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遍路のこころ(平成14年度)

(1)接待②

 イ 接待の分類

 (ア)接待者による分類

 接待は、それを行う接待者の違いや接待を行う動機の違いなどによって、幾つかのパターンに分類することができる。まずここでは、接待者の違いによる分類から見ていきたい。
 この観点から、前田卓氏は接待を三つに分類した。その第1は個人が銘々に行う個人接待、第2は各霊場近くに住む村人たちが集団で行う接待、そして第3は四国以外の人々が船に接待品を積み込んで団体で四国の霊場にやってくる接待講である(㉛)。
 前田氏はさらに、第1の個人接待については、自宅が遍路道沿いにあって家の前を通る遍路に接待する場合と霊場の境内などで接待する場合に細分化した。前者は、遍路道沿いの人が沿道に出て通行する遍路に声をかけて接待品を渡したり、あるいは家の戸口に米や麦・大豆などを入れた「勧進(かんじん)箱」を置き、遍路が来れば一握りずつ取らせるようにしたものである。後者は、日を決めて出向いて遍路に接待品を手渡す接待である。
 第2の各霊場近くに住む村人たちが集団で行う接待も、同じく日取りや時間、場所を決めて出向いて行う接待だが、前田氏の調査によると、こういう形態の接待について最も古い例は享保年間(1716年~1736年)であり、さらに四国全体で広く行われるようになるのは宝暦(1751年~1764年)・明和(1764年~1772年)の時代ではなかろうかと推測している。
 第3の接待講とは、四国遍路への接待を行うことを主な目的として結成された集団である。四国以外の人々による接待講の代表例として前田氏は、紀州(紀伊、主として現在の和歌山県)からやって来る三つの接待講をあげている。すなわち徳島県の一番霊山寺で接待を行う有田接待講と野上施待講、同じく徳島県の二十三番薬王寺で接待を行う紀州接待講であり、江戸時代に始まるこれらの接待講の活動は現在まで脈々と受け継がれている。その詳細については、「接待講の活動」の項目で後述する。
 一方、新城常三氏も江戸時代の接待者について、接待者の居住地域の違いに注目して前田氏と類似の分類を行った。すなわち、第1に遍路道の沿道関係者による接待、第2に沿道から隔たった所に住む人々による接待、第3に四国外の人々による接待の3分類である(㉜)。そして、第1の接待が「いわば常時的であり、その量も一般に大」であるのに対し、第2の接待は「多く一定日に限られ、その量も限定され、地理的制約から宿泊や労働は一般に見られず、物品の供与に限られる」として、「沿道民と沿道以外の人々の接待並びに援助は、質量共に異なり、その差は大きく、同視できない。」と述べている。さらに、これら接待者の広がりについて、「遍路に対する接待者は、単に四国路沿道の点ないし線の人々に留まらず、沿道より奥の人々から、さらに四国外へと線からさらに広い面へと拡大した(㉝)」と指摘するのである。
 新城氏は、接待者としての寺院や藩権力にも言及している。少数の例ながら、寺院による接待としては、寛政12年(1800年)に伊予の五十二番太山寺が、納経する遍路に対して白米一合ずつを配ったことをあげている。また藩権力については遍路やその接待に対してむしろ批判的な場合が多いものの、病気遍路に対する若干の福祉対策も見られるとしている(㉞)。
 以上の接待者に加えて、白井加寿志氏は、遍路相互の接待や遍路経験者による個人接待の存在を指摘する(㉟)。遍路相互の接待とは、遍路たちが、もらった接待品や所持する煙草(たばこ)などをお互いに勧めあうことである。また、遍路を経験した者が今度は接待者側にまわった例として、江戸時代では、納経帳と服薬を5万人に施すなどしたという大坂の橘義陳、昭和(戦前)では、1万人に手拭(てぬぐい)1万袋の接待をしたという東京の安田寛明、接待によって貯めた1万円の一部で香川県の七十二番曼荼羅寺の茶堂を改築し、そこでお返しの接待を続けた兵庫県出身の信部長蔵などがあげられる。さらに付け加えると、「逆接待」といって遍路が子供たちの求めに応じて煎(い)り豆などを与えることもあった(㊱)。
 藤沢真理子氏が行った平成3年の接待調査によると、現代の接待者としては「地区グループ」が最も多く、続いて「個人」、「接待講」という順位になっている。さらに数は少ないながらも「ご詠歌のグループ」・「その他のグループ(アマチュア無線やヨガのグループなど)」・「寺院」などもあがっており、アマチュア無線やヨガのグループといった遍路とは直接関係のない人々が接待者となっているのが現代的な特徴といえるだろう(㊲)。

 (イ)接待の動機による分類

   a 接待の動機

 次に、接待を行う動機の違いに注目して分類を行いたい(㊳)。
 第1にあげられる動機は、四国に広く見られる弘法大師信仰である。その代表的なものは、遍路を弘法大師と見なして、遍路への接待はすなわち弘法大師への接待だとする考え方であり、接待を行う動機としてこれが最も社会に流布している。接待を行った代償として遍路からもらう納札がお守りとなると先に述べたが、遍路は姿を変えた弘法大師だと考えるならば、その納札にも「さまざまな奇跡を生んだ、民衆にとっての弘法大師のイメージが鮮明にオーバーラップしている」(星野英紀氏)から霊力が宿っているという見方もできるのである(㊴)。
 第2は、接待は先祖の供養のためとする考え方で、この場合の接待日は縁者の命日や法要日ということになる。森正史氏は、接待の「習俗の根底には死者供養とか弘法大師に対する信仰的基盤のあることが注目される。」と述べ、さらに個人による接待の場合、「その動機は、死者への供養が最も普通である。(㊵)」として、第1の動機以上に先祖供養の動機を重視している。
 第3は、自分白身が様々な事情から遍路に出られないため、通りがかりの遍路を自分の代参人と見立てて接待をするという場合である。四国の人々は、一番近い霊場から始めるのならばいつでも遍路に旅立てるはずであるが、実際には様々な事情があってなかなか実行できないのが現実である。山本和加子氏によると、そういったところから、接待すれば接待を受けた遍路が自分の身代りとなって巡拝してくれる、という考え方が四国の人々の間に生まれたという(㊶)。
 第4は、難行苦行する遍路に対する同情心から、遍路の慰労として接待を行うという場合である。四国の人々は八十八ヶ所の全行程を何十日もかけて徒歩で巡拝する遍路を憐(あわ)れみ、少しでもその苦しみを癒(いや)すために接待を始めたというのである。
 第5は、自分がかつて遍路をした際に各地で受けた接待に感謝し、その返礼として接待を行う場合である。戦前までの松山北部地域には、「若者遍路」といわれる一種の成人儀礼(通過儀礼)としての遍路があった。彼らは遍路から帰還すると、自分たちが遍路中に受けた接待のお返しとして地元で接待を行ったが、この「接待がえし」の風習は第5の動機に基づく接待例としてあげることができる。
 藤沢真理子氏が平成3年に、各札所の主として納経所で働く人々に対して現代の接待の動機について聞き取り調査を行い、その結果には今までにあげた動機がいずれも含まれており、やはり「弘法大師への信仰」が最も高い数字を示している。「願かけや願がかなったお礼」も、弘法大師信仰ときわめて密接にかかわるものと推定できる。注目されるのは、「地区活動として」という動機である。これは、昔からの地区の行事としてその慣習がずっと続いている、あるいは中断していたのを村おこし的効果を期待して再開したなどのケースであり、先にあげた第1~第5の動機とは別のものだといえる。また、下位に3.0%ながら「人に奉仕するため」という動機があがっており、これは人に奉仕して喜んでもらうこと自体が自分もうれしいからという、いわばボランティア的意識だと思われる。きわめて現代的な接待の動機として注目されるが、この点については「地域の人々による接待」の項目で後述したい。

   b 接待の見返り

 遍路を弘法大師とする見方に代表される、弘法大師信仰に基づく接待の第1の動機について、今少し検討を加えてみたい。
 前田卓氏は、弘法大師信仰の根底に接待者と遍路の「ギブ・アンド・テイクの関係」を見ている。つまり接待者は、遍路に接待を行う(ギブ)ことによってお守りとしての納札をもらい、招福という現世的利益を得よう(テイク)とする。前田氏はこの事から、「接待は必らずしも無償の行為ではなく、お大師さんからの返礼-御利益-を期待している行為」だと指摘するのである(㊷)。この点について谷口廣之氏も、「接待は遍路に対する一方的な奉仕としてばかりあるのではなく、接待する側にも、接待することによって得ることのできる何ものかへの期待があることもたしかである。(㊸)」とし、小嶋博巳氏は、「接待や善根宿など、遍路に対する四国の人々の厚いもてなしも、意識する、しないにかかわらず、遍路を介して大師の霊力にあずかろうとする行為であると捉えることもできる。(㊹)」と述べている。全般的に前田氏と同様に考えている研究者が多いようである。
 古い文献を見ると、すでに元禄3年(1690年)の真念の『四国徧礼功徳記』に「遍礼人をあしくすれば、忽ばちあたり、崇敬しける人は、さいはひあり。(中略)こヽろある人ハ、遍礼をゝろそかにせず。近年分別して善を修する人おほし。(㊺)」とあり、遍路に善根を施すと幸せが来るとしている。また昭和6年(1931年)の安田寛明の、「長生(ながい)きしよふと思(おも)ふ人(ひと)は一度(いちど)でも多(おほ)く人(ひと)に接待(ほどこし)するに勉(つと)むること(㊻)」という言葉も、接待の御利益としての長寿を説いたものである。
 なお星野英紀氏は、遍路を弘法大師とする見方に関連して、接待する側も弘法大師と見なされる場合があることを指摘しており、その例として有田接待講を取り上げている。例えば、かつて有田接待講を漁船で無料輸送した漁民たちは、接待講の人々を、大漁という超自然的恩恵をもたらす存在として処遇し酒肴(さかな)を振る舞った。また、遍路が接待講の人々から接待品を受け取った際に謝礼の意味として行う儀礼的行為(大師宝号などを唱える。)は、札所の本尊や大師像に対して行う儀礼的行為と本質的に同一である。こういった点から判断すると、漁民や遍路は接待者を弘法大師と見なしたと考えることも可能かもしれないというのである(㊼)。
 遍路のみならず接待者も弘法大師と見なすという考えは、安田寛明の、「御接待(おせつたい)をなさるゝ人々(ひとびと)は、弘法大師(こうばふだいし)さまに御供(おそな)へするものと思(おも)ひ、亦(また)この御接待(おせつたい)を受(う)くるものも、弘法大師(こうばふだいし)さまより受(う)くるものと思(おも)ひ(㊽)」という言葉にも表れている。また藤井洋一氏は、「『お接待はお大師さんがくださるもの』それを拒めば罰があたると教えられた」という年配の遍路経験者の話を紹介しており(㊾)、現代においても、ある歩き遍路は「さりげない素直な一期一会があるんですよ。励ましとか、物とか、声掛けてくれるとかね。(中略)みなさん全部が自分にとってはお大師さんやと思ってね。(㊿)」と語っている。