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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 地引網漁の記憶

(1) 地引網漁とともにあったくらし

 ア 網の権利を購入

 「私(Aさん)の家で地引網を始めたのは祖父の代からです。曽祖父は次男か三男だったのだと思いますが、分家でした。当時は母屋(本家)が全ての財産を相続していた時代で、曽祖父のころは裕福ではありませんでしたが、祖父の代に頑張ってお金を貯(た)めたそうです。祖父はオーストラリアで潜水士として、南洋貝をとっていたと聞いています。そのようにしてお金を貯(た)めて、地引網の漁業権を購入しました。玉津は白浦、法花津、深浦の3地区に分かれていて、漁場も同様に分かれています。法花津地区では網元が4軒あり、私の家では網を引く権利を2株持っていて、その権利で地引網を行っていました。法花津地区にはもともと漁場が4か所ありました。ところが、昭和33年(1958年)ころ、村田真珠という大手の真珠会社が入ってきて、その真珠会社に漁業権を売るという形で潰し、漁場が3か所になったのです。その漁場を五つの網の権利を持った株主が、順番に回して漁をしていました。昔の漁は地引網だったので、沖まで網を持っていき、網を海に入れた後、網の両端に取り付けたロープを陸(おか)から引っ張ります。ロープを引っ張ると網が上がってくるので、その後は網を引っ張っていきますが、かなり大変だったことを憶えています。」

イ 手伝いの記憶

 「私(Aさん)の父は、私が遊んでいるのが気に入らなかったようで、勉強と仕事以外のことをしていると、すぐ叱っていました。父は私が中学2年生のころから、『勉強をしないのだったら仕事に来なさい。』と言っていたので、私はよく網引きの手伝いに行きました。私は何か格好悪いような気がして嫌だったのですが、勉強はもっと嫌だったので手伝いに行っていたことを憶えています。船にもよく乗っていて、昔は櫓漕(ろこ)ぎの伝馬船でした。中学生のときにはブラスバンド部に入っていましたが、『網引きに行かなければならないので、今日は行けない。』と、部活を休んだことが何回もありました。
 網引きは毎日行っていたわけではありませんが、私の家では3か所の漁場で2株の権利を持っていたので、どちらかで行っていました。祖父は、父と2番目の叔父に権利を一つずつ継がせていたので、父の権利で網を引いたり、叔父の権利で網を引いたりしていました。収入はきちんと分けるのですが、網子衆(あみこし)はどちらにも来てくれていました。私も手が足りないときや大きな網を引くときには、多くの人手が要るのでよく手伝いに行きましたが、本当に嫌だったことを憶えています。しかし今思うと、父のそういう考えが、私の考え方の土台になっているのかもしれません。遊びもある意味では大切ですが、基本となるのは生活力で、最低限の金銭的、経済的な土台がなければ何もできないという考えが、知らない間に身に付いたのではないかと思います。」

 ウ 地引網について

 「地引網では主にチリメン(イワシの稚魚)を獲っていました。地引網ではなるべく広い範囲で網を引っ張りたいので、沖の方に網を入れます。網はそれほどの長さはなく、陸までは届かないので、網にロープを付けて、網を陸まで引っ張ります。私(Aさん)の子どものころは機械船自体もそれほど普及しておらず、私の家でも焼玉の機械船を1隻持っていましたが、それだけでした。その機械船に2杯(隻)の網船を舫(もや)って(つなぎ合わせて)、漁場まで引っ張っていきます。2杯の網船は沖で機械船から離されると、網を投入し、陸の方まで両方へ網を広げながら、櫓で漕いでいきます。網船は全長8mくらいあったのではないかと思いますが、2人で櫓を漕いでいました。船に積んでいる網を海に入れなければならないので、網船には全部で4、5人が乗っていたと思います。また、海底にある岩に、網に付いている浮きや重りが引っ掛かると網を引けないので、海底の状況を見ながら網を入れなければなりませんでした。網とロープを合わせると500mから600mくらいの長さがあったのではないかと思います。
 網船が網を広げながら陸の方へ入ってきますが、網船は浜までは着けられないので、最後は陸から小さな船が網船を陸へつなぎ留めるためのロープを取りに行きます。網船を陸へつなぎ留めておかないと、網を引っ張ったときに船が沖へ出てしまうので、きちんと網船を陸へつなぎ留めた後、まず、船の上から網に付いたロープを引っ張ります。今であればローラーで引き上げるのでしょうが、昔はローラーなどはなかったので、最初にロープだけを引っ張るときは、機械というほどのものではない、糸車のようなものを使っていました。船に載せた、心棒がある糸車のようなものにロープを巻き付け、1人がロープを引っ張って、残りの4人ほどが糸車のようなものをぐるぐる回して引き上げます。すると網が陸の方まで来ますが、網の下が開いていると魚が逃げてしまうので、今度は浜から網を引っ張ります。このようにして、合計10人くらいで漁をしていたのではないかと思います。」

 エ 地引網漁の一日 

 「地引網漁は正午ころに行うことはあまりなく、午前と午後の2回行っていました。決まった時間に行っていたわけではなく、潮の流れや時間を見ながら、潮が動いていないときに網を入れていたのではないかと思います。午後に網を引くときには、午後3時ころから行っていましたが、私(Aさん)が学校を終えて手伝いに行くときが、大体そのくらいの時間でした。また、網を入れると夕方までには網を上げていましたが、そこからチリメンをゆでなければなりませんでした。ゆでたチリメンを夜に干すわけにはいけないので、翌日に干していました。男性たちが漁に出ていましたが、陸では女性たちが魚を干すのに忙しかったと思います。私も漁の後、チリメンをゆでる作業を手伝っていましたが、午後11時ころまでかかったこともありました。たくさん魚が獲れると、ゆでるのにもかなり時間がかかり、最新式の自動釜でも1時間から2時間くらいかかるようです。
 二つあった網の権利を父と2番目の叔父で分けて、チリメンの製造場を3番目の叔父に継がせるということが、祖父の遺志だったので、製造場は3番目の叔父が経営をしていました。製造場では、ゆでるために魚を釜に入れる人、釜から上げる人、上げた魚を運ぶ人、運んだものをまた動かす人と、最低でも4人くらいは必要だったので、私はそのような手伝いもしていました。製造場では五右衛門風呂のような大きな釜が二つあり、全て人力で、薪(まき)でゆでていたことを憶えています。毎日のように漁に行っていましたが、イワシはチリメンからかえり、小羽(こば)などに成長していくため、その日によって獲れる魚の大きさが違っていました。そのときどきの魚を獲らなければならないのですが、いつまでも小さな魚がいるわけではないので、カタクチイワシの稚魚が成長したホウタレと呼ばれるものまで獲っていました。ただし、大きくなった魚は乾燥させるには時間がかかり、すぐに傷みやすかったようです。傷んでしまうと商売にはならないので、製造には苦労したようです。」

 オ チリメン販売

 「ゆでて乾燥させたチリメンは、大阪や東京に出荷していましたが、こちらへ買い付けに来る人もいたように思います。漁協ではそれほど取り扱ってはおらず、今のように入札会を行うということも昔はそれほどなかったため、個人的に買い付けに来る人もいたことを憶えています。
 チリメン以外にも網に掛かる魚がいますが、獲れた魚が少ないときには網子の方に持って帰ってもらっていました。昔は吉田にも市場があったので、獲れた魚が多いときには、市場に出荷していました。タイが網に掛かるということもあり、小さなタイは網子の方が持って帰っていたと思いますが、2kgや3kgもあるようなタイは市場に持っていっていたことを私(Aさん)は憶えています。」

 カ 網子

 「私(Aさん)の家では、専属の網子があまりいなかったので、仲良くしている人や海が好きな人、親戚に、『魚が漁場に入ってきました。網を引くから来てください。』と頼むと、みんな農作業の合間に来てくれました。昔はみんなができる範囲で助け合って、仕事をしていたのだと思います。農家の子どもは、自分の家のミカン作りや米作りが忙しいときに手伝っていました。どのような仕事も一年中忙しいわけではなく、忙しいときには家族総出で取り組んでいました。近隣の人に頼まなければならないときは、『手伝ってくれんか。』と言って、お互いに助け合っていたのではないかと思います。」

 キ 網の手入れ

 「昔は網の手入れも大変でした。私(Aさん)が物心がついたころ、網に付けていたロープはナイロン製などではなく、大きな藁(わら)でできたロープだったことを憶えています。藁でできたロープは乾かさないと腐ってしまうので、毎日のように浜へ上げて乾かしていました。また、網も自分たちで頻繁に作っていました。細い網は当時から藁縄で作られたものではありませんでしたが、大きな網は藁縄で作られていて、いつも浜で干して乾かしていたことを憶えています。
 その後、クレモナロープやナイロンロープができて、干して乾かさなくてもよくなりました。ナイロンロープなどは、干すと日に焼けてしまい使い物にならなくなるので、何もしなくてよくなり、大変便利になりました。」

 ク 地引網から機船船引網へ

 「次第に地引網では魚が獲れなくなってきたので、バチ網が始まりました。この辺りではバチ網と呼んでいますが、正式には機船船引網と言います。船2杯で網を運んでいって、沖で獲る漁法です。徐々に網漁から真珠養殖へと転換していきましたが、チリメンはまだ獲れていたのではないかと思います。私(Aさん)がこちらへ戻った後、ほとんどの人が真珠養殖に転換していきましたが、私の家では網も少しずつは引いていました。昭和60年(1985年)ころにも、チリメンはまだたくさん獲れていたことを憶えています。」

(2) 人々のくらし

 ア 子どものころの遊び

 「私(Aさん)は小学3、4年生のころから海で泳いでいました。先輩たちと一緒に海で遊んでいたとき、先輩たちに沖へ連れて行かれて無理やり泳がされたことを憶えています。今であれば問題になりそうですが、昔はそれくらいのことは当たり前でした。
 小さいころから櫓を漕いで船に乗ることを覚えていたので、何人かの友達と、私の家の船で沖へ遊びに行ったことが何度もあり、そのときは子どもたちだけで櫓を漕いでいました。この辺りでは4月3日と4日をお節句として祝いますが、私たちは、3日を山の日、4日を海の日と呼んでいました。山の日には、山へ登り、色テープなどで飾り立てた基地を作って遊び、持参した弁当を食べていました。海の日には海で遊んでいました。小学生のころか中学生のころだったのかはっきりとは憶えていませんが、海の日に、一度だけ家の船を紙テープで飾り立てて、沖へ行ったことがありました。それほど大きな船ではありませんでしたが、6、7人が乗って沖へ出て、みんなで盛り上がりながら二つの櫓を漕いでいたことを憶えています。
 また、小学生のころの亥の子のこともはっきりと憶えています。私たちの代から小学生だけが亥の子石を搗(つ)いていて、5、6年生ともなると、かなり大変だったという記憶があります。小学校の同級生が78人と人数も多かったのですが、亥の子の旗を掲げるために、穴を掘って竿(さお)を立てる作業を5、6年生だけでしていました。亥の子石には環が6か所付いていて、それぞれにロープを結び付けて、それをみんなで引きます。一番前の人は上げ下げするだけですが、後ろの人はそのロープを引っ張らなければなりませんでした。今はロープ1本に1人か2人ですが、私たちのころはロープ1本に5、6人も付いていたことを憶えています。当時、玉津小学校は全校で児童が600人くらいだったと思いますが、地区ごとに亥の子をしていました。宮之浦には東地区と西地区で50軒くらいあり、1軒に子ども1人だとすると50人になります。6本のロープに5人付くとすると30人ですから、そのくらいの人数しか石を搗けませんが、それだけいたら十分でした。今は子どもが随分減ってしまったので、保護者も一緒に石を搗いています。
 また、亥の子の日には朝早くから起きて、亥の子の旗を立てていました。昔の11月は現在よりも寒く、旗を立てる時間には火を焚(た)いていました。火を焚くと熾(お)きができるので、みんなで焼き芋を作って食べていましたが、それがとても美味(おい)しかったことを憶えています。そのように、私たちのころは今とはお金の価値も違い、物を大切にしていた時代だったのではないかと思います。」

 イ 祭りの思い出 

 「私(Aさん)が子どものころ、大人たちはよく働いていましたが、その代わり、遊ぶときには思い切って遊んでいたのではないかと思います。思い切り遊ぶことができていたので、どこでも祭りが盛大に行われていたのでしょう。今年(令和2年〔2020年〕)は新型コロナウイルスの影響で中止になりましたが、私たちの地区でも昨年(令和元年〔2019年〕)まで盛大に行っていました。
 法花津地区のお練りは、三島神社を出て、地区全体を回って三島神社に帰りますが、地区ごとに要所で牛鬼が走り、神輿(みこし)が跳びながら進みます(写真3-2-4参照)。牛鬼は『暴れてなんぼ、走ってなんぼ』とされていて、観衆が『走れ』と囃(はや)し立てる中、牛鬼は勢いよく走ります。神輿は『跳び神輿』で、要所に来ると観衆が『跳べ』と囃(はや)し立て、担ぎ手が『よいしょ、よいしょ』と声を掛け合いながら準備をし、『やーやー』と声を合わせて神輿を担ぎ、息を合わせて跳びながら進みます。お練りはまず、七つ鹿が舞っていき、その後に牛鬼が走っていきます。これは露払いのようなもので、悪いものを蹴散らしていくためだそうです。その後、神輿が練っていき、その後にお稚児さんが要所で踊るというのが、私たちの祭りのお練りです。現在は、浜地区にもお練りが入ってきますが、浜地区の氏神は日吉神社なので、昔は入ってきませんでした。」

写真3-2-4 三島神社

写真3-2-4 三島神社

令和2年11月撮影