ東北ノ地ヲ行、是辺路道也。西ノ地ヲ直二往ケバカマカラト云山道二往也。<18>」と記している。ここでは、突合で左折して田渡(たど)川をさらにさかのぼり、小田町臼杵(うすき)の倉谷、浮船(うきふね)、本成(ほんなる)、上畦々(かみうねうね)を経て下坂場峠(しもさかばのとう)を越え宮成(みやなる)に出てもう一つの峠鴇田峠(ひわだのとう)を越え久万町に至ると説明される<19>下坂場峠・鴇田峠越えの遍路道について述べる。右折して真弓峠(まゆみのとう)・農祖峠(のうそのとう)を越えて久万町方面に至る遍路道については後述する。
 突合で左折した遍路道は、小田川の支流田渡川に沿って北上する国道379号を進む。しばらく進むと、道の右側に石造大師座像が祀られている。やがて吉野川大組に入る。道の右側にある天満神社しめ石前には道標⑮があり、また集落のはずれの道の左側には遍路墓を含め墓石十数基が集積されている。国道の改修工事に伴い周辺の無縁墓を集めたものである。突合から4kmほどで中田渡に至る。
 遍路道はこの集落の入口で国道から右にそれて旧道を進む。やがて、新田八幡神社に至る。その拝殿に向かって左側の鳥居の側に立つ徳右衛門道標⑯が、菅生山まで4里の里程を示している。
 神社の裏側には大師堂があって、遍路にも便宜を供していたという。さらに進んで田渡川を渡って50mほど行くと、墓石群や六地蔵の並ぶ中に道標⑰がある。遍路道はすぐに国道と合流し、川の右岸を進む。
 上田渡に入りY字型の分岐点で遍路道は国道から左にそれる。その道を少し下った三差路に道標⑱がある。そこを右折して進むと遍路道の道端にあったという上田渡の薬師堂が、国道の傍らに新しく建て替えられている。遍路道をしばらく進むと再び国道に合流し、田渡川に沿ってやや東方に向かう。小田町と広田村の境近く落合大橋のたもとで遍路道は国道から左折してそのまま川の右岸を進む。300mほど進むと、小田町を流れる臼杵川と広田村を流れる玉谷川の合流点、広田村総津にある落合大師堂(写真2-1-6)の下に至る。ここに「右へんろ 左さぬき道」と道の分岐を示す道標⑲があり、手印のみの道標もあったという(現在所在不明)。
 遍路道は、落合大師堂の下で右折し、落合橋で玉谷川を渡って、国道を横切り、昭和3年(1928)開通の県道中山久万線(42号)に入り、臼杵川の南岸の一本道をほぼ東に向かってさかのぼる。500mほど進み臼杵川の支流倉谷川に架かる倉谷橋を渡ると倉谷の三差路に至る。この角に六地蔵と並んで徳右衛門道標⑳があり、菅生山まで3里を示している。また道標の後ろの小高い所には大師堂跡がある。この後遍路道は、小田町臼杵の浮船、大込(おおこみ)、本成、後谷(うしろだに)の諸集落を過ぎるが、この間道標はない。ただ、松山市港山町に「すが王さん百八丁 ひだりへんろうみち」の道標(後述第2章第3節(三津港・高浜港から太山寺へ)の㊸)があるが、仮にこれが当地方から移動されたものとすれば、その距離からして倉谷から浮船集落の辺りにあったのではないかと推測される<20>。
 この県道を行く遍路道の道筋には道標は少ないが、大込で遍路道の右上に大師堂、川を挟んだ左の山の中腹に昌福寺、さらに本成に進むと、右側に「延命山厄除大師」の額のかかる大師堂、またすぐ先の右側に三島神社などがある。遍路道はこの神社の所で臼杵川に架かる本成橋を渡り、川の北岸に移る。
 道を東へとさらに進むと、やがて上畦々の集落に入り、Y字型の三差路に至る。この分岐点に「四十四番近道」と刻まれた道標㉑がある。ここから遍路道は県道をそれて左の道を進むが、県道はつづら折りの坂道で、大きく迂回しながら下坂場峠を目指す。遍路道を300mほど行くと、左側に大師堂があり、その前に折損している徳右衛門道標㉒がある。この道標は、菅生山大宝寺からの距離を示したもので、寛政9年(1797年)の建立年が刻まれている。さらに500mほど進むと、杉林となり、下坂場峠越えの山道(写真2-1-7)になる。杉林を150mほど進むと、道の左側に「みきへんろうみち」とふりがなが刻まれた道標㉓がある。遍路道はここから谷川の脇を上り詰めて下坂場峠(標高570m)に達する。道は短いがかなりの急傾斜である。峠で迂回してきた県道と合流し、峠を1kmほど下ると久万町宮成に至る。ここで遍路道は、県道上尾(うえび)峠久万線(220号)と合流するが、その手前の葛城神社の下に大きな道標㉔がある。備前国総右ヱ門が娘の供養を兼ねて建立した道標である。
 遍路道は、ここで左折して神社の石垣と民家の間を抜けて県道220号に入る。左に進むとすぐに神社下の左側の小高い所に大師堂が見える。宮成の集落を進んでいくと二名(にみょう)川にさしかかったところで県道220号と分かれて遍路道は右折、二名川に架かる葛城橋を渡って左折すると、三差路の角にある森田大師堂の裏に至る。以前の遍路道は、葛城橋より少し上流で右折して二名川を渡ってから大師堂の正面に至り、その裏で左折したらしいが、この道は寸断されている<21>。
 大師堂の前に3基の道標㉕・㉖・㉗がある。大師堂の裏の角を右折して進むとすぐに福城寺の参道口と交差する。その道の角に道標㉘が立っている。ここから遍路道は、直進して菅生山までの最後の峠、鴇田峠(標高789m)越えの道となる。峠までは2km余り、自動車も乗り入れられる舗装された町道を由良野まで進む。ここから未舗装となっている町道は左に大きく迂回して鴇田峠に向かうが、遍路道はほぼ直線に近い状態で山道に分け入り、峠に向かう。その分岐点から100mほど上ったところに道標㉒と同じように菅生山からの距離と建立年を刻んだ徳右衛門道標㉙がある。ここで遍路道は、一度大きく迂回して上ってきた町道と交差するが、そのまま杉林の山道を直線的に上り詰めると、かつて茶屋もあり、行き来する人で賑わったという鴇田峠に達する。峠に至る手前に左山側からだんじり岩と呼ばれている10畳敷きほどの広い岩板が遍路道に迫るように突き出ている。その横には小さな大師堂と3基の願ほどきの碑が立っている(写真2-1-8)。その碑文の一つに、「寅之年之男 ヒフ病ニテ此処ノオ大師様ニオタノモシタラオカゲデナオリマシタオ願ホドキニコレオタテマス 昭和三年建之」とある。他の碑には、「胃腸病平癒」「諸願成就 胃癌」などと刻まれている。峠には道標㉚があり菅生山まで33丁を示している。
 峠からの下りの遍路道は、峠を迂回しながら下ってきた町道と二度交差するが、杉の林立する急な山道を直線的に下り、久万の町を目指す。途中「奥の地蔵尊」と呼ばれる所に至る。ここに道標㉛がある。やがて、久万町の斎場近くで峠を迂回してきた町道と再び合流して山道をさらに下っていく。しばらく行き麓(ふもと)近くで町道を左折して細い小道を進んでいくと、久万町(くまちょう)大字久万町(まち)辻の町並みに入る。
 久万の名称については、「おくま」という女が弘法大師の請うまま、織りかけの木綿を手巾(しゅきん)(手ぬぐい)用として裁ち与えたので、大師が感じて命名したという地名由来の伝説が残る<22>。久万町大字久万町古町には「於久万(おくま)大師堂」(写真2-1-9)がある。真念は、「久万の町、荷物おきすがう山井いわ屋へまうづ。此町ハ辺路をあはれむ人多し。調物自由なり。<23>」と記し、久万の町を打戻りの地にして、ここに荷物を預けて大宝寺、岩屋寺への参詣を案内している。
 遍路道は、辻の家並みを抜けてやがて国道33号を横切って久万郵便局の横を進むと、大字久万町福井町で旧国道(現久万木通り)と交差する。この交差点に嘉永5年(1852年)に建立された「うちもどり」の刻字がある大きな道標㉜が立っている。ここで左折して古い町並みの面影を残す久万本通りを北に向かう。150mほど行くと東西に通じる道と交差する。その角の民家のブロック塀の下に道標㉝がある。これには道後湯之町の案内の文字まで刻まれている。

写真2-1-6 広田村総津に建つ落合大師堂

写真2-1-6 広田村総津に建つ落合大師堂

平成13年5月撮影

写真2-1-7 下坂場峠の峠道

写真2-1-7 下坂場峠の峠道

平成13年5月撮影

写真2-1-8 だんじり岩付近の遍路道

写真2-1-8 だんじり岩付近の遍路道

久万町鴇田峠付近。平成13年5月撮影

写真2-1-9 於久万大師堂

写真2-1-9 於久万大師堂

久万町古町。平成13年5月撮影