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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業18ー宇和島市②―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 真珠養殖に取り組む

(1) 真珠養殖への転換 

 ア 大手真珠会社の進出 

 「昭和30年代前半に、三重県から大手の真珠会社である堀口真珠と村田真珠が法花津湾に進出してきました。法花津地区には村田真珠が進出してきましたが、当時、村田真珠は日本でも2、3番目に規模の大きな会社で、作業場も大きく、社員住宅などもありました。しかし、村田真珠が真珠養殖を行っていた期間はそれほど長くはありませんでした。昭和40年(1965年)ころには、村田真珠に代わって山下真珠が入ってきたのではないかと思います。
 大手の真珠会社が進出してきたので、この辺りの漁師の中にも徐々に母貝の養殖に取り組む人が増えてきました。大手の真珠会社に母貝を買ってもらうことができるので、母貝の養殖を手掛けるようになったのだと思います。その後、真珠養殖に取り組む人も少しずつ増えてきて、真珠養殖が中心になっていったのではないかと思います。私(Aさん)がこちらに帰ってくるずっと前のことですが、私の家でも2年ほど母貝養殖をしていました。村田真珠が進出してきてから5、6年経(た)っていたころではないかと思います。この辺りで母貝養殖を行っていた家が2、3軒ありましたが、もう随分前にやめています。」

 イ 来島どっくで働く

 「私(Aさん)は新居浜高専(現独立行政法人国立高等専門学校機構新居浜工業高等専門学校)を卒業すると、来島どっくに入社しました。入社したころは造船景気で、どんどん給料が上がっていったことを憶えています。来島どっくはかなり大きな造船会社で、当時、大手6社に次ぐ、準大手3社の中の1社でした。同期の42人のうち、私だけが高専出身でしたが、最初から大学生と同じように扱ってもらったことを憶えています。
 最初に配属されたのが造機設計課です。課長や係長、先輩から優しいだけでなく、厳しく指導してもらいました。難しい仕事に取り組むたびに声を掛けられて助けてもらう一方、不適切なことをすると厳しく叱られました。同じ課で一番優秀だといわれていた先輩がいましたが、会社に入ったときにその人と比べられたことを憶えています。『あいつが3年で一人前になったから、お前も3年で一人前になれ。』と言われたことを今でも忘れることができません。その先輩は10歳ほど年長でしたが、いつもかわいがってくれました。
 その先輩には『犬塚の犬になるな。』と言われたことをよく憶えています。昔、今治(いまばり)に賢い犬がいて、庄屋さん2人がその賢い犬をかわいがって、犬はどちらにもなついていたそうです。ところがあるとき、両方から呼ばれると、その犬はどちらに行こうか迷って、池に落ちて死んだという話でした。私が『犬は泳げるから、それは嘘(うそ)ではないですか。』と言うと、先輩は本当の話だと言っていました。私が、課長と係長との間でそのよう状況になっていたので、その先輩はいつも『犬塚の犬になるなよ。』と言ってくれたのでしょう。『課長と係長のどちらが大事かではなく、課長や係長の指示が会社にとって大切かどうかを見極めて、しなければならないことをしなさい。』と言ってくれたことを忘れることができません。
 昭和50年(1975年)ころになると、造船不況で規模を縮小しなければならないということで、私は営業部に転属となりました。ところが、私は酒を飲めないので、営業の仕事がつらかったことを憶えています。当時、会社の営業部には国内船営業課と外国船営業課があり、私は外国船営業課に配属されました。大きな船を造るときには、外国もしくは国内から現場監督が来ます。造船の現場で、その現場監督と設計担当の部署との橋渡しをするのが私の仕事で、よく現場監督の世話をしていました。現場監督からはさまざまな要望や苦情が出ましたが、苦情が出るとなだめなければならない場合があり、大変苦労しました。もともと営業活動には向いていなかったうえ、酒も飲めないのに接待の場にも出なければなりませんでした。結局1年半くらい営業の仕事をしましたが、家のことが心配だったこともあり、会社を辞めて玉津に戻りました。」

 ウ 真珠を作る

 「私(Aさん)は16歳から29歳まで玉津を離れ、新居浜高専で勉強をして、来島どっくで働きましたが、いずれは帰って跡を継がなければならないと考えていました。はっきりとは憶えていませんが、私の実家では父が昭和40年(1965年)ころから玉入れを行う人を1人雇って、真珠養殖を始めました。私は25歳のときに結婚したのですが、それからは妻だけが玉津の実家に帰って、ミカン採りと真珠の玉入れの手伝いをしてくれていました。父は真珠養殖以外にもいろいろなことに取り組みたかったので、私が玉津に戻ってきたころ、真珠は2万個くらいしか玉入れを行っていませんでした。昭和53年(1978年)、家庭の事情もあり、『真珠なら真珠で思い切って取り組まなければならない』と考え、私は会社を辞めて実家に戻ってきました。それから、私の家では真珠養殖の規模を拡大していきましたが、ちょうど真珠の価格が良くなっていたときでした(写真3-2-6参照)。
 昭和33年(1958年)ころから大手の真珠会社がこの辺りに進出してきましたが、昭和42年(1967年)ころから真珠不況になっていきました。真珠を市場に出すと値崩れするために、調整保管といって、漁協が預かるということも行われていたようです。しかし、昭和50年(1975年)ころから真珠の価格が良くなっていきました。叔父たちも真珠養殖に転換していて、私が戻ってきた昭和53年(1978年)ころからは、儲(もう)かっていたようです。私の家の景気が良くなったのは昭和55年(1980年)ころからで、父がどんどん手を広げていって、私も妻もしんどい思いをしながら一生懸命に仕事をこなしていきました。昭和58、59年(1983、84年)ころだったと思いますが、とても価格が良いときに儲けることができて、私の家でも借金を返済することができました。そのころから後はずっと景気が良く、真珠景気といえるような状況で、現在の愛南(あいなん)町では母貝景気や真珠御殿、母貝御殿というような言葉が使われたこともありました。」

 エ 法花津湾と吉田湾の住み分け

 「真珠の景気が良いといって、この辺りの多くの人はとんでもないお金を儲けていたわけではなかったようですが、儲ける人はかなり儲けていたようで、中には何千万円と儲けた人もいました。そのように真珠景気の流れの中、玉津では地引網やバチ網などが次第に行われなくなっていきました。
 一方、吉田湾の方では、魚類養殖が盛んになりました。吉田湾の方では網元の力が強かったようで、中でも奥南は漁師が非常に多い地域で、特に網元の力が強かったのです。真珠養殖業者が少なく、真珠作りに取り組む人もあまりいなかったため、吉田湾の方では魚類養殖が増えていきました。奥南には真珠の許可枠が90万個くらいあった大きな真珠養殖業者もいたのですが、漁場を追いやられて漁場を変えていき、ハマチやタイの魚類養殖が盛んになっていきました。魚類養殖は吉田湾で、真珠養殖は法花津湾でと誰かが決めたという話は聞いていませんが、暗黙の了解のように決まっていたのではないかと思います。あるいは、三重から進出してきた真珠養殖業者が漁協と何らかの取り決めをしていたのかもしれません。魚類養殖では、もともとはハマチやタイが中心でしたが、途中からはさまざまな魚種を養殖する人も出てきました。
 私(Aさん)がこちらに戻ってきたときは価格が良い時期で、『毎年船を購入することができる。』と、吉田湾の魚類養殖業者が話していたことを憶えています。伝馬船のような船ではなく、その当時で1杯1,000万円から2,000万円、今だと5,000万円くらいするような船を毎年購入することができるくらい儲けていたそうです。」

 オ 真珠作りの研究

 「玉津に帰ってきてからは、よく勉強もしましたし、よく遊びもしました。漁協の下部組織に青年漁業者連絡協議会があり、私(Aさん)も戻ってすぐに加入しました。最年長の人が私より二つ年上で、一つ年上の人や同い年の人もいました。私たちは真珠養殖、奥南は魚類養殖なので、同じことをしていたわけではありませんが、奥南にもたくさんの知り合いができました。一緒に海上清掃を行ったり、懇親会の場で漁業の行く末を語ったりしたほか、口喧嘩(くちげんか)もたくさんしましたが、そのころはちょうど景気の良かった昭和50年代で、楽しかったことを憶えています。仲間同士でずっと切磋琢磨しながら助け合って養殖業に取り組んできました。その後、漁協の理事に選出されたので、青年漁業者連絡協議会をやめましたが、同年代の仲間とはその後も仲良く付き合い、宇和海の漁業について話をしたり、懇親会を開いたりしたことが良い思い出となっています。
 協議会の人はみんな、宇和海の漁業についてきちんと考えている人が多かったです。特に真珠養殖業者はそのとき限りの考えでは続けることができず、先々のことを考えながら取り組まなければなりません。みんなが建設的な考えを十分に持っていたため、法花津湾には魚類の養殖業者があまりいないのだと思います。深く考えることなく魚類養殖を行うと、海が汚れてしまいますが、そうはなりませんでした。そのため、少数ではありますが、現在も法花津湾に真珠養殖が残っているのではないかと思います。
 また、真珠養殖業者の間で、なるべく良いものができるようにみんなで協力して取り組んできました。貝の状態なども、お互いに見せ合って勉強していたのです。私はそのような勉強をするために、高速の船外機の船を購入しました。船外機は多くの燃料を必要とするため、車よりも燃料代は高く、車の方が安く目的地に行くことができます。しかし、船の方が早く目的地に行くことができますし、陸から行くことのできない場所にあるものを見に行くこともあったからです。誰かに貝を見せてもらうときには、当然の礼儀として、自分が養殖している貝も持っていき、見比べて、『貝の状態がちょっと強すぎるかなあ。』、『弱っているかなあ。』などと話し合いながら取り組んできました。」

(2) 真珠養殖に取り組む

 ア 母貝の仕入れ 

 「私(Aさん)は真珠母貝を魚神山や家串など愛南町から仕入れていました。真珠の景気が良い時代に、どの家も手を広げたので許可枠が作られました。許可枠というのは玉入れをしてもよい貝の数です。許可枠は増枠も含めて、従来あまり作っていない人でも一律に6万個まで、数多く作っていた人は持ち分以上に増やせなかったのではないかと思います。病気になったり死んだりする母貝もあるので、許可枠よりも1割5分くらい余分に母貝を購入する必要があります。玉入れでは、細胞貝という貝の殻を作る細胞組織(ピース)を核と一緒に入れます。玉入れをすると沖に出しますが、玉出しまでに貝の数で8割くらいしか残らず、核の数になると、さらに2割くらい減るのではないかと思います。しかも、傷があったり突起があったりして、等級外になるものもありますし、製品になるものとなるとさらに数が減ります。」
 
 イ 仕立て(抑制)
 
 「貝を玉入れする前には麻酔をかけたような状態を作ります。なるべく自然な形で作りますが、これを仕立てと言います。仕立ての時期は基本的に2回ありました。私(Aさん)が真珠養殖をしていたころは、大体10月の終わりから11月の初めころから始めて、11月の終わりころまでに1回目の仕立ての作業を行っていました。もちろん、その後も多少の作業があるので、玉入れの前の3月まで1回目の仕立ての作業は続きます。仕立てでは最初に、母貝を黒い卵抜(らんぬき)籠に入れて、海に吊(つ)るします。仕立ての作業を行うのは、酸素量と餌の量を抑えるためです。一気に酸素量と餌の量を減らすと、貝が弱ってしまうので徐々に減らしていき、貝を徐々に冬眠状態にさせます。動物の冬眠と同じで、貝は酸素と餌がなくなった状態で活動を続けると死んでしまうため、自己防衛本能で冬眠状態になるのです。
 さらに水温が低下すると、今度は本格的に冬眠に入っていきます。3月になると水温が上昇しますが、玉入れの適温は、昔の貝では18℃前後でした。その時期に合わせて仕事組みを行うのですが、水温18℃というのは1か月くらいしか続きません。そのため、水温が15℃くらいになる4月初めころから玉入れを始めます。その後、だんだん水温が上昇し、6月になると20℃を超えますが、23℃くらいになると、長い間抑制していた貝、つまり仕立ての期間が長い貝は、体力が落ちて玉入れに耐えられなくなってしまいます。そこで、6月中旬ころから玉入れを行う貝は、3月から仕立ての作業を行いますが、これが2回目の仕立てになります。このように、仕立ては秋からの仕立てと3月からの仕立ての2回あり、玉入れの時期は4月から7月中旬ころまででした。
 ただし、水温がだんだん低下していくといっても、年によって下がり方も変わりますし、餌の状態も毎年同じではありません。それをうまく見極めることが大切で、経験に基づいた知恵と勘が必要です。例年のデータを頭に入れる、もしくは頭に入らなくても記録に残しておき、『今の状態は、このときに近い。当時は後々こうなったから今後もこうなるのでは。』と予測をしながら、貝の状態を見て仕立てを行っていきます。知恵と勘がうまくいくと、良い仕立てができるのではないかと思います。」

 ウ 玉入れ(挿核)

 「4月に玉入れを始めると、7月ころまで続いたので、昔は『100日玉入れ』と言っていました私(Aさん)たちが『細胞』と呼んでいるピースを、玉入れを行うときに核と一緒に入れます。核を入れた後からピースを入れる人もいますし、先にピースを入れてから核を入れる人もいます。核にピースをくっつけておかないと、真珠にはなりません。私は遅かったのですが、速い人だと1日に1,000個くらい、遅い人でも600個くらい、平均すると1日800個くらい玉入れを行っていたのではないかと思います。
 玉入れの後、しばらくの間養生させて、沖出しをします。この沖出しのときに、貝がどのくらい死んでいるか、どのくらい玉を吐き出しているかを確認しますが、これが玉入れの最初の成績です。その後、浜揚げのときに玉を取り出しますが、このときに製品率、重さなど玉の善しあしを確認するのが2回目の成績です。
 成績を確認するため、誰が玉入れを行ったのかが分かるように籠を並べます。玉入れを行う人が嫌がるので、成績を確認しない人もいました。最終的には成績の良い人の給料が上がっていくわけですが、成績の善しあしでその都度、給料を変えることはありませんでした。成績を確認するのは、技術的に直さなければならない点がないか点検する必要があるからです。玉入れには貝の見方と指先の技術の二つが大事だと私は思っていますが、それが悪いと直す必要があります。『こういう貝は駄目です。』、『こういう貝は良いから頑張って核を入れなさい。』、『このような道具の使い方をしなければいけません。』などと教えなければなりません。
 成績が悪いということは、貝の見方と指先の技術のどちらかが悪いか、両方とも悪いかです。経営者や責任者が成績で判断をして、『ここをこのように直しなさい。』と教えなければならないので、成績を確認するのです。そうすることで経営の安定を図っていきます。私も自分で経営していたころはみんなの成績を確認していました。少々のことでは指導しませんでしたが、成績を見ると明らかに何かが違うと分かるため、『そこは修正していかなければならない』と思いながら教えていました。
 玉入れの技術者として一人前になるためには、一般的には5年くらいはかかるのではないかと思います。私の妻は特別で、私の知っている中では一番早く、2、3年くらいで一人前になりました。私は3年かかりましたが、3年で妻に追いつき、4年目に妻の成績を追い越しました。
 玉入れはかなり難しい仕事です。道具の使い方だけであれば2年くらいで一人前になるのではないかと思います。ベテランでもずっと玉入れを行っていると、少しずつ貝を見る目や指先の技術がぶれてきますが、成績の良い人は、ぶれてもそれに気づくことができます。養生籠に入れて2週間くらいすると、結果がどうなっているか自分で分かるので、みんながそれなりに努力すれば、ぶれたことに気づいて直すことができます。しかし、分かってない人ぶれたこと自体が分かりません。そのため、成績を見ながら『これをこのように直したら。』と上手な人に教えてもらって、ある程度自分でぶれたことに気づいて、修正できるようになったら一人前です。そこまで到達するのに早くても3年はかかるのではないかと思います。その間、辛抱強く経営者が待てるかというのも一つの問題です。怒ってしまうと、その人はやめてしまうこともあります。誰も怒られてまでは続けようとは思わないので、分かりやすく教えてあげるということも大事なのではないかと思います。
 それは玉入れに限りません。どんなことでも最初は分からないのが当たり前なので、上手に教えてあげることが大切だと思います。私も会社に入ったとき『3年で一人前になれ。』と言われましたが、それは、同じことを3回すれば分かるだろうということでした。1回目は仕事内容を覚えるだけでよい、2回目は仕事内容とその仕事が何を目指すかを考えながら仕事をする、そして3回目は自分のすべきことを把握したうえで仕事をするということが『3年で一人前になれと。』いう教えだったのではないかと思いますが、3年で一人前になったら十分だと思います。ちなみに、『私は失敗したことはない』という人とは関わらないことにしています。難しいことに取り組めば、最初は失敗するのは当たり前で、『難しいことに取り組んだことがないのだろう』としか思えないからです。」

 エ 仕立てが一番

 「私(Aさん)は、真珠養殖において一番大事なのは仕立てだと考えていて、よく人には『真珠養殖の5割は仕立てで決まる。』と言っています。残りの5割のうち貝を見る目が3割で、指先の技術が2割です。貝を全て同じように作ることはできません。籠に入れて貝を作りますが、籠の状態や貝の位置によっても貝の状態はばらつきます。そのため、『この貝は少し弱っている』とか、『この貝はまだ少し元気すぎる』、『この貝はちょうど良い』などと、どれだけきっちりと見分けられるかということが大事で、それが見る目ということです。そして、与えられた貝に上手にメスを入れて、核を入れたり、ピースを入れたりするという技術が2割だと思います。なぜなら、貝の状態が良い場合、玉入れの技術が良くなくても成績がそれほど変わらないときがあるからです。
 私が真珠養殖をしていたときには行っていませんでしたが、現在は沖出しのときに貝のレントゲンを撮っているので、残った玉数が正確に分かります。脱核といって、核を吐き出した貝は捨てます。死んだ貝はもちろんですが、玉の入っていない貝を置いていても手間が掛かるだけだからです。その残った玉数を見たときに、貝の状態によっては、玉入れの上手な人とそれほどでもない人との成績があまり変わらないときがあります。そのため、私は仕立てが5割だと言っているのです。成績の5割は仕立て次第で、仕立てが良かったら好成績が約束されるため、やはり仕立てが一番大事だと私は考えています。
 そうはいっても、玉入れを行う人も腕の良い人がいなければ経営的には苦しくなります。残りの5割は玉入れを行う人次第で、貝を見る目が3割と指先の技術が2割です。人によっては『貝を見る目が1、2割で、指先の技術が3、4割だ。』と言う人もいますが、いずれにしても5割を占めるのだから、上手に玉入れを行える人も必要です。玉入れを行う人の半分以上が上手でないと経営が苦しくなっていきます。上手に玉入れを行える人をいかに育てられるか、確保できるかではないかと考えています。最初から上手な人はいないので、育てていかなければなりません。
 みんなが基本的に思っていることは、上手に玉入れを行える人が育つまで3、4年は儲からないということです。しかし、それを辛抱して育てていかなければなりません。5年で一人前になって、その先10年間、上手に玉入れを行ってくれたら、その10年で損をした分の何倍も儲けさせてくれると思い、辛抱強く育てなければならないのです。上手な人から見ると、下手な人には『何でぞ』と思うようなことが多々ありますが、かといって怒ってしまうと委縮するだけで育ちません。そこをいかに上手に育てていくかが一番の苦労だったことを憶えています。」

 オ 養生・沖出し

 「玉入れをした後、養生籠という四角い籠にきれいに並べたうえで、海に浸(つ)けて回復させますが、これを養生と言います。貝の傷が癒えて、回復すると、ポケットという金枠に網が何段か付いた縦籠に入れて、海に沖出しをします。
 玉入れの最後の時期が沖出しと重なるため、真珠養殖でこの沖出しの時期が一番忙しくなります。養生の期間は約1か月と言われることが多いですが、初めの時期は1か月ではありません。水温が低いときには回復が遅いので、4月初めから玉入れを行うと、沖出しの始まりが5月末から6月初めころになります。それから順次、沖出しを行っていくのですが、6月に玉入れを行ったものは1か月くらいの養生で沖出しができるので、先に玉入れを行っていたものと沖出しの時期が重なります。そのため、4月から始めていた玉入れも、終盤の1か月ほどは詰め込み作業で行うことになります。つまり、毎日、玉入れを行ったうえに、先に玉入れを行った分と後に玉入れを行った分の2日分の量の沖出しをしていくことになるので、この時期が一番忙しいのです。その後、玉入れが終わって沖出しだけになると、人はずっと少なくて済みます。その辺りを経営者は上手に回していかなければなりません。
 私(Aさん)の家では、玉入れを行う人の2人を含めて、8人くらいの人を雇っていましたが、ほとんどが季節労働のアルバイトの人でした。そのため、玉入れを行う人は玉入れの時期だけ、玉入れ以外の人は玉入れの時期ももちろんいますが、後の時期は貝掃除や沖仕事があるときだけ雇っていて、私の家では3人くらいは10か月ほど雇っていたと思います。水温がかなり高くなってきた場合、貝を触ると弱らせたり死なせたりしてしまいますし、逆に水温がかなり低下しても触ることができません。そのため、1月中旬に玉出しが終わり、3月初めころから貝の手入れを始めるまでの1か月半くらいと、8月終わりから9月初めころの間の半月くらい貝を触らない時期がありました。その約2か月間、資材の修理などの仕事も多少はありますが、それほど仕事は多くないので休んでもらっていたのです。玉入れの許可枠があるので、私の家ではそれほど多くはできませんでした。大きな真珠会社になると、一番多いときで80人くらい雇っていたのではないかと思います。白浦にあった堀口真珠は、許可枠も日本で3番目に多かったこともあり多くの人を雇っていて、玉入れを行う人だけで50人くらいいたことを憶えています。」

 カ 貝掃除

 「沖仕事のほとんどは貝掃除で、貝掃除をきちんとしなければ貝が弱ってしまいます。私(Aさん)が子どものころ、村田真珠が進出してきたころには、鉈(なた)のようなもので叩(たた)くようにして貝掃除をしていたことを憶えています。その後、グラインダーが登場し、より速く大量に貝掃除をすることができるようになりましたが、今ではこの辺りのほとんどの真珠養殖業者はグラインダーを使っていません。今では、先端にドリルが付いたハンドクリーナーという道具で汚れを削り落とすようになっていますが、強く削りすぎると貝に負担がかかります。
 一度、叔父の家で、貝掃除が間に合わないということで、動力噴霧器に鉄砲ノズルを付け、水圧を上げて貝掃除をしようとしたことがありました。そのときは、後になって貝からたくさん玉が出てきました。貝が水圧に驚いて身を締めたため、弱い所から破れて玉が出てきたのではないかと思います。きれいな玉ばかり出てきましたが、身が破れやすい状態で玉が入っているときはきれいな玉ができることが多いのです。9、10月ころのこれからもっと玉を良くしたいという時期だったので、『もったいない』と思った記憶があります。
 私が玉津に戻って真珠養殖を始めたころには、グラインダーを使って1個ずつ貝掃除をしていました。そのため、それほど多くの貝掃除ができず、全て掃除をしてしまうのに1か月はかかり、沖出しから玉出しまでに2回掃除をしていました。6月から沖出しを始めて7月中旬に沖出しが終わると貝掃除を始めて、8月終わりころまでに1回目を済ませます。それから少し後で、水温の状態を見ながら、後に行う仕事の時期と重ならないように、2回目の貝掃除をしました。私は海上に屋形を作っていたので、そこで貝掃除をしていました。
 現在では、ほとんどの真珠養殖業者が貝掃除にポンプ船を利用していて、私も平成の初めころにポンプ船を導入しました。500万円から600万円するので安いものではありませんでしたが、叔父にいろいろと相談をしてから導入することにしました。最初は叔父の世話で中古のポンプ船を手に入れましたが、小さな業者としてはいち早くポンプ船を導入した方ではないかと思います。遠い場所の漁場であっても、ポンプ船であればそこまで行って貝掃除を行うことができます。エンジンの動力でポンプを動かして海水をくみ上げると、上下から海水が噴き出します。そこへ貝を網ごと通して、汚れを水圧で落とすのです。ポンプを使った掃除は、基本的には1週間から10日ごとに行います。
 ただし、ポンプ船も上手に使わなければなりません(写真3-2-11参照)。フジツボやカサネカンザシの稚貝が流れてきて、籠に入っている貝に付着することがあります。2、3日までの目ではよく見えないくらいの大きさのものだとポンプの水流でもきれいに落ちますが、大きくなったものは落とせません。貝に過度の負担を与えると結果が悪くなりますが、かといって、貝が汚れても結果が悪くなるので、そのあたりの兼ね合いを考えなければなりません。そこを上手に見極めて、汚れを落とすことができるうちに落としておけば、ポンプでの洗浄だけで済むのです。ポンプで汚れを落とせなくなると貝が弱ってしまうので、ハンドクリーナーで掃除をします。一流の業者であれば、常に注意深く見極めて、ポンプ掃除だけで済ます業者もあるのではないかと思います。」

 キ 玉出し(浜揚げ)

 「1年物の玉出し(浜揚げ)の時期は1月です。2年物は12月20日ころから玉出しを行います。2年物は貝が年を取っているので、大きな玉もできるのですが、貝が体力を落とすのも早いのです。貝を浜揚げした後、貝柱を切って貝と身を分けますが、貝柱は食用になります。貝柱以外の玉が入っている身の部分は、玉を出すときに砕いてしまいます。今は、壺(つぼ)のような形をしたミキサーを使って身を砕いていき、液状にして玉だけを取り出します。
 また、昔はケシを取り出していました。ケシは、天然真珠と呼ぶのが適切かもしれません。一般に、テレビなどで天然真珠と呼ばれているものは、6年や7年かけて大きくなったものです。その中で何万個に1個くらいの割合で丸い真珠ができますが、普通は丸くはありません。ケシは1年でできる小さなものですが、米粒くらいのさらに小さなものができることがあります(写真3-2-12参照)。真珠層を作る外套膜(がいとうまく)分に砂粒などが入り真珠層が巻き付いてできるものや、メスを入れて核を入れる際にごみが入り巻き付いてできるものもあります。そのようにしてできたケシは薬の材料になるそうで、お金になっていました。そのため、ケシを取り出すためにミキサーで身をきれいに砕いて液状にします。真珠は重いので下に下がり、それだけを取り出して、昔は残りの身の部分を海へ流していました。
 貝の殻は基本的に放棄します。私(Aさん)が真珠を作っていたころは、アクセサリーの材料としてお金になっていたときもありますし、無料ですが、業者が持って帰ってくれていたときもあります。昔、漁協が埋め立て工事を行うときに、そこに埋められたこともあったと記憶しています。」

 ク 出荷

 「父の時代には漁協を通さず、ブローカーと呼ばれる、玉を買って加工業者に転売する業者に全量を売っていました。小さな業者にはそのようなところが多かったと思います。しかし、私(Aさん)が漁協の役員などを務めるようになると、漁協の入札に掛ける量も増やしていき、最終的には半々くらいになりました。ほかの業者の中には全量を漁協の入札に掛けるところもあったことを憶えています。大きな業者は、県真珠漁業連合会という組織で入札会を組んで、販売していました。」

 ケ 夜遅くまで働く

 「私(Aさん)は忙しい時期には午前7時半ころに起きて、8時から玉入れを行っていました。ピースを切るなどして玉入れの準備をしなければならなかったので、両親はもっと早くから仕事をしていて、雇っている人たちも午前7時半ころに来てもらっていました。その代わり、雇っている人たちは午後6時に帰し、私と妻は午後8時半ころまで玉入れを行いました。夫婦で後片付けをして、家に帰るのは午後9時半から10時ころだったと思います。
 そのようなことをしていたのは私たちだけだったので、叔父たちからは、『電気を点(つ)けてまで遅くまで仕事をすることはない。それならもっと早くから仕事をしなさい。』と言われていました。しかし、私も妻も成績が良く、成績の良い人の貝が多いのと少ないのとでは全く違います。朝早くから仕事をしても玉入れの準備をすることになるので、その代わりに1時間でも余分に玉入れを行った方がよいと考えたわけです。そのように考えて、私は遅くまで仕事をしていましたが、ほかのみんなはそうしていなかったので、『みんなと同じようにしなさい。』と怒られていたことを憶えています。しかし、大事なことにきっちりと取り組むのが一流で、一生懸命に仕事をするということはそういうことではないかなと思います。
 玉入れの時期が終わると、ほかの人を帰して後片付けをし、午後6時ころには家に帰っていました。しかし、仕事が間に合わなくなりそうなときには、遅くまで仕事をしなければなりません。私の家にはミカン畑もあったので、ときどき午後8時ころまでミカンの消毒をしたり、沖のポンプ掃除もしたりしていたことを憶えています。消毒をしていたときは『夕べ暗くなって消毒をしていたけれど、見えよったん。』と言われました。そのころの消毒は全て手作業で、骨がきしむほど仕事をしていたと思います。」

 (3) 真珠養殖のこれから

 「一時期は良くありませんでしたが、現在では真珠の価格は良くなったようで、普通の成績でもそれなりに儲けることができるのではないかと思います。しかし、成績が良くないと経営的にも難しく、現在では良い技術者の確保も難しくなっています。誰もが上手になるわけではなく、上手になるのにも最低で3年かかります。そのため、3年間はその技術者の作る玉で損をしてしまいます。それは覚悟のうえですが、10年しても20年しても上手にならない人もいます。一流になる人はごく一部ですが、二流くらいまでは大抵の人はなれるのではないかと思います。昭和50年代の景気の良いときは、二流でも儲けを出すことができました。しかし、今はなかなか難しいようで、損はしないが、儲けることはできないというくらいだと思います。また、玉入れを行うときに貝の状態を良い状態に持っていくのが難しく、それにも上手下手があります。良い場合と悪い場合にかなり差もあり、経営としてはそういう難しさもあるのではないかと思います。
 また、赤変貝(平成8年〔1996年〕の真珠母貝の異常大量へい死のこと。貝柱が赤色に変色したことからこう呼ぶ。)から後、仕立てや玉入れの技術以外のところで、かなりリスクも高くなりました。母貝自体が悪いので、上手な人でもうまくいかないということがあるようで、今年(令和2年〔2020年〕)も大変だということを聞いています。
 妻が亡くなったこともあり、私(Aさん)は平成14年(2002年)に真珠養殖をやめ、お世話になっていた花之華真珠の玉入れだけに行くようになりました。真珠養殖業者も減りました(図表3-2-2参照)。つい最近までは法花津湾で、深浦に3軒、私の家のお部屋(分家)、白浦に1軒、筋に1軒、漁場はこちらですが奥南に1軒と、吉田町には7軒の真珠養殖業者がありました。しかし、私の家のお部屋(分家)も今年でやめてしまいました。ほかにも、深浦の1軒と筋の1軒も今年までで、来年(令和3年〔2021年〕)はやめるという話を聞いています。残るのは深浦に2軒、白浦に1軒、奥南に1軒で、奥南の1軒は花之華真珠でかつての奥南真珠です。
 さらに、今年は新型コロナウイルスの影響で、もしかすると調整保管になるかもしれません。今、真珠製品が売れてないと聞きました。そのため、加工業者が買おうとせず、無理に買ってもらうと買い叩かれるそうで、今は魚もなかなか市場に出せないようです。ただし、このようなことは10、20年単位で起こり得ることなので、仕方がないのかもしれません。そのような状況の中で、第1次産業の農業・漁業は、辛抱して取り組める人だけが生き残るのではないかと思います。この辺りでは漁業でも農業でも、廃業した理由のほとんどは跡取りがいないためでした。それ以外のことはある程度辛抱して、それぞれの時代に応じ、できる範囲で少しずつ一生懸命に取り組んできたのではないかと思います。
 ミカンの景気も良いので、玉津にも後継者が多くなってきました。一昨年(平成30年〔2018年〕)に西日本豪雨で大きな被害を受けましたが、うれしいことに、若い人たちが頑張って取り組んでくれています。自分の住んでいる地域が寂れると、悲しいものです。若い人が少しずつ、『私もミカンを作る。』と言ってくれているので頼もしく思っています。
 私の家でも、少し前から娘が玉入れに行くようになりましたが、せっかくですから続けてほしいと思っています。新居浜高専の同級会のときに、『娘が玉入れを始めるから、これから教えるんだ。』という話をすると、『それはうれしいことですね。』と友人が言ってくれたので、私は『うれしいなあ。』と返しました。子どもが他所(よそ)へ行く道を選ばずに、家にいてくれて、私が取り組んでいる仕事を『私もしてみる。』と言ってくれるのはうれしいことです。玉津のミカン農家でも、子どもが戻ってきたという人はやはり元気です。」


参考文献
・ 吉田町『吉田町誌(下巻)』1976
・ 吉田町『合併三十周年記念写真集 なつかしの吉田』1984
・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 愛媛農林統計協会『吉田町の農林水産業』1992
・ 小林憲次『愛媛県真珠養殖の変遷』真珠新聞社 1995
・ 愛媛県漁業協同組合連合会『愛媛の漁業と県漁連50年史』2000
・ 愛媛県『目で見るえひめの水産業』2002
・ 吉田町『吉田町誌 昭和・平成30年の歩み』2005

写真3-2-6 かつて真珠漁場があった場所

写真3-2-6 かつて真珠漁場があった場所

令和2年8月撮影

写真3-2-12 ケシ

写真3-2-12 ケシ

令和2年11月撮影

図表3-2-2 愛媛県の真珠生産経営体数(宇和海)

図表3-2-2 愛媛県の真珠生産経営体数(宇和海)

愛媛県ホームページ『えひめの水産統計』から作成