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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)円明寺から粟井坂へ

 ア 堀江への遍路道

 円明寺を打ち終えると、次の札所は道標㊼によると「九里八丁」の長丁場をたどる今治市阿方(あがた)の五十四番延命寺である。同じ読みの札所が続くので紛らわしい。それで札所番号を付けるか、「和気の円明寺」、「阿方の延命寺」などと呼んでいる<53>。長丁場を嫌ってか、あるいは利用してか、このルートを遍路たちは様々な方法で通っている。沿岸諸港から出る船便による海路の利用もその一つである。また、昭和2年(1927年)に省線讃予線が松山まで延伸されると、円明寺近くの伊予和気駅から汽車に乗り、遍照院のある菊間駅あるいは延命寺近くの大井駅(現大西駅)で下車する鉄道利用が案内され、利用者には便利になった<54>。この方法は、昭和初期の遍路紀行物でしばしば取り上げられている<55>。船路については後述するとして、まず陸路の遍路道をたどる。
 円明寺を出て、遍路道は県道松山港内宮線(39号)と一部重複しながら東へ向かう。松山市馬木町に入り、JR予讃線の踏切を渡って100mほど行くと県道との分かれ道に文久3年(1863年)の重厚な道標㊽が立つ。銘文「あかた圓明寺」は今治市の「あがた延命寺」のことである。道は東進しやがて左折北進して県道を越え、大きく北方に迂回して回り込み、大川に架かる遍路橋の西たもとに出て再び県道と合流する。遍路橋を渡ると、南東たもとに字形・字配り・彫りのどれをとっても立派な順路と逆路を示す道標㊾が立っている。道はここで、松山市鴨川から北上してきたいわゆる今治街道(以下「旧街道」と記す)に再び合流する。
 旧街道を行く遍路道は北上する。50mほど進むと東側に脇道があって三差路となり、その東南角に自然石の道標㊿がある。4、5年前までこの角の少し先、北東の空き地(旧福角(ふくずみ)村)にあったものを刻字の「大内平田村」に当たる現地に移したという。全体に造りは古風に見えるが、今まで報告記録されていないものである。やがて松山市堀江町に入り明神川を渡ったところで道は、JR予讃線の線路によって90mほど消滅している。東側を並行する国道196号は跨線(こせん)橋で鉄道線路を越えている。線路の向こう側には旧街道を行く遍路道がずっと続いており、鉄道と国道との間を北上、権現川を渡り、家並みのある通りを抜けて郷谷川に架かる前川橋を渡る。橋の北の十字路北東角にアスファルトに埋もれた道標(51)がある。水害のたびに堤防がかさ上げされ、路面が高くなって埋もれたのだという<56>。標石の二面は塀と電柱に接しているため刻字は読めない。
 ここからはしばらく遍路道は旧街道の面影を残している家並みを行く。北進して三差路を右折して東へ進む。この右折した東南角地を占める**邸(堀江町1526)内庭には、松山藩の里程石「松山札辻より弐里」が保存されている(写真2-3-3)。この松山藩の里程石とは、松山城堀の西北角の「札の辻」を起点にして今治街道及び波止浜街道に一里ごとに設けられたもので、はじめ標木であったが寛保元年(1741年)に標石を建立したという<57>。遍路道の行く方向とは逆に三差路を左折すると、すぐ突き当たりが光明寺で、門前には享保大飢饉の供養碑が立っている。
 旧街道を行く遍路道に戻る。東へ150mほど行くと三差路があって、その東南の角に明治19年(1886年)建立の茂兵衛「八十八度目為供養」の彫りが深くて重厚な道標(52)が立っている。順路と逆路と二つの遍路道のほか、「みやしま(宮島)出舟所」と堀江の港を案内している。旧街道を行く遍路道は指示通り直進である。

 イ 船路の旅・陸路の旅

 港へは道標(52)の指示に従って左折北進し、国道196号を越えさらに進むと約400mで堀江港に至る。堀江は古くからの港で知られる。江戸時代には松山藩領内十三浦の一つで、領内の旅人が船出する所といわれ、本州方面への舟の発着場所として賑(にぎ)わっていた<58>。
 とくに円明寺を打った後、安芸の宮島へ立ち寄る遍路が相当数あったらしく、『伊予道後温泉略案内』の中にも、「みやじま (中略)へんろはほりえよりかいしやう(海上)かた道十九り えんめいじ下ニつく<59>」などとある。すなわち、宮島等の参詣を組み入れた遍路行が、江戸後期から明治初期までしばしば行われたようである。次の図表2-3-6はこうした遍路たちの宮島等の参詣例を紹介したもので、三津と堀江の港がよく利用されていたことがわかる。また、彼らは参詣後再び四国へ戻り、佐方(菊間町)、大井新町(大西町)などに上陸して延命寺へ向かった。結果的には、長丁場である「九里八丁」の陸路を舟で迂回して省略し、道中旅の楽しさを味わっているともいえる。
 また、明治16年(1883年)出版の『四国霊場略縁起 道中記大成』では、「是より安芸の宮嶋参詣の人は、五十二番五十三番(に)札(を)おさめ、それより十八丁行(き)、堀江町に宮嶋行(き)の早舟あり。上り所大井の町にて約束すべし<61>」と案内している。明治の初めころまでは、宮島行きは堀江からの早舟が便利であったのであろうか。また、荷物の積み下ろしは堀江、客は三津浜という時代が帆前船から汽船に変わるまで続いたともいう<62>。
 再び旧街道を行く遍路道に戻り、道標(52)の指示に従って直進する。道はゆるやかに右カーブしつつJR堀江駅前に至る。この間の家並みには格子戸のある家が多く、かつては高橋屋・朝日屋などの遍路宿<63>が営まれ、昔の旅龍屋(はたごや)の面影を残しているものもある。JR堀江駅前の広場左角には毘沙門(びしゃもん)堂がある。駅前から道は放射線状になっている。左折し北西へ行く道は県道堀江港堀江停車場線で堀江港へ向かう。右側の道が旧街道を行く遍路道である。約200m進むと小川があり、その先は開発された住宅地になり道は消滅している。かつての道は小川を越えて200mほど北へ直進し、今は国道196号となっている旧街道を行く遍路道につながっていた。今は小川に出たところで左折し、少し行って国道196号に合流して進む。国道はJR線路に並行して、山が迫った海岸線を走る。
 約1km北に進むと大谷ロバス停留所があり、旧街道を行く遍路道はここで国道と分かれて右折しJR線路を越え、左折して線路沿いに北上し山道に入る。これからが粟井坂の難所であった。現在この道は300mほどしか進むことができず、山中で行き止まりである。近年、この道の山側には国道196号松山北条バイパスが走り、すぐトンネルに入るようになっている。かつて粟井坂越えの道はこのトンネルの近くから山に上り、上り下りしながら海岸寄りに峠を越えて北条市側に降りていたようである。旧街道としてあるいは遍路道としての機能を失ってから久しく、荒廃してその姿を今日たどることはできない。ただ、坂の頂上には、反対側の北条市方面からは登ることができる<64>。

写真2-3-3 二里の里程石

写真2-3-3 二里の里程石

もとは現在地前の旧街道の道端にあったという。平成13年7月撮影

図表2-3-6 近世及び明治初期における遍路中での宮島等の参詣 

図表2-3-6 近世及び明治初期における遍路中での宮島等の参詣 

A~Gの参考文献は文末注<60>。