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伊予の遍路道(平成13年度)

(1)関ノ戸から誓松延命寺へ

 峠を越えて土居町に入るとすぐ、当地の庄屋河端家の持仏堂として建立された中将庵の跡地がある。その敷地内に茶堂が建てられて遍路の接待が行われたということだが、痕跡は残っていない。また、道をはさんで反対側には、前述の池内荘四郎も宿泊した宿屋で、かつて格式を誇ったという泉屋があったが、現在ではここも一般の住宅となっている。
 中将庵跡から下って関川に架かる熊谷橋を渡った後、今度は緩やかに上がり始め、やがて北に土居町の平野部を見下ろす高台の道となる。上野石原で道は上下二手に分かれ、上手(かみて)の道を行くと、西福寺の角を北に曲がった辻に、しるべの地蔵と呼ばれる安永6年(1777年)建立の道標㉒がある。一方、下手の道を行くと、明治45年(1912年)建立の道標㉓と明治21年(1888年)建立の茂兵衛道標㉔がある。この二つの遍路道は関川公民館の手前で合流するが、上手の道は明治時代に新たに開かれた道である。関川公民館を過ぎたあたりから、遍路道は南の山に沿って下り始める。道沿いの小川には何本かの本橋が架かり、田園風景が広がる。上野木ノ川地区に入り、かつて2軒の遍路宿があったという場所を過ぎて三差路を左にとると、すぐに三度栗大師堂である(写真3-4-10)。
 三度栗大師堂は三栗山地蔵院といい、大師堂だが地蔵菩薩を祀っている。この大師堂と前述の西福寺には、ここを通りかかった弘法大師が、子供たちから栗をもらったお礼としてこのあたりの栗の木が年に3回実を結ぶようにした<21>という、いわゆる三度栗伝説が伝わっている。
 遍路道は木ノ川バス停留所の所で国道11号を横切り、JR予讃線の踏切を越えて下畑野に入る。ここからは平野部で、道沿いに家が建ち並んでいる。**邸(下畑野590)のブロック塀の中に埋まるようにして徳右衛門道標㉕がある。さらに浦山川にかかる常盤(ときわ)橋を渡るが、ここからは、南方に広がる赤石の山並みを一望のもとに見渡すことができる。
 続いて土居地区に入ると、道の左側に延命寺がある。寺の敷地は道路をはさんで東西に分かれており、本堂・大師堂などは東側の敷地内にある。一方、西側の敷地内にはかつて誓(ちかい)松(通称いざり松・栄(さかえ)松)と呼ばれる松の大木があったが、昭和43年(1968年)に枯死したため、その上に屋根を葺(ふ)いて残った根や幹を保存している。松の前には、遍路の休憩所も設置されている。
 幾つもの弘法大師伝説に彩られた往時の誓松は、目通り5m、枝張りは東西30m余り、南北20m余りにも及んでいたそうで、広がる枝を歌碑・句碑を兼ねた数多くの長い石柱で支えていた<22>。現在、その役割を終えた石柱が、敷地内のあちこちに林立したままになっている。『四国遍礼名所図会』には「土居村、大坂講中摂待道の左にあり、誓の松道の左接待店次にあり、名木結構なり<23>」とあり、この大木の周辺で盛んに遍路の接待が行われていたことがうかがわれる。また、このあたりには接待所だけではなく遍路を含む旅人のための宿屋も何軒かあり、その中の1軒が寛政7年(1795年)に小林一茶が宿泊したことで知られる嶋(しま)屋である。

写真3-4-10 三度栗大師堂

写真3-4-10 三度栗大師堂

平成13年6月撮影