データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予の遍路道(平成13年度)

(2)山路経由の道

 山路(やまじ)経由の道は県道38号を東へ進む。この道はかつての今治街道でもある。延命寺参道入口から200m余進むとJA越智今治乃万支所がある。この駐車場に、昭和55年(1980年)に建てた「松山札の辻より十里の地 野間郷脈村一本松」銘の標石が立っている。この標石から東方へ800mほど進んで瀬戸内しまなみ海道の高架下をくぐり、さらに200m余東に行くと山路の分岐点に至る。左は県道38号、右は今治街道で現在の県道桜井山路線(156号)である。このあたりは藩政時代の今治藩と松山藩の境界にあたり、領界石や道標が建てられていた。今治藩の領界石は東700mほどの三島神社境内へ、松山藩のものは北約300mの厳島神社入口石段前に移されている。また茂兵衛の道標㊸と延喜観音や乃万神社を案内した静道建立の道標は、この分岐点に残っている。
 三好保治の研究<38>によると、静道(1815年~1872年)は今治の人、尚信、のち静道尚信と称し、「金吉屋静道」「寛譽静道」「心精院静道」「静道居士」「光風亭静道」「金川堂静道」「雪霽庵静道」などの異名を持った。先祖は今治城下鍛治町に住む鍛冶職人で、屋号は金吉屋、在家仏者だと思われる。弘化2年(1845年)から没年までの27年間に12種35個の石造物を今治市内外に残しているという。南光坊から五十九番国分寺に至る道筋に、連続した内容と思われる俳句が彫られた静道道標が7基ある<39>。
 遍路道は前記分岐点から左側の道、県道38号を浅川沿いに行く。800mほどで海地橋を渡り浅川の東側を進む。海地橋は昭和63年(1988年)にできたもので、それまでは100m余先にある海禅寺橋(昭和61年には海路橋となっている<40>)まで川の西側を通り、ここで橋を渡るのが元の道で、海禅寺の本堂左前にある大師像横の茂兵衛道標㊹もこの海禅寺橋の辺りにあったものと思われる。この茂兵衛道標㊹は下から三分の一ほどで折れたのをコンクリートで補修している。この道標は昭和62年には、海禅寺参道口浅川西縁の地蔵の横に折損したまま放置されていたが、平成3年1月には境内に移されたという<41>。
 現在の海地橋を渡る遍路道は海禅寺下の浅川東岸の県道を300m余進み、茶堂橋のたもとで大谷越えの遍路道を吸収する。茶堂橋の東たもと、県道38号の左側に、地蔵と並んで「延命寺」の部分を彫り直した静道道標㊺がある。これも昭和62年には、地蔵の立つ傍らに横倒しで埋もれかけていたが、平成元年8月には浅川整備工事で陽の目を見たという<42>。
 茶道橋から100mほど進むと市道宮脇片山線に合流する。この道は県道38号と重なった道である。合流した道は、今治北高等学校を左に見て、浅川東岸から離れ北東に進む。JR線の高架下をくぐって別宮町へ直進し、「別宮(べっく)さん」の呼び名で親しまれている大山祇(おおやまずみ)神社の社叢を見て右折すると南光坊に至る。この間およそ500m、今では道が整備されここへ至るには、JR線高架下をくぐる地点を過ぎてからすぐ右折するなど幾筋もの道がある。