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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業19ー大洲市①―(令和2年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 蚕糸業と人々のくらし

 近代に入ると、大洲地方は養蚕業、製糸業を中心に大きく発展することとなった。養蚕業は、江戸時代後期に肱川流域で始まったとされるが、本格的に大洲地方で養蚕業が盛んになるのは明治時代以降のことである。明治 15 年(1882年)に喜多郡長となった下井小太郎は、郡の勧業資金をもって優良桑苗を郡内各町村の農家に無償配布し、養蚕業を積極的に奨励したため急速に発展した。下井が養蚕業に注目したのは桑木が洪水に強く、洪水の多い大洲地方にとっては最適な産業となると考えたからであった。菅田(すげた)、大洲、五郎(ごろう)、三善(みよし)などの各村の肱川沿岸の自然堤防が桑畑として利用され、大正時代には第一次世界大戦による好況の波に乗って桑園面積が急増し、養蚕は大洲地方の主幹作目としての地位を占めた。製糸業については、明治 20年代に大洲で初めてとなる製糸工場が建設されると、大正 11 年(1922年)までには小さな町内に大小9か所もの製糸工場が設置され、大洲は本県を代表する一大製糸工場の町となった。明治から昭和にかけて、大洲地方には今岡製糸などの大製糸(機械製糸)と、小製糸(座繰製糸)が多数存在していた。しかし、大正末期ころからの化学繊維の普及に加え、世界的な不況も重なり、その後、大洲地方の養蚕・製糸業は衰退の一途をたどった。
 戦後も食糧不足と海外市場の空白のために養蚕業の停滞は続いたが、昭和30年代の高度経済成長に伴う消費の拡大は、再び養蚕への関心を高めた。条桑育(桑を枝のままで蚕に与えて飼育すること)をはじめ機械化養蚕、多回育、稚蚕人工飼料育など技術進歩は目覚ましく、省力化・合理化も著しく進み、昭和50年(1975年)からは国営農地開発事業による団地造成が図られ、主産地形成が進められた。そのような中で、衰退していた製糸業も活気を取り戻し、設備面では昭和30年(1955年)ころから従来の座繰機に替わり多条繰糸機が導入され、昭和35年(1960年)ころには自動繰糸機に改善された。また、「伊予生糸」の発祥地とされる大洲地方の蚕糸振興を図るため、昭和49年(1974年)、将来は組合製糸に改組することを前提に、養蚕(喜多養蚕連)と製糸(今岡、桝田両製糸会社)を一体化した伊予生糸株式会社が設立された。昭和53年(1978年)には、生産から加工販売に至る一貫体系を確立し農業経営の安定と農家所得の増大を図るため、伊予蚕糸農協連合会と組織を改め、昭和55年(1980年)には国の農業構造改善事業の適用を受けて新工場が建設された。しかし、その後、一時期生糸価格が復調することもあったが、蚕糸業全般の大勢としては、国内生糸需要が減退する中で生糸・絹織物などの輸入攻勢が続き、生糸価格が低迷して製糸経営の不振が続いた。このような蚕糸業界の不振を乗り越えるべく、昭和62年(1987年)には県養蚕農協連合会と県内蚕糸農協が合併した際、伊予蚕糸農協連合会も参加し、製糸工場は県蚕糸農協連合会の大洲工場として操業することになった。しかし、国内の蚕糸業低迷の波には逆らえず、平成6年(1994年)、他の組合工場とともに大洲工場は閉鎖された。また、当地方にわずかに残っていた個人経営の製糸工場も平成の初めころには姿を消した。
 本節では、大洲地方における養蚕・製糸業と人々のくらしについて、Aさん(昭和8年生まれ)、Bさん(昭和17年生まれ)、Cさん(平成7年生まれ)、Dさんから話を聞いた。