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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)八坂寺から重信川へ

 八坂寺は、境内の石段を上がった正面に本堂、左手に大師堂がある。山門前には四十八番札所西林寺の方向を示した徳右衛門道標⑬と、他から移設されたと思われる道標⑭がある。八坂寺から西林寺に行くには重信川を渡るが、渡河地点に至るまでには文殊院経由と、「月見大師堂」や「足跡大師堂」経由の二つの遍路道がある。

 ア 文殊院・ハつ塚経由の遍路道

 八坂寺の山門を出ると、すぐ左に折れて小道に入り、八坂寺墓地の下を回って土用部(どようぶ)池(えばら池)に至る。この堤防下には貞享2年(1685年)3月建立の愛媛県内最古の道標⑮が立っている。かつてはこのほかに、現在愛媛県立歴史民俗資料館に保管されている道標(後述第2章第3節(石手寺から道後温泉へ)の⑯)もこの土用部池の堤防上に立っていた<22>。
 道標⑮から田畑の中の遍路道を北へ向かって諏訪神社の前を通り250mばかり進むと、遍路道は県道194号に合流する。その三差路右には字形が整い彫りも深い道標⑯があり、この道標の手印に従って県道を北にしばらく進むと文殊院(写真2-2-9)に至る。
 文殊院は、衛門三郎(右衛門三郎ともいう)の伝説で知られる寺である。この伝説について真念は、『四国徧礼功徳記』の中で次のように記している。

   予州浮穴郡右衛門三郎事、四国にていひ伝えかくれなし。貪欲無道にて、遍礼の僧はちをこひしに、たヽかんとしける杖
  鉢にあたり、鉢を八つにうちわりしが、八人の子八日に頓死せり。是より驚きくやミ発心し、遍礼二十一反して、阿州焼山
  寺の麓にて死けり。其時大師御あひ、その願をきこしめし、石に其名を書にぎらしめ給ひければ、郡主河野氏の子にむま
  れ、かのにがりし石、そのまヽ手の内にありて、右衛門三郎なる事をしれり<23>。

 文殊院を出て北に県道194号をしばらく進むと、八つ塚を案内する道標⑰がある。この道標の指示に従い、左折して100mほど進むと、『四国邊路道指南』に、「ゑわら村、大師堂有。此村の南に右衛門三郎の子八人のつか有、石手寺の縁起にくハし。<24>」と記された八つの塚が、民家や田んぼの中に南北にわたって点在している。伝承ではこの八つの塚は、衛門三郎の五男三女の墓と伝えられているが、歴史的には約1,400年前の群集古墳といわれ<25>、松山市指定の史跡になっている。八つの塚の上にはそれぞれ雑木が茂り、石地蔵が祀(まつ)られている(写真2-2-10)。一番北側の八つ目の塚の近くに道標⑱があり、その道標に従って県道194号を行く遍路道に戻る。松山市恵原町を過ぎ、同市上野町を北に向かって500mほど行った大宮八幡神社東側の三差路に、中務茂兵衛の道標⑲が立っている。このほかに昭和45年(1970年)ころには、大宮八幡神社参道ロにも「右へんろふ道」と記した道標があったというが、今は見当たらない<26>。
 茂兵衛道標⑲に従い遍路道は県道194号をそれて右折し、市道をしばらく北に進むと、右側に細い畦(あぜ)道が残っており、その道を進むとやがて御坂川(久谷川)に達する。『久谷村史』によると、この川の手前の土手に天保6年(1835年)に建てられた道標があり、そこから右折して久谷川を渡渉(としょう)していた<27>とあるが、その道標は行方不明になっている。
 昭和7年(1932年)ごろに遍路した宮尾しげをは、『画と文 四國遍路』の中で、「遍路道は田圃の中を通ってゐる。行く程に小さな川へ出る。向ふ岸に指先のついた遍路石が立ってゐるので、誰もが、その路標石を目當てに川を渡れば、いゝと考へ、バチャバチャ膝っ子位まで濡して渡ってゆく。中には衣類をぬらすまいと、眞裸になって、首へくくりつけて渡ってゆく者もある。<28>」と記しており、橋のない時代に遍路が苦労して川を渡っていた様子がうかがえる。なお、かつて御坂川の対岸にあったという手印のついた道標は見当たらない。
 遍路道は、大正橋で御坂川を渡り、左折して田んぼ道をしばらく進むと、建立者が米寿を記念して建てた「左へんろみち」と刻まれた道標がある。この道標の右側を北にしばらく進むと、真念が「○小村、大師堂、此間川三瀬有。<29>」と記した小村の札始大師堂(写真2-2-11)に至る。この大師堂は、衛門三郎が一夜、弘法大師の帰来を待ったといわれ、境内には「四国霊場遍路開祖衛門三郎札始大師堂」の石碑が立っている。大師堂にはかつて通夜堂があり、春には巡拝者のための茶の接待も行われていた<30>。地域の人々は、大正時代まで夏の土用の入りには、大師堂に納められた納札を一枚ずつ小竹に挿(はさ)んで田んぼの水口にさし、豊作を祈願していた<31>という。
 札始大始堂に行くにはもう一つ遍路道があった。茂兵衛道標⑲から県道194号をまっすぐ北に500mほど進んだ宮の北交差点に、かつて大宮八幡神社の参道近くから移設された<32>道標⑳が電柱に縛りつけられて立っている。この交差点で旧街道から右にそれて、北東に300mほど進んで御坂川に架かる上川原橋を渡り、南東に500mほど逆戻りすると札始大師堂に達する。
 札始大師堂から北にしばらく田畑の中の道を進むと、道端に小さな道標㉑がある。この道標の左を通り畦(あぜ)道や路地を通り抜けて400mほど北に進むと、**邸(小村町267)裏で県道207号と合流し、そこに茂兵衛道標㉒が立っている。またこの間の遍路道には昭和47年(1972年)ころまで1基の道標があったが、その後の道路改修の際に取り除かれて行方不明になっている<33>。

 イ 月見大師堂・足跡大師堂経由の遍路道

 八坂寺の山門を出た遍路道は、参道をまっすぐ進み、八坂寺バス停から自動車修理工場前の三差路を左折して東に100mほど行くと、田んぼの畦(あぜ)に西林寺を案内する道標㉓が立っている。この道標から東に100mほど進むと浄瑠璃公園に達し、そこを左折して北に100mほど進むと月見大師堂(写真2-2-12)に至る。ここには、昭和のはじめころに堂宇が建ち、ご利益を求める参詣者がいたという。しかしその後、信仰がすたれて一坪あまりの場所に石柱と大きな石が残るだけになっていた<34>が、平成6年に地元有志によってお堂が再建され、大きな石碑などが祀(まつ)られている。
 このお堂の前の遍路道を200mほど進み、御坂川に架かる矢谷橋を渡って200mほど東に進むと県道三坂松山線(207号)に出合い、道を横切ると「足跡大師堂」がある。昭和51年(1976年)に地元有志によって建てられたこのお堂には、弘法大師がつけたといわれる「足跡石」と、「南無大師遍照金剛」と宝号を刻んだ「姿見の石」が祀られている。またお堂の横には井戸もあって、昔は近郷の人々がご利益のある湧(わ)き水を汲(く)みに来たり、遍路もお堂をお参りしていたというが、今は嘉永2年(1849年)と銘記された手水鉢(ちょうずばち)が昔の面影を残すだけとなり、訪れる人も少ない。
 ここから右に分岐した旧県道を行く遍路道を800mほど北に進むと、国の重要文化財となっている渡部家住宅があり、邸宅の南東角に道標㉔がある。この道標の右側を通り、さらに遍路道をしばらく北に進むと「久米一里 森松へ一里」の標石があり、さらに少し北に進むと**邸(東方町1195)の道に面した庭に「左遍路道」と刻んだ自然石の道標がある。この道標は、刻字からすると逆打ち巡拝の方向を示している。
 この道標からしばらく遍路道は北に進んで県道バイパスの三坂松山線に合流し、さらに1kmほど北に進むと重信川手前の小林邸(小村町267)角の茂兵衛道標㉒に達し、ここで文殊院・八つ塚経由の遍路道と合流する。
 道は道標㉒に従い、県道207号を300mほど北に進むと、松山平野を東西に貫流する重信川(写真2-2-13)南岸の堤防に達する。橋を渡る手前の県道伊予川内線(23号)との交差点北東の**邸(小村町327)には、昭和36年(1961年)ころに建てたという土塀に埋め込まれた道標がある。この道標は八坂寺と西林寺を案内している。

写真2-2-9 番外札所文殊院

写真2-2-9 番外札所文殊院

松山市恵原町。平成13年11月撮影

写真2-2-10 八つ塚群集古墳

写真2-2-10 八つ塚群集古墳

松山市恵原町。平成13年11月撮影

写真2-2-11 札始大師堂 

写真2-2-11 札始大師堂 

松山市小村町。平成13年11月撮影

写真2-2-12 月見大師堂 

写真2-2-12 月見大師堂 

松山市浄瑠璃町。平成13年11月撮影

写真2-2-13 重信川と久谷大橋

写真2-2-13 重信川と久谷大橋

橋の下流(左側)に堰堤(えんてい)跡の石積みが見える。平成13年11月撮影