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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 昭和40年ころの宇和島銀天街

 ア 恵美須町

 「宇和島自動車営業所は後に一時期、喫茶店になり、地下にゲームセンターがあったと私(Eさん)は記憶しています(図表1-1-3の㋐参照)。そのうち喫茶店もゲームセンターになり、新しいアーケードができたときにはなくなっていたという記憶があります。ピンボール全盛期のころ、ピンボールが20台くらい置いてあり、小学生ではなく中高生が遊ぶという感じでした。カバン店はその後、ベビー服と子供服の店になり、家族の方が2階で喫茶店をしていました(図表1-1-3の㋑参照)。パチンコ店とスーパーの間の店舗は、後にパチンコ店が拡張したのに伴い同じ恵美須町内で移転しました(図表1-1-3の㋒参照)。
 昭和42年(1967年)に北側の恵美須町2丁目にフジ1号店ができると、恵美須町商店街の買い物客が増えたことを憶えています。その代わり、商店街の裏筋にあった青果店では、野菜や果物が売れなくなりました。フジのような総合店に行けば何でもそろうようになったので、商店街でも衣料品や帽子、傘を扱う専門店の経営が難しくなっていったように思います。」

 イ 新橋通

 「こちらのパチンコ店は間もなく洋品店になりました(図表1-1-3の㋓参照)。化粧品店はアクセサリーも扱っていたと私(Bさん)は記憶しています(図表1-1-3の㋔参照)。」

 ウ 袋町

 「服地店の隣の空き店舗は服地店の敷地で、一時期太鼓饅(まん)を売っていたと私(Cさん)は記憶しています(図表1-1-3の㋕参照)。製粉所は後に日用雑貨店に替わりますが、昭和40年(1965年)ころには替わっていたかもしれません(図表1-1-3の㋖参照)。家具店の場所は貸店舗で、間もなくうどん店になりました(図表1-1-3の㋗参照)。人形雑貨店は向かい側南角の洋品店の御主人がされていました(図表1-1-3の㋘参照)。」

(2) 商店街の景観

 ア 二段式アーケード

 「商店街の通りはアーケードが設置されるまで、あまり交通量は多くありませんでしたが、自動車が通行していました。通りの幅は12mあったものの、車道部分の幅は6mとそれほど広くありませんでしたが、市内バスが対面通行していたことを私(Aさん)は憶えています。バス停も商店街の通りに何か所かあり、私の店の前にもありました。
 二段式のアーケードができても商店街のお客さんの流れは大きくは変わらなかったと思います。ただし、雨の日は他所(よそ)を歩いていた人が雨よけのためにアーケードに入ってきたので、人通りは確かに多くなりました。」
 「商店街の通りにアーケードが設置される前、歩道部分にブリキ製の屋根があり、歩道にはコンクリートブロックが敷いてあったことを私(Bさん)は憶えています。アーケードが設置されたのは昭和38年(1963年)の新橋通が最初で、その翌年に袋町、2年後に恵美須町に設置されました。アーケードの設置工事は、それぞれ別の業者が請け負っていたと思います。形状は現在のような全面を覆うドーム型ではなく、元の歩道部分と車道部分に分かれた二段式で、車道部分の天井が高くなっていました。3町全てにアーケードが設置されたころ、警察の指導と排気ガスが充満する懸念から、商店街の通りは自動車の通行が禁止されました。」
 「二段式のアーケードになった際、歩道部分の屋根も新しくなりました。車道部分の屋根と歩道部分の屋根との間が柱だけだったので、日よけのためカーテンのように開閉できるテント地の幕が、柱と柱の間に付けられたことを私(Cさん)は憶えています。車道部分のテント地の屋根は張ったままで、開閉はできませんでした。二段式のアーケードになりましたが、歩道と車道は別々に分かれたままで、しばらくは車が通行できたと思います。」

 イ 定休日

 「昔、商店街で休んでいる店はほとんどなく、休みは正月くらいだったと思います。定休日を設けようということで、商店街連盟で話し合って毎月4日か14日のどちらかが定休日になったと記憶しています。最初は1日だけでしたが、1日ずつ増やしていって、4日、14日、24日と毎月4の付く日が定休日になりました。当時、私(Aさん)は若かったので、商店街連盟でどのような話し合いがあったのかは知りませんが、定休日を設けたり増やしたりすることへの反対意見もあったようです。休みを増やせないほどお客さんが多かったこともありますが、単純に休みたくない店も多かったのだと思います。その後、昭和45年(1970年)ころ、現在のように毎週木曜日が定休日になりました。」

 ウ 土曜夜市

 「土曜夜市は、私(Bさん)が小学3、4年生のころの昭和20年代の終わりには始まっていました。そのころ、鬼の人形の腹にボールをぶつけたら当たりというアトラクションが、種屋に替わる前の空き店舗で、1年だけ行われたことを憶えています(図表1-1-3の㋙参照)。その後、昭和30年代には、亀レースが四国銀行の前で始まりました。今年(令和2年〔2020年〕)は新型コロナウイルス感染症のために中止となりましたが、現在でも夜市の人気イベントです。亀レースの亀は借り物ですが、以前は当番の人が、夜市が行われている間、借りている亀の世話をずっとしなければならなかったので、大変だったそうです。」
 「昭和30年代の初めころ、夜市のときには各商店が特価品を店の前に並べて売っていたことを私(Aさん)は憶えています。」

 エ 多忙な年末

 「昭和40年(1965年)ころ、商店街は午前7時ころから午後9時半ころまで店が開いていたことを私(Bさん)は憶えています。大晦日(おおみそか)は年が明けるころまで店を開けていて、店を閉めて掃除が済むと午前2時から3時ころになっていました。当時はバーゲンセールを行わなくても、商品が売れていました。」
 「昭和30年代の初めころ、大晦日は除夜の鐘を聞きながら店を閉めていたことを私(Aさん)は憶えています。年末に商店街がにぎわったのは、正月は新しいものを身に付けて迎えようという考えが、昔は強かったからだと思います。ただし業種によって若干時期が違っていて、私の店のような洋品店では12月後半からよく商品が売れていましたが、呉服店は仕立てがあるのでもう少し早い時期から忙しくなっていました。当時は大晦日が1年で一番商品が売れていて、店を開けておけば午前0時ころまでお客さんが来ていました。12月の最後の10日間くらいは、バーゲンセールなどを行わなくても商品が飛ぶように売れて面白かったです。商店街で年末にバーゲンセールが行われるようになったのは、最近のことです。」
 「私(Eさん)の母は除夜の鐘を聞いてから、美容室に行っていたことを憶えています。」

 オ 歳末大売り出し

 「年末には、大勢のお客さんが歳末大売り出しに訪れてにぎわっていました。歳末大売り出しは、商店街で一定の金額以上購入すると、くじの抽選券をもらえるというもので、現在は5千円ごとに抽選券1枚、千円で補助券1枚をもらえます。昭和30年代は、千円ごとに抽選券1枚だったと思いますが、だんだん金額が上がっていきました。現在、抽選会場は1か所ですが、以前は袋町、新橋通、恵美須町、駅前のそれぞれにありました。商店街裏に飲食店街があり、酒に酔った人に抽選会場を壊されることもあったことを私(Bさん)は憶えています。景品はその年に流行しているものや旅行券でした。」
 「私(Aさん)が高校を卒業して間もない昭和30年代半ばは、食事付きの住み込み従業員の月給が数千円だったので、当時の歳末大売り出しでは千円くらいで抽選券を渡していたと思います。」
 「昭和38年(1963年)のときの景品が当時20万円以上したカラーテレビで、まだ販売前だったので権利だけだったことを憶えています。近所に当選した人がいて、東京オリンピック(昭和39年〔1964年〕開催)前にカラーテレビが届き、私(Dさん)も含め、地域中の人が入れ代わり立ち代わり当選した人の家に行って、東京オリンピックの中継を見せてもらっていました。」

 カ 商業活動調整協議会

 「大型店が宇和島市内に出店する際、宇和島商工会議所の主催で、商業関係者、消費者、学識経験者から構成される商業活動調整協議会(商調協)が開かれており、私(Bさん)も役員として参加していました。出店届に基づいて協議し、特に店舗面積について出店者側が希望する店舗面積の何%にするかについて検討しましたが、主店者側は店舗面積を削減されることを見越して申請していたと思います。近年、規制緩和が進んでそのような会は行われなくなりました。」
 「以前は、大型店が市内に出店する際には商店街にも相談があり、商調協が行われていました。現在はそういった協議会はなく、私(Eさん)も知らない間に大型店ができていたということもあります。」

 キ 昭和会

 「商店の後継者によって構成される昭和会は、新橋通では私(Bさん)が20歳くらいの昭和38年(1963年)ころに結成されました。新橋通が3町の商店街で一番早かったですが、ほかの2町も同じころに結成されたと思います。毎月集まって懇親会を開いたり、年に1回旅行したりしましたが、旅行を楽しみにしていました。その後、昭和50年代になってからだと思いますが、3町合同の連合昭和会もできました。和霊大祭の走り込みに連合昭和会として参加したことを憶えています。」
 「それぞれの商店街で、若手の後継者によって親睦会が作られました。後継者は昭和生まれだったので、袋町、新橋通は昭和会と言いますが、恵美須町は『恵』の字を使って恵昭会と言いました。年に何回か視察を兼ねた旅行をしましたが、あくまで視察なので参加者の誰かがレポートを書かなければならず、苦労したことを私(Eさん)は憶えています。」

 ク 新しいアーケード

 「昭和55年(1980年)に、恵美須町と新橋通が現在のアーケードとカラー舗装になりました。当時、私(Eさん)は東京の大学へ進学していましたが、宇和島に帰ってきたときに立派なアーケードができていて、大変驚いたことを憶えています。正直に言うと、私はもともと文具店を継ぐつもりはあまりなかったのですが、立派なアーケードを見て店を継いだようなものです。」

 ケ 多くの人でにぎわう

 「道路事情が良くなる前の昭和30年代から40年代にかけて、宇和島市の商業圏は南予だけでなく、梼原(ゆすはら)町、宿毛(すくも)市、中村(なかむら)市(現高知県四万十市)や西土佐村といった高知県南西部も含まれていて、30万人から40万人の人口を抱えていたと私(Bさん)は聞いています。当時の宇和島市の仲卸業者は宿毛市や中村市に支社を持っていて、よく出張していました。」
 「昭和40年(1965年)ころは今のように簡単に情報が手に入る時代ではなく、何も分からないので『とりあえず宇和島に行こう。』ということになって人々が集まってきたのだと私(Eさん)は思います。来てみないと何があるのか分からないので、来てからいろいろなものを探すというのも楽しかったのではないかと思います。今は集客のためにイベントを催しますが、思い出話などで聞くと、当時の商店街は『人が大勢来るから何かして楽しませよう』ということでイベントを催していて、何をしても土曜日、日曜日には人が来るので楽しかったそうです。
 商店街には呉服、洋服関係の店が多く、多いときには半分近くあって、現在でも3分の1ほどあります。南予のファッションリーダーのようなところがあり、南予では一番という自負がありました。南予一帯からだけでなく高知県からも買い物に来ていたので、車社会になってくると駐車場が足りなくなりました。商店街に行っても車を停(と)める場所がないということになり、広い駐車場を持つ郊外店ができると、そちらにお客さんが流れていったのだと思います。」
 「私(Dさん)の地元は沿岸部ですが、子どものころ、宇和島市内へはバスか船で30分以上かけて行くしかありませんでした。宇和島市内に行くことを『お町(まち)に行く。』と言っていて、その日はハレの日で、大人も子どもも一張羅を着て出掛けていました。宇和島市内へ行くのは和霊大祭以外では年に2、3回あるかないかくらいで、昔の子どもたちにとって商店街はデパートに行くような感覚だったのではないかと思います。和霊大祭の日は大漁旗を立てた船で出掛け、和霊神社にお参りした後は出店(でみせ)を見て帰るくらいだったので、商店街に行くことはありませんでした。小、中学生のころは年に2、3回ほどしか商店街に出掛けることはなく、高校生になってからも、ほぼ学校と家との往復でお金もなかったので、普段は商店街に行くことはなかったです。私たちのような田舎の子から見ると、『お町の子』は輝いて見えました。」
 「私(Fさん)が子どものころも、私たち商店街の子どもはお町の子とよく言われていました。」

(3) 商店を営む

 ア 矢野文林堂

 (ア) 文具店を営む

 「文具店は家族と3名の従業員で経営しており、家族と1名の従業員が店舗で接客をし、2名の従業員が地方局や市役所などに配達に行っていました(図表1-1-3の㋚参照)。私(Eさん)が小学生のころ、従業員の月給は6千円くらいでした。私が親族から1万円くらいお年玉をもらったことを知った従業員が、『お前ずるいやないか。』と冗談で言っていたことを憶えています。文具店は午前7時半には開けていましたが、その時間帯は汽車で通学している高校生が多く来店していました。当時は周辺の郡部に文具店がなかったので、市内に出てきたときに買っていたのだと思います。午前8時半ころに一旦店を閉めて朝食をとり、30分ほどでまた店を開けて、午後9時ころまで営業していました。午後6時半から7時ころは、市内に船や汽車で通勤している方の帰宅時間になるので、その時間帯はそういうお客さんが多かったです。当時は買い回り品が全部そろうのが商店街しかなかったので、市内の方も買い物に来た際に寄ってくれていました。」

 (イ) 配達

 「木曜日が商店街の定休日になっていましたが、配達があるので年中無休でした。他の文具店も休んでいなかったので、自分の店だけ休むわけにはいかないという根性を出していたような感じだったと思います。配達で多かったのは、紙や鉛筆、ペン類でした。また、私(Eさん)の文具店では事務用品全般を扱っており、高度成長期のころは机や椅子などの配達もあったことを憶えています。鉛筆だと1ダース、2ダースのようにまとまった単位で注文が入り、毎日異なる課に配達するので、地方局全体だと大変な量になっていました。その当時は、私の店のような古くからある文具店がよく使ってもらっていました。コピー機などのOA機器が使われるようになると、ペンやざら紙の配達が減り、コピー用紙やプリンターのインクといったものが増えてきて、よく配達する商品も時代とともに変わっていきました。」

 (ウ) よく売れた紙テープ

 「昭和40年代、宮崎県が新婚旅行先として大変人気があり、宇和島港から船で大分県に渡って宮崎県に行くカップルが数多くいました。そのため、新婚旅行の出発前に紙テープを買いに来るカップルが多かったことを私(Eさん)は憶えています。船は午後9時半ころに宇和島港を出発するので少し遅くまで店を開けていましたが、100本から200本くらい売れていました。」

 イ 岩下メリヤス店

 (ア) 婦人服店

 「昭和32年(1957年)に父が新橋通で洋品店を始め、当初は紳士服や婦人服、子供服、上着だけでなく肌着も扱っており、住み込みの従業員も1名いたことを憶えています(図表1-1-3の㋛参照)。昭和36年(1961年)に、私(Aさん)は高校を卒業して店で働き始めました。実質的な経営はまだ父でしたが、父はあまり店には出たがりませんでした。昭和40年代の初めから半ばころ、当時は婦人服がよく売れていた時代で、婦人服だけを扱えば売り上げが上がると考え、婦人服店に変更しました。その後、昭和53年(1978年)に現在地の袋町に移転しました。現在地に移転したころは、通勤の従業員を1名雇っていましたが、今は家族経営です。
 婦人服店に変更した当時、私も若かったので、20代の、それもできるだけ若い人を狙った商品構成でした。しかし、宇和島は新しいお客さんが頻繁に来る所ではなく同じお客さんが来る所なので、お客さんが年齢を重ねると、どうしても商品の対象年代も少しずつ上がっていきました。
 昔は商店街に人通りが多かったので初めて来店するお客さんもいましたが、今は人通りが多くはないので、来店するのは昔から顔見知りのお得意さんで、売り上げの多くはお得意さんによるものです。お客さんの自宅に商品を売り込みに行くことはありませんが、特定のお得意さんが『服を持ってきて見せてください。』と、ときどき電話を掛けてきて商品を持っていくことはありました。」

 (イ) お客さんでにぎわう

 「昭和40年代、商店街のほとんどの店と同じように、私(Aさん)も午前8時前には店を開けて午後9時ころまで営業していました。それぐらいの時間、店を開けていてもお客さんが来ていたのです。1年を通して圧倒的に年末が忙しかったですが、卒業シーズンの3月も忙しかったです。ちょうど婦人服店に変えたころ、高校卒業後に就職する人が多かったですが、就職や進学で宇和島から離れる際に、宇和島で服を購入する女性が多かったのです。バーゲンセールの際、特に初日は多くのお客さんで、店は大変な混み具合でした。バーゲンセールは夏の大売り出し、冬の大売り出しのようにシーズン末に実施しています。冬物は1月半ばころからですが、最近はもう少し早くから実施しています。年末はバーゲンセールを実施していませんでしたが、それでも当時はよく売れており、バブル経済が崩壊してからもしばらくお客さんが多かったです。」

 (ウ) 仕入れ

 「服の仕入れ先は昔から大阪(おおさか)が多く、今は神戸(こうべ)(兵庫県)も多くなっています。婦人服店にする前は、大阪だけでなく宇和島の問屋からも仕入れていました。年に8回から10回行われる展示会で仕入れるのですが、新橋通に店があったときは、展示会で注文するだけでなく現物を仕入れることも多く、私(Aさん)はたびたび大阪に3日かけて仕入れに行っていました。大阪へは1日目、宇和島から国鉄で松山(まつやま)まで行き、夜遅くに松山を出港する客船に乗ります。2日目、朝早くに大阪または神戸に客船が到着するので、それから1日かけて仕入れて、夜遅くに大阪または神戸を出港する客船に乗ります。3日目、朝早くに松山に客船が到着し、松山から国鉄で宇和島まで帰っていました。客船からフェリーに代わっていますが、今も基本的には鉄道とフェリーを利用して仕入れに行っています。今は展示会で注文して数か月後に商品が届くという感じで、商品を直接持ち帰ることはほとんどなく、たまに付属のネックレス等の装飾品を仕入れたときに持ち帰るくらいですが、昭和30年代から40年代初めは、大きな風呂敷に商品を包んで持ち帰っていたことを憶えています。店で働き始めたころは母と一緒に行っていましたが、婦人服店に変更してからは、ほぼ私だけで行っていました。大変でしたが、昔は多くの店が同じようにしていたと思います。
 昔は『今年の流行は紺色です。』と言われると、その年は紺色の商品がよく売れるという感じで、その年の流行とされた商品を仕入れていれば間違いはありませんでした。ところが、今は『人と同じものは嫌だ。』というお客さんが増え、『今年の流行だからこの商品を仕入れていれば間違いない。』とはなかなか言えなくなっています。」

 (エ) 多くの洋品店

 「宇和島の中心商店街は呉服店と洋品店が多かったですが、競合店がお互いに足を引っ張り合うという感じではありませんでした。当時は高級品が売れており、品質の高い商品を売っている店が多かったからではないかと私(Aさん)は思います。洋品店同士のつながりは特にありませんでしたが、この辺りは『お講』が多く、商店街の昭和会とは別に、洋品店の経営者のみでの懇親会が毎月ありました。20軒くらいが集まりましたが、隣に座った人とたまに仕事の話をすることはあるものの、特に情報交換をすることはありませんでした。」

 ウ 丸良呉服店

 (ア) 普段着が着物の時代

 「呉服店は昭和22年(1947年)ころ、父が湊町で始めました。埋め立てによって新橋通ができて、私(Bさん)が8、9歳くらいの昭和26年(1951年)ころに、新橋通に移転しました(図表1-1-3の㋜参照)。商店街には呉服店が多かったですが、どの店も競合店に対してライバル心はあまりなかったと思います。自分の店に来てくれるお客さんだけで構わないという感じで、それで成り立っていた時代でした。私は昭和37年(1962年)に店を継ぎましたが、お客さんは多く、普段着としてのウールの着物がよく売れていたことを憶えています。当時、若い人は洋服を着る人が多くなっていましたが、40歳以上の女性はほとんど着物を着ていた印象です。特に冠婚葬祭の際、女性は必ず着物を着るものとされていた時代で、葬儀の際の喪服は男性がダブルの礼服で女性は着物、結婚式の際も男性が背広で女性はほとんどが訪問着でした。昭和60年(1985年)ころまでは、年配の女性は着物を着ていた人が多かったと思います。男性は正月には着物を着る人が多く、本人がいらないと言っても親が息子のために作っていました。
 当時は、年が変わるから着物を新調しようという人が多く、11月から1月ころまでが一番忙しい時期でした。昼には少し落ち着きましたが、一日中ひっきりなしにお客さんが来ていました。これは呉服店だけでなく、洋服店、紳士服店もそうだったと思います。また、当時も貸衣装はありましたが、親が娘のためにと、成人式に合わせて晴れ着を作る人がほとんどで、夏ごろから注文が入っていました。少しずつ貸衣装にする人が増えていき、今では逆にほとんどの人が貸衣装になっています。一方、男性は当時でも着物を作らずに、背広で成人式に出席する人がほとんどでした。」

 (イ) 仕立てに出す

 「既製品の着物はほとんど扱った記憶がなく、いわゆるオーダーメイドで、仕立てに出していました。お客さんに反物を選んでもらい、袖丈や身丈などを採寸しますが、身長がいくらだったら袖丈はこれくらいと大体目処(めど)が付いていました。私(Bさん)の店と取り引きのあった仕立屋は市内に20軒くらいですが、それくらいないとさばけないほどの注文があったのです。ほかの呉服店と重なっている仕立屋はほとんどなく、ほかの呉服店も何軒もの仕立屋と取り引きをしていて、市内にかなりの数の仕立屋がありました。仕立屋には、私がスクーターに乗って、反物を持っていきました。車では入りにくい場所にある仕立屋もあり、スクーターの方が早かったのです。夏は浴衣が良く売れますが、宇和島では和霊大祭までです。浴衣は仕立てが簡単なので、昔は多くの人が反物を持ち帰っていました。着物は裏地が付くと手間が掛かって仕立てが難しくなりますが、浴衣は居敷当てと肩当てを付けるだけなので仕立てやすいのです。」

 エ 市松屋

 (ア) 呉服店を営む

  「市松屋は私(Cさん)の父が昭和4年(1929年)に始めました(図表1-1-3の㋝、写真1-1-5参照)。それまでは卸業者のようなことをしていたようです。商店街も店が随分変わったので、商店街の中では古い方だと思います。私が子どものころ、普段着が着物の人が多く、呉服店は現在の洋服店のような感覚で、洋服が季節ごとに売れるような感じで着物が売れていました。呉服店が高級なイメージになったのは比較的最近で、着物を普段着として使い切る人が多かったので、呉服店が多かったのだと思います。今は絹の着物が多いですが、昔は綿やウールの着物の方が数多く売れていて、私が店を継いだ昭和46年(1971年)ころもそうでした。
 既製品の着物は、私が店を継いだころはほとんどありませんでした。昔は自分で着物を仕立てるのは珍しいことではなく、女学校を卒業した方は、自分で和裁や着付けをしていました。お客さんに反物を選んでいただいてから仕立ての注文を受けますが、綿やウールの反物は自分で仕立てる方も結構いたことを憶えています。
 宇和島周辺の郡部の方から買い物に来られるお客さんも多く、昔は交通の便も悪かったので、一日仕事で来られていました。特に、娘さんの結婚が決まって買い物に来る方は、一家にとって一生に何回あるかないかの大きな買い物になるので、御主人、奥様、娘さんがそろって着物、婚礼家具などいろいろなものを一日仕事で買いに来ますが、目利きの人も雇って一緒に来ていました。呉服店では、目利きの人のアドバイスを受けながら娘さんと奥様が反物を選びますが、そのとき御主人は口を出さない人が多く、最後に計算して支払いとなると御主人の出番になったことを憶えています。
 一日中お客さんは来ていて、私が店を継いだころも、休日になると昼食は食べられないのが普通で、従業員も『日曜日が来るのが怖い。』と言っていました。それくらい忙しかったので、住み込みの従業員も必要で男性3名くらいが住み込みで働いていました。住み込みの従業員がいたころは、午前7時半から8時ころには店を開けて掃除をしていて、朝早くから来られるお客さんもいたことを憶えています。昭和40年(1965年)ころまでは住み込みの従業員がいたと思いますが、住み込みで働くという考えがなくなってきて、従業員が独立していくといなくなり、その後は、通勤の女性従業員になりました。」

 (イ) 多忙な時期

 「着物が普段着だった時代、『年が変わるので着物を新調しよう。』という方が多く、正月前が一番忙しかったです。当時、私(Cさん)は紅白歌合戦を見たことがなく、年が明けるギリギリの時間まで営業しなければなりませんでした。年末には、正月までにお客さんに渡さなければならないという注文がたくさんありました。12月に入ってから仕立ての注文を受けた場合には、仕立屋に『何とか縫ってください。』という感じでお願いをして、確実にお客さんの手に渡るようにしていたことを憶えています。仕立屋から持ち帰った着物は、検品後、文庫紙にきちんと入れて、いつでもお客さんに渡せる状態にしていました。
 その次に忙しかったのが卒業式、入学式のころと七五三のころです。夏は浴衣がたくさん売れますが、それほど忙しいという感覚はなく、むしろ暇という感覚でした。売れる数は多いのですが、浴衣の仕立てはそれほど難しくなく、反物をそのまま持って帰り、近所の方に仕立てをお願いするお客さんが多かったからです。店で反物を預かって仕立屋に出す数も多いですが、プロであれば1、2日あればできました。金額も安く、反物を買いに来られて決められたらお渡しするという感じで終わるので、それほど手間が掛からないのです。冬物の着物でしたら裏地があり、表地と裏地の色の組み合わせは好みがあるので選んでもらわなければなりません。さらに帯も表地と合わせる必要があり、羽織を購入される方もいるので、しっかり見て選ぶとなると1、2時間はかかります。また、仕立ての注文を受けた場合、寸法を測って寸法書きを書かなければなりません。そういった手間が浴衣とは全く違うところで、浴衣はお客さんが多くて慌ただしくても後の作業が少ないので、回転が速いのです。」

 (ウ) 着付け

 「最近では着付けをする呉服店もありますが、私(Cさん)の店では着付けをしていません。妻が『着付けを教えてほしい。』という人に教えるくらいで、お金をいただいて着付けをするということはありません。着付けをするとなると、全てのお客さんにしなければいけませんが、この人に着付けをして、この人にはしないとは言えないからです。たくさんのお客さんがいる成人式は絶対に無理です。今ではいろいろな雑誌にその年の流行スタイルが掲載されているので、それを見て、『どこそこの美容室で着付けしてもらいたい。』、『写真撮影をメインにしているので、写真館で着付けを頼みたい。』などと、お客さんそれぞれに考えがあるようです。」

 (エ) 着物が売れない時代

 「着物と洋服のどちらが主流であるかの境目は、昭和40年代だと思います。洋服も最初は購入者に合わせて作るところから始まったと思いますが、既製品が受け入れられるようになってから一気に洋服を着る人が増えたのではないかと思います。私(Cさん)が店を継いでしばらくすると大きく変わっていき、呉服を売る方も買う方も高級化していったと感じます。着物の仕立てができる人、着付けができる人も少なくなり、それが普通になりました。昔は、着物に関連する下駄(げた)や足袋、肌着といったものは、それぞれ専門店がありました。それだけ需要があり、商売が成り立っていた時代だったのです。ところが、着物の需要が減ったため、そのような専門店はなくなっていきました。それでも着物を着るためには必要なものなので、結局、呉服店が下駄や足袋、着物の下に着る肌着まで全て扱うようになったのです。
 今は、着物が売れない時代です。そこで一番心配なのは、技術を持った職人のことです。着物に関連する染物、帯などの店の中には何百年と続いている店もありますが、着物が売れなくなって途切れてしまうと、後はどうなるのだろうかと心配です。長い年月をかけて研究、努力をして完成された技術なので、帯を洋服に使うなどと、ほかに応用させにくいのではないかと思います。このまま着物の消費がなくなってしまうと、そのような職人が仕事を続けられなくなります。実際、多くの職人がやめて、何かほかの職業に就いているように聞きますが、もったいないと思います。」

図表1-1-3 昭和40年ころの宇和島銀天街の町並み(1)

図表1-1-3 昭和40年ころの宇和島銀天街の町並み(1)

宇和島市中心商店街業種配置図(昭和42年、宇和島商工会議所提供)を基にAさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん、Fさんからの聞き取りにより作成 ※空白の箇所は空き店舗または空き地

図表1-1-3 昭和40年ころの宇和島銀天街の町並み(2)

図表1-1-3 昭和40年ころの宇和島銀天街の町並み(2)

宇和島市中心商店街業種配置図(昭和42年、宇和島商工会議所提供)を基にAさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん、Fさんからの聞き取りにより作成 ※空白の箇所は空き店舗または空き地

写真1-1-5 市松屋

写真1-1-5 市松屋

令和2年7月撮影