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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 子どものころの記憶

  ア 子どものころの遊び

 「私(Bさん)が小学生のころには、缶蹴り、独楽(こま)回しやパッチン(メンコ)のほか、ネンガリといって、釘(くぎ)を投げて地面に立てる遊びをよくしていました。駅前の広場に集まってみんなで遊ぶことが多かったです。当時は子どもが多かったので、2組くらいに分かれて遊んでいました。先輩がそれぞれの組の司令塔となり、その司令塔の指示で集団になって遊んでいました。司令塔となった先輩たちがしっかりしていて、的確に指示をしてくれていたことを憶えています。また、肝試しも行いました。夜遅くに駅前広場から貴船神社まで行って、帰ってきます。帰り際に先輩から西滝寺の辺りで水を掛けられて、怖い思いをしたことを記憶しています。
 当時、小学校では学校給食がありませんでした。そのため、昼休みになるとみんなが家まで走って帰って食事をし、時間内にきちんと帰ってきていました。体育館がなかったので、休み時間には運動場で遊んでいました。縄跳び、綱引き、ドッジボールといった遊びをよくしていました。テレビなどがなかった時代で、子どもたちは本当に外でよく遊んでいました。」

 イ 大相撲巡業

 「私(Bさん)が小学生のころ(昭和27年〔1952年〕)、白滝で大相撲の巡業が行われ、鏡里、羽黒山の両横綱も来たことを憶えています。力士たちが白滝駅に着いたときには、駅のドアを通れなかったので、リヤカーなどの荷物を出し入れする所を開けて通ったそうです。巡業には50人くらいの力士たちが来ていたと思いますが、白滝の旅館だけでは足りなかったので、八多喜の旅館にも泊まったということです。
 巡業は白滝公園の入り口、現在は駐車場がある場所に土俵と観客席を設けて行われました。私も巡業を見に行きましたが、お相撲さんを見るのは初めてだったので、『何と大きな体だなあ』と思ったことを憶えています。特に、鏡里は大きな太鼓腹で、どっしりとしていました。羽黒山は柏戸によく似ていて、胸が細くて肩幅が広かったです。鏡里と羽黒山の両横綱による取組は、大変な大相撲となりました。取組後には花(祝儀)もたくさん飛んでいて、お金を投げたり、持って行ってあげたりしていたことを憶えています。そのころは娯楽の乏しい時代だったこともあり、大相撲の巡業のようなイベントは大きな規模で催されていました。
 白滝にも国体に出場したことのある相撲取りの方がいました。当時、その方が村会議員をされていたので、その方やいずみやさんが中心になって巡業を引っ張ってきたのではないかと思います。いずみやさんの2階の壁には、大相撲の巡業が行われたときの記念の盾が掛かっていたことを憶えています。」

 ウ 八多喜の祇園祭り

 「私(Bさん)が子どものころは八多喜にもよく行きました。八多喜の祇園神社では、2月の旧正月のころに祇園祭りというお祭りがあり、それを楽しみにしていました。家には車がなかったので、みんなで祇園神社まで歩いて行き、そこでお参りして御利益をいただいていました。祇園祭りのときにはいろいろな催しがあり、牛市も開かれていたと思います。八多喜には映画館もあって、若い人たちはそこでお酒を飲んだり、映画を観たりしていたことを憶えています。」

 エ 食べ物が不足していたころ

 「私(Bさん)が小さかったころには駄菓子などはあまりありませんでした。当時は養蚕が盛んで至る所に桑畑があり、生(な)っている桑の実をおやつとしてよく食べていました。桑の実を食べると口が紫色になるので、食べたことがみんなに分かってしまったことをよく憶えています。
 そのころは食べ物が不足していたので、一番上の姉は、おかずやおやつも自分の分を少なくして、弟や妹たちに分け与えてくれました。そのようなところが優しかったと思います。その当時は子どもながら、よく粗食に耐えたと思います。今思うと、そのころ粗食に耐えていたので、今でも元気な体になったのではないかと思います。」

 オ 肱川の恵み

 「私(Bさん)が小学校の高学年から中学生のころは、肱川でカニやエビを獲(と)っていました。ちょうど11月に入ると、川ガニがよく獲れました。ちょっとした網を作って、旅館でもらった魚の頭を網に縛り、それを川に仕掛けます。明るいうちは獲れないので、闇夜に仕掛けた網を釣り上げると、カニがたくさん入っていました。釣り上げたカニはいずみやさんや藤田屋さんに引き取ってもらい、代金を受け取っていました。当時はそのお金を小遣いにすることを楽しみにしていました。カニを1匹いくらで引き取ってもらっていたかはよく憶えていませんが、カニには雄と雌があり、雌の方が高値で引き取ってもらっていました。雌はアオコ(卵巣)を持っているので、味が雄とは全く違います。カニは美味(おい)しいので、旅館でもお客さんからの注文が多かったそうです。しかし、カニには寄生虫が付着しており、中途半端にゆでたものを食べると肺ジストマ症になることもあるため、完全に真っ赤になるまでゆでなければなりません。宴会などでカニは高値で出されるため、旅館でもとても気を付けていたそうです。
 肱川がきれいだった時代、川ではぎおんぼもよく獲っていました。ぎおんぼはイリコよりも小さな白い魚で、満ち潮のときに群れになってやって来ていました。石で堤防のようなものを作り、1か所だけ通り道を開けます。すると、開けた所にぎおんぼの群れが入ってくるので、そこを狙って網ですくい獲りました。それがおかずになっていましたが、とても美味しかったことを憶えています。真っ黒な大きな群れになっていっぱい来ていましたが、ここ何十年と見ていません。鹿野川ダムが昭和34年(1959年)に完成しましたが、その影響もあるのかもしれません。
 また、エビも獲りました。ヤス鉄砲というエビを獲る道具があり、器用な人が作ってくれたことを憶えています。ヤス鉄砲は先がとがっていて、ばねではじくと勢いよく飛び出します。それを持って川に潜り、エビを獲っていました。アユもとても多かったことを憶えています。ウナギはじんどうという道具を使って獲っていました。じんどうは恐らく『人道』と書くのだと思いますが、竹細工の職人の方が作っていました。竹を編んだ籠になっていて、中に入ってしまうと出られなくなるという構造をしていました。夜に1mくらいの長さのものを川の流れに沿って仕掛けて、そこに石を置いておき、朝になると回収に行きました。そこにウナギが入っているのを見つけたときは、とてもうれしかったことを憶えています。籠の中にはウナギのほかにウミヘビが入っていることもありました。当時は食べ物が不足していたので、いろいろと考えて調達していたのです。」

 カ 稼いだお金で食べ物を買う

 「他にも私(Bさん)の子どものころは古鉄を集める人がいました。その娘さんが私の同級生だったのですが、そのお父さんはとても優しい人で、『鉄類だったら何でもいいから持ってきなさい。』と言ってくれました。鉄類を持っていくと5円や10円を駄賃としてくれたので、私たちは川で鉄板などを拾って持っていっていました。そこでもらったお金を持って駄菓子屋さんでキャンディーやくずし(魚肉練り製品)を買って食べていたことを憶えています。その当時はいろいろなものが小遣いになっていました。」

 キ 肱川の記憶

 「白滝と柴の間の肱川にはかつては橋がありませんでした。白滝公民館から少し南東へ行った所に山崎と呼ばれている所がありますが、そこで舟を2艘(そう)浮かべて、その上に板を渡して渡っていたことを私(Aさん)は憶えています。水量が多くなると、板を外して舟が流されないようにしていました。昭和26年(1951年)、山崎に沈下橋として白滝橋が造られましたが、そこから少し下流にもう一つ沈下橋がありました。平成13年(2001年)に二つの橋を統合した白滝大橋ができたのです。
 白滝橋ができるまで、柴の人は山崎で肱川を渡ってきていました。また、戒川の人は、今のような車で通ることのできる林道がなかったので、滝よりさらに上流の方を通って、白滝の町へ下りて来ていました。白滝の町はその辺りの人々がやって来る中心地だったのです。そのため、養蚕が盛んだったころには、白滝に製糸工場があったのだと思います。今の踏切がある所に繭を乾燥するための乾繭倉庫があったことを憶えています。その後、戒川も林道ができて車で通行できるようになりましたが、橋と道路ができて人の流れも変わってしまいました。」
 「板を渡していた時代より後になると思いますが、山崎には船頭さんがいて、舟を漕(こ)いで向こう岸へ渡っていたことを私(Bさん)は憶えています。川の流れに沿って、少々川の流れが早くても渡っていて、上手でした。小学生のころまでは、肱川で帆掛け船が使われていた記憶があります。」

 ク 交通の変化

 「私(Bさん)が小さいころの道路は悪路で、まだ舗装もされていませんでした。そのころには馬車が通っていたことを憶えています。馬での配達を扱う店もあって、馬がいろいろな荷物を運んでいました。当時、消防車などはなかったので、火事のときには手押しポンプで消火を行っていました。私も小学校の高学年のときに、大人と一緒に手押しポンプで消火に行ったことを憶えています。小学校の低学年のころ、白滝には車が1台ありました。その車は大きな木炭車で、手動でエンジンを掛けていたことを憶えています。
 それからだんだんと車も増えてきました。昭和30年代の後半に新しい県道ができるまでは、町中の細い道を大きな車が通行していました。道が細くて車の離合が容易ではなかったので、対向車同士で『お前が下がれ。』とよく喧嘩(けんか)になっていました。そのため、一宮工務店の前辺りの道路に基準線が引かれることになり、その線よりも手前の車がバックするということに決まったのです。そのため、自分の車が基準線を越えているのに、相手の車がバックしなかった場合には、『お前が下がれ。』と言って、わざと弁当を取り出して食べ始めたという人も中にはいたそうです。そのほかにも『下がれ、下がれ。』と言って、一方の車が無理に突っ込んだため、バックすることも離合することもできなくなったということもありました。」

(2) 戦時中の経験

 「私(Aさん)が小学生のときだったので、まだ戦時中のことですが、小学校には奉安殿という建物がありました。奉安殿には御真影があり、毎朝登校すると奉安殿で最敬礼をして、帰るときにはまた最敬礼をして帰っていました。今の小学校跡への登り坂の右側に講堂があり、そこで学芸会などいろいろな行事が行われていました。国家的行事が行われるときには、校長先生が御真影を持ってきて最敬礼をしていたことを憶えています。徴兵された兵士が出征するときには、学校で壮行会を行った後、みんなで貴船神社へ行って兵士の祈禱(きとう)を行い、それから駅へ見送りに行って、『万歳、万歳。』と送り出したことを今でも憶えています(写真1-2-17参照)。
 小学校を卒業すると、旧制大洲中学校(現愛媛県立大洲高等学校)に進学しましたが、当時はまだ戦時中でした。朝、駅に行くと空襲警報が鳴ったので家に帰り、空襲警報が解除されると、また駅に行くということもありました。今考えると、そのころはひどい時代でした。戦時中は学校へ行っても勉強をしません。手箕(てみ)や鍬(くわ)を持って学校に行って、開墾をしていました。今の大洲自動車教習所の近くの山へ行って開墾をしていたことを憶えています。
 戦時中の汽車は、石炭以外のものも燃料としていたので馬力が不足していました。そのため、汽車で通学していたときに、五郎へ行くまでの坂を汽車が登り切れなかったこともありました。毎日足にゲートルを巻いて通学していて、大洲駅から学校までは上級生と一緒に駆け足でした。運動場での朝礼のとき、校長先生が挨拶をしているとグラマンが飛んできたので、走って逃げたことが一度あったことを憶えています。戦後は汽車に乗ろうと思っても、戦地から帰ってくる人や買い出しに行く人であふれていて、客車に乗ることはできませんでした。当時の汽車は乗降口の戸が閉まらなかったので、デッキの両端を持ってぶら下がったり、どうしてもデッキにぶら下がることができないときには機関車の方に乗せてもらったりしたこともありました。今考えると、非常に危険なことをしていたと思いますが、当時の列車は今の列車ほどにはスピードが出ていなかったためにできたことなのかもしれません。帰りは大洲駅から汽車に乗りましたが、車両の中の方にいると駅に着いても降りられないので、よく窓から飛び降りていました。
 今は山林には木が育っていますが、その当時はどこも開墾して畑にしていました。農家にはあったかもしれませんが、ほとんどの家では食料が不足していたので、みんなが買い出しに行っていました。イモの茎なども食べていたことを憶えていますが、そのような時代でした。」
 「昭和20年(1945年)には大洪水のため水に浸(つ)かったことを私(Bさん)は憶えています。また、その年は空襲警報が大きな音で鳴っているのが聞こえ、そのたびに『敵機が来たぞ、早く隠れよ。』と言われて、掘っていた地下の防空壕(ごう)に隠れていました。空襲に備えた訓練もよく行われていて、地域の世話役の方が、『空襲警報だ。絶対に電気を消して隠れなさい。』と叫んで回っていたことを憶えています。」

(3) 水害の記憶

 ア 昭和18年の水害

 「昭和20年(1945年)にも水害がありましたが、私(Aさん)は昭和18年(1943年)の水害のことをよく憶えています(写真1-2-18参照)。そのとき、私は小学5年生でしたが、水害はすさまじいものでした。そのころは戦時中だったので山を開墾してサツマイモ畑を作っていたため、山には木がありませんでした。この辺りでは、飛行機の燃料にする松根油を採るため、松の根がたくさん積み上げられていましたが、それらが全て流されてしまったのです。そのとき、この辺りを流れている滝川が全て砂利で埋まってしまいました。その後、雨が降ると家の裏から床下を通って玄関まで水が出ていました。道路の高さが今よりも低かったため、砂利で埋まった滝川沿いの道路の上を川が流れるという状態でした。そのため、砂利をせき止めるための堤防を上流に造りましたが、そのときには多くの人たちが溜(た)まった砂利を運んでいたことを憶えています。
 私の家も床下が泥で埋まってしまいました。若い人たちは戦地に行っていたので、山間部の人に無理を言って、床下の泥をもっこで運んでもらったことを憶えています。そのころは町の中もかなり砂利で埋まってしまっていて、私は1か月くらい、危険を感じて家の2階で生活していました。その洪水で避難していたときに見た光景を、私は忘れることができません。少し高い場所に避難して肱川を見ていたとき、川の中を家が流されていて、その茅葺きの屋根の上に人が乗って手を振っていたのです。そのころ、滝川の両側には白滝公園へ行く道がありましたが、水害ですっかり変わってしまいました。」

 イ 木材を拾う

 「昭和29年(1954年)の洪水のときだったと思いますが、私(Bさん)は船ごと流されてきた人が、助けを求めて手を振っているのを見たことがありました。その船は沈下橋にぶつかりひっくり返ってしまいました。当時は今のような堤防がなかったので、水に浸かると川がものすごく広がっていました。
 洪水の後には、父に言われて木材を拾いに行っていました。当時はどの家庭でも灯油やガスを使っていなかったので、拾ってきた木材を乾燥させ、燃料として利用していました。料理は竈(かまど)で行っていて、お風呂も大きな丸い五右衛門風呂だったので、焚(た)き物が必要だったのです。桑の枝は、火を点(つ)けるとすぐに燃え始めるので、焚き付けに向いていて重宝されていましたが、それらも全て流れてきていました。それらの木材にかんころ(とび口)という先がとがった道具を突き立てて、全て引き上げていました。拾った木材は乾燥させてからリヤカーに積み、家に持って帰っていました。洪水のときだけでなく、大雨などで川が増水したときにも流れてきた木材を川から引き上げ、持って帰っていました。子どものころは体もよく動いていたので、そのようなことを危険だとは思いませんでした。」


参考文献
・ 長浜町『長浜町誌』1975
・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 長浜町『ながはま風土記 第7巻 白滝地区』2005

写真1-2-17 貴船神社

写真1-2-17 貴船神社

令和2年12月撮影

写真1-2-18 白滝出水標

写真1-2-18 白滝出水標

令和2年12月撮影