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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 宇和島銀天街の町並み

 旧宇和島市は県南西部、豊後水道東岸の中ほどに位置し、北は旧吉田町、旧三間町(いずれも現宇和島市)、東は旧広見(ひろみ)町(現鬼北町)と松野町、南は旧津島町(現宇和島市)と高知県の西土佐(にしとさ)村(現高知県四万十(しまんと)市)と接し、西は宇和海に面している。
 明治22年(1889年)、町村制の施行により宇和島町、丸穂(まるお)村、八幡(やわた)村、九島(くしま)村、三浦(みうら)村、来(くの)村、下波(したば)村、蔣淵(こもぶち)村、遊子(ゆす)村、日振島(ひぶりじま)村、戸島(とじま)村、高光(たかみつ)村の1町11村が成立した。大正6年(1917年)に丸穂村が宇和島町に編入、大正10年(1921年)に宇和島町と八幡村が合併し、宇和島市が成立した。昭和9年(1934年)に九島村、昭和30年(1955年)に高光村と三浦村、昭和32年(1957年)に来村、昭和49年(1974年)に宇和海(うわうみ)村(昭和33年〔1958年〕に下波村、蔣淵村、遊子村、日振島村、戸島村が合併して成立)を宇和島市に編入してその区域が確立した。
 旧宇和島市の起源は、文禄4年(1595年)の藤堂高虎による宇和島城の本格的造営と城下町の建設に遡る。城下町の造営は、慶長13年(1608年)に入部した富田信高に引き継がれ、その原型が完成し、慶長19年(1614年)に伊達秀宗が封じられ、伊達10万石の城下町として繁栄した。藩政時代の商業の中心は本町であったが、明治以降、宇和島城の城濠(しろぼり)が埋め立てられたことにより、その西側の追手通、袋町方面に移動し、特に追手通は大正から戦前にかけて繁栄した。戦後、内港の埋め立てによって新橋通が整備されると商業の中心は北へ移動し、袋町、新橋通、恵美須町が中心商店街となり、総称して宇和島銀天街と呼ばれるようになった。なお、現在は「宇和島きさいやロード」と名付けられている(写真1-1-1参照)。
 本節では、昭和30年代から40年代を中心に、宇和島銀天街の様子や人々のくらしについて、地域の方から話を聞いた。

聞き取り調査協力者
Aさん(昭和17年生まれ)、Bさん(昭和18年生まれ)、Cさん(昭和21年生まれ)、Dさん(昭和31年生まれ)、Eさん(昭和33年生まれ)、Fさん(昭和43年生まれ)


写真1-1-1 宇和島きさいやロード(北側ゲート)

写真1-1-1 宇和島きさいやロード(北側ゲート)

令和2年7月撮影