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伊予の遍路道(平成13年度)

(2)竹林寺を経て国分寺へ

 ア 新谷・谷から竹林寺へ

 竹林寺経由の遍路道は前述の「智慧文殊尊道」と刻まれた道標⑥のある新谷・谷の分岐点から右へ折れる。
 竹林寺が明治時代に刷ったという「参詣案内圖」には、道標⑥から山伝いに竹林寺へ向かう道が描かれている。
 道標⑥から三島神社の裏山の急な道をしばらく下っていくと、三差路の右手前に舟形地蔵の道標㉘がある。突き当たって左折し少し進むと今治市新谷・土居に入り、すぐの所に土居上池があり、南西隅の土手に道標㉙がある。土手を通り過ぎたところで左折して、土居集会所前を通り過ぎると三差路があり、その左側にある道標㉚の指示に従って進み、八幡神社の前を通ると宮下池に至る。かつての遍路道は、この池の土手を通り、山の中の道を通ったものと思われるが、今はこの道はほとんど使用されておらず、宮下池から先の道は草木が生い茂り通れる状態ではない。現在の遍路道は、池の手前を左折して東進し、県道今治丹原線(155号)に出て山すそを通って朝倉村古谷の竹林寺へ向かっている。五台山竹林寺は、『空性法親王四国霊場御巡行記』に、「佐礼の山、(中略)滝の流の古谷竹林の五台山、南方皇子三陵墓、朝倉樹下万願寺<10>」とその名が記されている。地元では、今でも「智恵の文殊さん」として親しまれている。

 イ 竹林寺から国分寺へ

 竹林寺から東へ坂道を下って行くと三差路に至る。そこにある消防車庫の脇に地蔵堂と破損した道標㉛がある。「□□□道」としか読めないが、国分寺を示したものと思われる。
 三差路を左折し、多岐川に沿った遍路道を北東へ進む。川の土手を約1km行くと、県道155号と交差する。この四つ角の北西側に道標㉜がある。この道標に従い、県道を越え頓田川へ向かって進み、頓田川に架かる栄橋を渡って四つ角を左折し、頓田川に沿った土手下の道を川下へ約200m行くと三差路に至る。その角に「五十」の刻字だけが見える道標㉝がある。この道標から三差路を右折し、三島神社のある山に向かって約200m進んで左折すると、すぐ右側に山型鋼と針金で補修された道標㉞がある。さらに北東に200mほど進んで右折し、しばらく行くと三差路に至り、左手の**邸(今治市登畑甲13-6)の前に二つに折れた道標㉟がある。一方が「五」、もう一方が「番」だけの刻字である。以後遍路道は一本道を北東に向かって進み、国道196号を越えて田んぼ道を約600m行くと、前述の国分公民館の前に出て、五十九番国分寺へと至る。
 国分寺の参道の石段を上がりきると、すぐ左に徳右衛門道標㊱がある。この道標には横峰寺までの距離「六里廿八丁」が示されている。境内には本堂・大師堂・書院などが立ち並び、「石槌(ママ)蔵王大権現遙所」の石碑がある。遍路はここから南方にそびえる石鎚山を遙かに拝んだことであろう。
 鐘楼横には、「吉野朝忠臣 従三位脇屋刑部卿源義助公霊廟道」という石碑があり、南朝の将であった脇屋義助(新田義貞の弟、四国総大将として国府の城に入ったがまもなく病死する)の墓はここから北東約200mのところにある。この墓への案内道標は、国分寺の裏参道にもある。**邸(国分4丁目45)の角にある道標㊲で、「国分寺道□□□ 左 口脇屋公御廟處 是より二丁」と刻印されている。納経所前には、天皇松という立派な松があったが、昭和33年(1958年)に遍路した西端さかえは、この老松は台風で倒れ、その後若木を植えた<11>と記しているが、今はこれも枯れてなくなっている。
 境内には、武田徳右衛門が建てた小さな大師堂がある。これは国分寺を第一番として今治周辺の21か寺を1日で巡拝する「府中二十一ヵ所霊場」の開創と「四国八十八箇所道丁石」建立成就記念の大師像を祀(まつ)る小堂である。
 表参道を東に少し行くと伊予国分寺塔跡(国指定史跡)があり、13個の礎石が残っている(写真3-2-7)。

写真3-2-7 伊予国分寺塔跡

写真3-2-7 伊予国分寺塔跡

今治市国分4丁目。平成13年10月撮影