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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 吉田町のくらし

 ア 映画館のにぎわい

 「吉田町にはかつて映画館が2館あり、裡町通りには吉田劇場があり、本丁通りには吉田東映がありました。吉田劇場はもともと芝居小屋でしたが、昭和15年(1940年)に改装されて常設の映画館に替わりました。そのとき、外観はそれまでとほとんど変わっていませんでしたが、建物の内部は客席が椅子席に変わるなど、きれいに改装されていました。吉田劇場はその後、昭和22年(1947年)に火災に遭いましたが再建され、松竹や日活、東宝などの作品を上映していました。昭和30年代は娯楽といえば映画という時代で、私(Aさん)もよく映画を観(み)に行っていました。人気があった『明治天皇と日露大戦争』という映画を観に行ったとき、客席は満席で立ち見客もすし詰め状態になっていて、私は観客の隙間からスクリーンを観ていたことを憶えています。当時、本町にも新しい映画館が建設されるという計画が進んでいましたが、テレビの時代の到来が予測されたため、寸前で取りやめになりました。」

 イ 食堂のテレビ

 「大相撲で『栃若時代』と呼ばれる一大相撲ブームが起こったころ、まだテレビは家庭に普及していませんでした。そのころ、桜丁になかよしという食堂があり、そこにはテレビが設置されていたので、大相撲中継を楽しみに来店するお客さんが結構いました。私(Aさん)は三間の方から、徒歩で十本松峠という吉田と三間を結ぶ峠道を越えて、なかよしで大相撲中継を見ていたという話を聞いたことがあります。それから4、5年後には、吉田ではほとんどの家庭にテレビが普及していったと思います。」

 ウ 竹細工店

 かつて吉田町にも数多く見られた竹細工店について、次の方々が話してくれた。
 「かつて裡町筋の方には竹細工店がたくさんありました。そのころミカンは高値で取り引きされていて、出荷時には段ボールやキャリーケースではなく、竹籠に詰められていました。私(Eさん)は子どものころ、友人たちと、積まれていた竹の上に乗って遊んでいたときに誤って竹を割ってしまい、竹細工店の職人さんに怒られたことを憶えています。」 
 「かつて横堀川の川端にも竹細工店がありました。その店の御主人は商品を作るのに必要な針金を買うために、私(Bさん)の店(オカケヤ)へよく来ていました。いつごろかはっきりとは憶えていませんが、御主人は昭和40年(1965年)までには他所(よそ)へ移っていました。」

 エ 天皇陛下の巡幸の思い出

 「昭和41年(1966年)に、天皇陛下が四国巡幸の途中で吉田町農業機械センターを視察されたことがありました。当時、私(Fさん)は中学生でしたが、そのとき舗装されていないガタガタ道だった道路が、一晩できれいに普請されていたことを憶えています。農業機械センターの視察を終えた天皇陛下が宇和島まで車で移動されるということで、私の中学校では全校生徒が君ヶ浦の道端に並んで旗を振っていました。先生からはあらかじめ、天皇陛下が乗車しているのはオープンカーの後続車であることを教えられていました。ところが、私はついオープンカーに気を取られてしまい、気づいたときには天皇陛下を乗せた車は通り過ぎてしまっていて、周りの友人たちから笑われたということがありました。」

 オ 吉田秋祭り

 寛文4年(1664年)、立間八幡神社の神幸に始まるといわれる吉田秋祭りは、御船や練り車、牛鬼、鹿踊り、宝多(ほた)等の多彩な出し物でにぎわう。なかでも牛鬼は「暴れ牛鬼」と呼ばれ、優雅な鹿踊りとともに近郷の祭りの中でも異彩を放っていた。吉田秋祭りの魅力について、次の方々が話してくれた。

 (ア) 暴れ牛鬼

 「昔の吉田祭りはとてもにぎやかでした。昭和14年(1939年)ころには、横堀の河原ではサーカスが1週間くらい興行していたほか、見世物小屋も立ち並んでいたことを私(Aさん)は憶えています。お練りを見るために、桜橋付近にはものすごい数の見物客が集まっていて、桜橋を渡るのも骨が折れるほどでした。戦後になってからはおとなしくなりましたが、吉田の牛鬼といえば暴れることで有名でした。神輿(みこし)の先駆けを務める牛鬼は、各家に首を突っ込んで悪魔払いを行うのですが、牛鬼が家の軒や柱にぶつかったときにはものすごい轟音(ごうおん)がしていました。桜橋の付近では牛鬼が暴れることが恒例になっていたため、その辺りでは家が壊されないように、道端に木の柵が設けられていました。私は牛鬼が暴れ始めると慌てて柵の内側に入っていて、牛鬼が暴れ終わったときには台風一過のような気持ちになったことを憶えています。」
 「私(Gさん)が子どものころ、吉田の秋祭りは近郊から多くの観光客が訪れ、とてもにぎやかに行われていました。そのころは娯楽も乏しかったため、松山の秋祭りで神輿の鉢合わせに多くの見物客が詰め掛けるように、暴れる牛鬼を面白がって見物に来ていた人が多かったのです。あるとき、牛鬼が桜橋の上で暴れて、付近にいた見物客が橋から落ちて大けがをしたことがありました。また、当時は牛鬼が暴れて、通り沿いの家の軒や柱にぶつかることがあったので、家の前には杭(くい)が打たれ柵が設けられていました。私が小学生のときにも店の前には柵が設けられていたことを憶えています。子どものころは、牛鬼は怖いという印象がありましたが、やんちゃな子どもの中には、面白がって『こっちへ来い。』と牛鬼を囃(はや)すような子もいました。かつては御利益があるということで、折れた牛鬼の角を高値で買い取って家に飾ったり、道に落ちている牛鬼の棕櫚(しゅろ)の毛を拾って紙に包み、家に持ち帰ったりするという風習がありました。牛鬼の暴れ具合がひどすぎるということで、警察が牛鬼の運行について警告を行ったため、今では随分おとなしくなっています。」

 (イ) 長い歴史をもつ秋祭りと町並み

 「吉田秋祭りは、江戸時代から変わらない町割りの中で、江戸時代から始まったお練りを継承し、祭りの運営も変わらず受け継がれてきているという点が評価され、すでに県の無形民俗文化財の指定を受けています。その後も地元保存会を中心に、山・鉾(ほこ)・屋台行事としては中四国初となる国の重要無形民俗文化財の指定を目指しています。来年(令和3年〔2021年〕)に開催予定の『えひめ南予きずな博』では、私(Gさん)たちも県・市や地元商工会などと協力しながら吉田秋祭りの魅力を広くPRしていこうと考えています。
 また、宇和島市では、旧吉田町を訪れる方々も増やすために地域資源のブランディングに取り組んでおり、昨年(令和元年〔2019年〕)からはJR四国と連携し、吉田藩ゆかりの地を巡り歴史文化や『愛媛みかん』発祥の地の魅力(お宝)を発見する日帰りツアーを実施しています。ところが、吉田の古い町並みについて説明できるボランティアガイドや市の職員がほとんどいないため、A先生に町並みガイドのお手伝いをしていただいています。旧吉田町を訪れる観光客向けのガイドブックやパンフレットもあまり作成されておらず、新しい魅力を発信できる人材を育成する必要を感じています。吉田藩創設当時の町割りや道、溝が今もほぼそのまま残る吉田の市街地は、いわば『現役の都市遺跡』です。明治34年(1901年)、旧陣屋町には約4,000人が居住していたという記録が残っていますが、昭和55年(1980年)4月には約1,600人、今年(令和2年〔2020年〕)8月には約1,400人となっています。周辺部の田畑の宅地造成やバブル崩壊、少子高齢化に加えて平成30年(2018年)7月の豪雨災害の影響もあって、人口減に歯止めをかけることができていません。そのため、私たちは現在、吉田中学校と連携して吉田町の歴史や文化、産業、自然等についての学習会などから、自分たちのふるさとの魅力について目を輝かせて話すことのできる人づくりを始めています。特に、旧陣屋町エリアに暮らしている人たちには、自分たちの町の魅力に誇りをもつとともに、明暦4年(1658年)に湿地帯に造成されたこの町並みで生活できることに幸せを感じてほしいと願っています。」

(2) 戦争のころの記憶

 ア 昔の話し言葉

 かつて吉田町で使われていた言葉について、次の方々が話してくれた。
 「同じ町内でも、昔は御家中とそのほかの地域では話す言葉が少し違っていました。その当時、私(Aさん)は本町にあった親戚の店をときどき訪ねる機会がありました。すると、周辺の地域からやって来たお客さんは、今であれば『ごめんください。』とか『こんにちは。』と言うところを『はいもうし。』と言っていたことを憶えています。」
 「昔、私(Eさん)は、伊予吉田駅近くの御舟手の方に住んでいる方が吉田の中心部へ来るときに、『お町(まち)へ行ってくる。』と言っていたのを聞いたことがあります。また、所用で御舟手のお年寄りの家を訪ねたとき、『昔は御家中へ行くと言っていましたよ。』と教えてもらったことがあります。」

 イ 初めて見た海の思い出

 「私(Bさん)は小学校に上がる前に、母に連れられて1週間ほど立間尻の親戚の家へ行ったことがありました。卯之町から小さなバスに乗って吉田まで行きましたが、盆地で生まれ育った私はそれまで海を見たことがありませんでした。母から『途中で海が見えるから見なさい。』と言われましたが、私は海を見たとき、海中へ落ちるような気がして恐ろしくてたまりませんでした。私と母は立間尻の停留所で降り、そこから親戚の家まで歩いていきました。
 親戚の家には幼い子どもがいて、その子の機嫌が悪くなると、母がその子を背負って、私と同い年の子と手をつないで散歩に連れて行ってくれました。石段を上がって愛宕神社(峰住神社)に着くと、雨ざらしになった古い人形やお雛(ひな)様の壊れたようなものが置かれていたことや、夕方になると吉田港に大きな客船が入ってくるのが見えたことを憶えています。」

 ウ 学徒動員と召集令状

 「戦争中、私(Bさん)の三兄は愛媛師範学校(現愛媛大学教育学部)に、次姉は東宇和高等女学校(現愛媛県立宇和高等学校)に在学していました。学徒動員により三兄は尼崎(あまがさき)(兵庫県)の工場へ、次姉は呉(くれ)(広島県)の工場で働いていましたが、昭和20年(1945年)7月初めころに強制的にこちらへ帰されました。次姉は学徒動員の間に空襲に遭ったことがあるそうですが、広島の原爆に遭わずに済みました。次兄は宇和島中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)在学中に肺結核を患ったこともあり、中退して療養中で、痩(や)せていつも青白い顔をしていましたが、そのような次兄にも終戦の年の5月ころに召集令状が届きました。そのときの父の顔を私は今でも忘れることができません。当時、私は小学4年生でしたが、『今日のお父さんはいつもと顔が違う』と思ったことを憶えています。結局、次兄は外地へ赴くことはなく3か月くらい徳島の部隊で活動していたときに終戦を迎え、その年の9月20日、台風の最中に帰宅しました。」

 エ 空襲の記憶

 昭和20年(1945年)7月の吉田空襲について、次の方々が話してくれた。
 「米軍機は宇和島にあった予科練を狙って焼夷(しょうい)弾を落とそうとしていて、その流れ弾が何発か吉田にも落ちたのだという話や、宇和島方面へ向かう列車を狙ったのだという話を聞いたことがあります。これは後に母から聞いた話ですが、吉田が空襲に遭ったとき、私(Eさん)は、母に抱かれながら、『父ちゃん、きれいな花火が落ちよるけん、見てみなはいや。』と言って、随分怒られたそうです。戦後には、あちこちに落ちていた焼夷弾の殻(焼夷弾が燃えた後の弾筒)を集めて遊んでいましたが、今思えば怖いことをしていたものだと思います。」
 「私(Dさん)は6歳のときに終戦を迎えました。吉田の空襲のとき、きれいだなと思って空を眺めていると、母から『早く防空壕(ごう)に入らんか。』ときつく叱られたことを憶えています。近年では、戦争を経験した世代の人たちが高齢になったり亡くなったりして、その悲惨さを伝えることのできる人がだんだん少なくなっています。私は、どこかで次の世代に戦争の記憶をつないでいかなければ大変な世の中になるという気がしています。」
 「私(Aさん)が国民学校高等科2年のとき、米軍機による本土への空襲が本格的に始まると、毎晩夜11時ころに警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴るようになりました。警戒警報の場合はサイレンが1回鳴るだけでしたが、空襲警報の場合はサイレンが何回も繰り返して鳴り、そのたびにみんなが防空壕に退避していました。私は早い時期に母を亡くしていて、その当時は62歳だった父と二人で北小路に住んでいました。父は、吉田に爆弾が落とされることはないと楽観していて、空襲警報が鳴っても防空壕へ逃げようとせず、家で寝ていました。
 吉田が空襲に遭ったのは7月12日の夜中のことで、そのとき宇和島は空襲によって大きな被害を受けました。私は、ドカンという大きな音に目を覚まし、どうも今日はいつもと様子が違うと思い、寝ていた父を起こしました。すると、今度は飛行機の爆音とドカンという大きな音が聞こえ、雨戸が振動でビリビリと音をたてました。外へ出てみると雨による煙霧でまるで100m先が燃えている感じで街全体の空が赤くなっていました。最初は父を連れて立間へ逃げようと考えましたが、立間駅辺りの上空から焼夷弾が花火のような音を立てて落とされたため立間の方への避難を諦め、中番所近くの盛り土による鉄道線路と立間川堤防で三方を囲まれた所にある鶏舎(当時は飼料不足のため使用されず)に避難すると、そこには近所の人たちも避難していました。2時間くらい経ってようやく空襲が終わり、家に帰ろうと外へ出ると、南の方の空は真っ赤になっていたので、吉田の街は相当燃えたのだろうと思っていました。幸いその日は大雨が降っていたこともあり、大部分は消火することができたそうですが、もし大雨でなければもっと大きな被害になっていたのではないかと思います。落とされた焼夷弾の数は結構多かったようで、桟橋の方から2、3日は煙が立ち昇っていたので、桟橋辺りにも焼夷弾が落とされたのだろうと思います。また、東小路の辺りには焼夷弾が何発か落とされ、民家は隣組の人たちの必死の消火活動により、2軒くらいが焼けた程度の被害で済みました。工業学校(現愛媛県立吉田高等学校)の寄宿舎だった大和寮は焼夷弾の直撃を受け、舎監の先生が、『生徒から預かったお金の入ったカバンを持ち出すのを忘れた。』と言って、生徒たちが止めるのも聞かずに火の海となっていた舎監室に飛び込み、髪が焼けた程度で大したけがもせず戻ってきたということがありました。大和寮は全焼してしまいましたが、寮生たちが手押し式消火ポンプを使って懸命に消火に努め延焼を防いだという思い出話を、後になって舎監の先生から聞きました。」

 オ 陣地の構築

 「私(Aさん)は、アメリカ軍の本土上陸に備えるため、知永の方でトーチカという陣地を構築する作業に2回駆り出されたことがありました。その作業には、町内会を通じて各戸に参加人数が割り当てられていました。兵隊さんたちがスコップで穴を掘り、私たちは手箕(てみ)(土などをすくい入れる竹編みの道具)で土砂をバケツリレー方式で運び、掘った穴の上にマツの木の幹枝を置き、その上を土で覆って隠していました。機関銃の銃口は扇形に外に向かって広がり、現在の国道56号の方向へ向けられていました。作業中に一度敵機が飛来したため、作業を中断して隠れたことがありましたが、作業に疲れていた私にはそれが良い休憩になっていたことを憶えています。」

 カ 焼夷弾とジェラルミンの再利用

 「私(Aさん)が工業学校の実習助手として勤務していたとき、吉田に落ちた焼夷弾の殻は工業学校の実習用材料として集められており、昭和25、26年(1950、51年)ころまで使用されていました。焼夷弾の殻を再利用して十能(じゅうのう)(炭火を入れて運んだり、石炭をくべたりするための、柄のついた道具)などを作り学校祭で販売すると、人気がありよく売れていました。また、乳母車も学校祭ではよく売れていましたが、その車輪は予科練の練習機の材料だったジェラルミンを溶かして作ったものだったことを憶えています。」


参考文献
・ 吉田町『吉田町誌(上巻、下巻)』1971、1976
・ 戸田友士『吉田藩昔語』歴史図書社 1978
・ 吉田町『合併三十周年記念写真集 なつかしの吉田』1984
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 山内務・佐川晃『吉田町と太平洋戦争』佐川印刷 1997
・ 宇神幸男『伊予吉田藩』現代書館 2013
・ 宇和島市教育委員会『吉田秋祭の神幸行事総合調査報告書』2018