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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業20 ― 大洲市② ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 北平のくらし

 ア 炭焼き

 「私(Aさん)がこちらへ帰ってきたとき、この辺りのほとんどの家庭で燃料は木炭からガスに替わっていましたが、子どものころは家で炭焼きをしていたことを憶えています。中学生のころは随分手伝っていて、父と一緒に炭窯を造ったこともあります。切った木は負い子でかるうた(背負った)こともありましたが、だいたいは山の上の方から斜面を利用して落とし、集材しやすい地点に炭窯を造っていました。この辺りの山で採れる土は粘土質で、炭窯を造るのに適していたと思います。炭焼きの場合、原木に適していない木はそれほどなく、河辺の山林で切った木を原木として黒炭を焼いていました。子どものころには、他所(よそ)からこちらへ炭焼きに来ていた人がいたことを憶えています。
 火入れとは、炭を焼くために炭窯の焚(た)き口に火を入れる作業で、それは子どもの仕事でした。炭窯の温度が上がるまで、火入れをしてから丸一日は火を焚き続けなければなりませんでした。それからは白い煙が出始めて、2、3日後には青みを帯びた煙が出るようになり、最後には煙は透明に変わります。焼いていた木炭の量はそれほど多くはありませんでしたが、そのような煙の変化を観察しながら、木炭の焼け具合を判断していたことを憶えています。炭焼きやミツマタ・シイタケの栽培はいずれも山を作るための仕事です。炭焼きの原木となる雑木を切り倒した跡地に、スギやヒノキの苗木を植えていました。ミツマタ・シイタケの栽培は、植林した木がお金になるまでの現金収入として行っていました。
 焼いた木炭は炭俵に入れて出していました。私は炭俵を編んだことはありませんが、両親は冬場の副業として炭俵を編んでいました。刈ってきたカヤで俵を編んでいて、俵の上下には、藁で作った蓋をしていました。木炭は河辺村森林組合に出していて、森林組合から私の家まで車で木炭を積みに来てくれていたと思います。木炭には規格が定められており、県の林業課から来た検査員の方が検査を行っていました。木炭は原木によってカシ・クヌギ、雑に分類されていました。カシ・クヌギを原木とする木炭が最も品質が良いとされていて、ナラを原木とする木炭はそれよりも品質の劣る雑に分類されていました。木炭の検査では、カシ・クヌギを原木とする木炭と雑の木炭が一緒に入っていないか調べていたのではないかと思います。また、原木にわずかでも炭になっていない部分が残っていた場合、そこに火が付くと煙が出るため、そうしたことも検査の対象だったのではないかと思います。」
 「各家庭にガスが普及するまでは、燃料として木炭を使用していました。私(Bさん)の家では雑木の山林を所有していたので、自分の家で燃料として使うために炭焼きをしていました。小学生のころ、私の家の持ち山で炭を焼かせてほしいという人が何人も訪ねて来ました。川崎辺りの方が来て、山中の小屋に寝泊まりしながら炭焼きをされていたことを憶えています。炭焼きに来ていた方が雑木を切り払った跡地へ、父はスギ、ヒノキの植林をしていました。
 私が若いころには、家で七輪のほか、冬場には木炭を利用した掘りごたつのような暖房設備を使っていたので、炭焼きをしていました。そのころ家庭用燃料はすでにプロパンガスに替わっていましたが、ガス代を節約するために木炭も使っていたのだと思います。」

 イ 買い物

 「今は用の山集落にお店はありませんが、父が子どものころにはお店があったそうです。また、今は神納集落に活性化センター(大洲市河辺地域活性化センター)がありますが、私(Aさん)が子どものころ、その近くに山岡商店という生活雑貨などを販売していた大きなお店がありました(写真3-2-8参照)。当時、そのお店の方がときどき歩いてこちらへ食料品や衣料品の販売に来ていて、随分後には車で販売に来るようになりました。この辺りは河辺の中でも小田(おだ)(現内子(うちこ)町)に近いこともあって、私が子どものころ、父が正月の買い物をするために小田の方へ行っていたことを憶えています。徒歩で片道2時間くらいかかっていましたが、当時は歩くことをそれほど苦にしていなかったのでしょう。
 また、私が子どものころには、各地を回りながら、注文を受けると泊まり込みで木桶(きおけ)や米櫃(こめびつ)などの製作・修理を行い、仕事が終わると次の場所へ移動していた職人さんがいたことを憶えています。」
 「私(Bさん)が小学生のころ、今の活性化センターの近くに山岡商店があり、醬油(しょうゆ)や味噌(みそ)、缶詰のほかに、天ぷらやくずしなども売っていたので、主にそこで買い物をしていました。正月三が日には、近くの集落の方が縁起物を売るために、各戸を歩いて回っていました。また、山岡商店の下(しも)側には鮮魚店があり、歩いてこちらへ行商に来ていました。そのころ生魚を食べたことはあまりありませんが、鯨の肉はよく買って食べていました。鮮魚店の方は、ずっと後になって車で行商に来るようになりました。また、小学生のころ、夏になるとアイスキャンデーを売り歩く方がいました。自転車の荷台にアイスキャンデーの入った小さな木箱を積み、1本5円か10円くらいで販売していたと思います。」

 ウ 映画の思い出

 「私(Aさん)が中学生のころまでは、山岡商店の地下で映画が上映されていました。当時はその辺りに映画を誘致する方がいたので、映画を観(み)ることができていました。映画が上映されていたのは、大人が立ち上がると頭がつかえるような天井の低い場所でした。そこでは夏にはよく蚊に刺され、冬はとても寒かったことを憶えています。中学生のころまではそこで何回か映画を観ていました。私が23歳でこちらへ帰ってきたときには、家にテレビが入っていました。高校生のころにはまだテレビは入っていなかったので、高校を卒業してからこちらへ戻ってくるまでの5年の間に入ったのだと思います。昭和40年代にはこの辺りで映画が上映されることはなくなっていました。」
 「私(Bさん)が小学校低学年のころ、秋知川の中の島のような場所に劇場がありました。美空ひばりや小林旭が主演の映画が上映されたことがあり、それを観に行ったことを憶えています。そこには舞台があり、旅回りの一座による芝居を観たこともありました。芝居の当日、ちんどん屋さんが太鼓のようなものを叩(たた)きながら集落を回って宣伝していました。芝居はおそらく5日から1週間くらい続いていたと思いますが、その間、一座で芝居をしている子どもたちが、私と同じ小学校(河辺村立北平小学校)に通学していたことを憶えています。」

 エ 自動車の購入

 「私(Aさん)がこちらへ帰ってきて、昭和43年(1968年)ころに中古車ではありましたが自家用車を買うことができました。そのころは娯楽といえば村外へ出掛けることくらいで、大洲や松山へも出掛けていました。国道56号が改良途中だったころは、土ぼこりの旧犬寄峠を通って松山へ行っていたことを憶えています。」
 「父は昭和38年(1963年)に松山の教習所に通って運転免許を取得し、中古の普通乗用車を購入しました。その年は三八豪雪と呼ばれる記録的な豪雪があり、県内でも大野ヶ原(現西予(せいよ)市)の方では大雪のために孤立し、自衛隊機が救援物資を空輸したという出来事がありました。この辺りでも2mくらいの積雪があり、2階から家に出入りしていたことを憶えています。
 父が車を購入したのは河辺村でもかなり早い方で、そのころから少しずつ車が普及し始めたように思います。当時は木材が人々の生活を支えていた時代で、非常に高価なものでした。1人雇って仕事をしてもらっても、かたげる(肩に担う)くらいの小さな木を売れば、その人の1日の日当を払うことができました。
 また、私(Bさん)がまだ幼いころの話ですが、2、3人を泊まり込みで雇い、田んぼを耕してもらったときの1人当たりの日当が200円くらいだったと思います。誰かが『日役(日当)を5円上げるか。』という話をしているのを聞いていたことをおぼろげに憶えています。」

(2) 村の行事

 ア 正月の風習
 「子どものころ、正月には『かどあけ』といって、隣の家や近所の家に挨拶に行っていました。私(Bさん)が『おめでとうございます。かどあけに来たぜ。』と言うと、『よく来てくれたな。』と言って50円くらいのお金をもらったことを憶えています。『かどあけ』の『かど』というのは家を指す言葉です。年の初めに男の子が家に来て声を掛けてくれると厄払いになるということだったのかは分かりませんが、縁起が良いとされていました。また、1月16日にはそれぞれの集落で鬼の金剛草履を作っていました。鬼の金剛草履とは藁で作った大きな草履で、それを集落の入り口の路上に吊り下げていました。その草履にお供え物として小豆御飯や煮干しなどを一緒に吊るしていました。鬼の金剛草履を作る行事は昔からずっと続いていましたが、20年くらい前にやめてしまいました。」

 イ 天神社の秋祭り

 「私(Bさん)たちの集落の氏神は神納の天神社で、御幸の橋の近くにあります(写真3-2-10参照)。私が子どものころ、天神社の秋祭りには出店が出ていて、子どもたちはみんな、親からお小遣いをもらって出店へ買い物に行っていたことを憶えています。秋祭りは今でも行われていますが、神輿(みこし)のかき手がいなくなったため、車の荷台に神輿を積んで各集落を回るようになっています。
 また、以前は天神社の秋祭りのときには、神社で巫女(みこ)による舞が奉納されていて、この辺りの女の子が巫女役を務めていました。今は河辺小学校の全児童でも4人に減ってしまったため、巫女役を務める女の子がいなくなってしまいました。」


参考文献
・ 河辺村『河辺村誌』1978
・ 愛媛県『愛媛県史 民俗上』1983
・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済2 農林水産』1985
・ 河辺村『河辺村勢要覧 1987年版』1987
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 河辺村公民館『かわべ 第120号』1997
・ 河辺村『新刊河辺村誌』2005
・ 大洲市議会『おおず市議会だより No.32』2012

写真3-2-8 大洲市河辺地域活性化センター

写真3-2-8 大洲市河辺地域活性化センター

令和3年9月撮影

写真3-2-10 天神社

写真3-2-10 天神社

令和3年9月撮影