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遍路のこころ(平成14年度)

(2)接待の変遷①

 ア 接待の起源

 (ア)巡礼への援助

 接待の起源について民俗学的視点から見た場合、「マレビト」説に代表される外来者歓待の習俗をあげることができる。「マレビト」説とは、閉鎖された村落共同体の中で生活する村人にとって、そこを訪れる外来者、特に僧侶や修験者といった宗教者は異郷からのマレビト=客神であり、マレビトは歓待されることによって村落を祝福し、逆に冷遇されると村落に災厄をもたらすという考え方である(①)。谷原博信氏は接待という善根行為について、「遠来の神をもてなすことによって、祝福を受けるという思想がこのような形で今日まで残っているものと思われる。(②)」と述べている。このように、村人による遍路を含む宗教者への援助の系譜を、古代(平安時代以前)以来の外来者歓待の習俗に求めるのが一つの有力な見方である。
 一方、新城常三氏は社寺参詣史研究の立場から接待の起源を論じており、それを要約すると次のようになる(③)。中世(鎌倉・室町時代)の社寺参詣について見ると、僧侶・修験者などの宗教者がその主体であり、このころから様々な人々によって経済的援助がなされていた。例えば宗教者のための施設として、宿泊も可能な休憩所としての「接待所」が設置されている。湯茶が施されたという「接待所」について、文献に見える最古の例としては、永仁4年(1296年)の遠江(とおとうみ)菊河宿(現静岡県金屋(かなや)町)のものがあげられる。
 また俗人であっても、その旅人が社寺への参拝者である場合は宗教者と類似した敬意が払われており、しかも一社一寺に詣でる参詣者よりは、多くの社寺を巡る巡礼の方がより積極的な援助を受けることができた。巡礼者に対しては食物・宿泊の援助だけでなく、延徳2年(1490年)に京都北野社が京都の出入り口に設けた関所の通行料を無料とし、天正14年(1586年)には戦国大名の毛利氏が領国河川の渡舟賃を無料にするなど、様々な優遇措置がとられていたのである。
 さらに新城氏は、延徳(1489年~1492年)・明応(1492年~1501年)ころの『天陰語録』に見える西国三十三か所巡礼についての「関史識リテ之ヲ征セズ、舟師燐ンデ、之ヲ賃セズ、或ハ食ヲ推シテ之ヲ食ワセ、或ハ衣ヲ推シテ之ヲ衣ス…」という記述に注目し、「その援助が巡礼の求めをまたずして与える積極的・能動的な援助であることが窺われ、まさに近世遍路の接待の前史がここに見られる」という。ただし一方、これだけでは西国巡礼に対する援助と四国遍路に対する接待の直接的な継受関係の有無は明瞭ではないともしている(④)。

 (イ)四国遍路における接待の始まり

 次に四国遍路に的を絞り、遍路に対する積極的な援助、すなわち接待の始まりについて見ていきたい。
 江戸時代以前の例としては、応安2年(1369年)の時点で土佐五台山に接待庵のあったことが判明しているが、これが遍路と関係あるものかどうかはわからない(⑤)。さらに時代が下ると、『長曾我部地検帳』に見える遍路ヤシキ(天正年間〔1573年~1592年〕と推定される。)や慶長3年(1598年)の阿波蜂須賀氏による駅路寺などがあげられるが(⑥)、これらはいずれも遍路の宿泊にかかわる援助であり、本節で取り上げる物品・金銭・行為(労力)を無償提供する接待とは異なるものである。
 江戸時代に入っても、初期の遍路関係文献である澄禅の『四国遍路日記』(承応2年〔1653年〕)に善根宿の記述は見出されるものの、金品の提供例はない。ただ新城氏は『四国遍路日記』について、「物品の供与については、誌していない。しかし彼はとくに阿波と土佐との人情の篤さを讃えているから、この二国から受けた援助は少なくなかったであろう。」と推測している。また新城氏は、物品の接待をうかがわせる最初の文献として大淀三千風の『四国邊路海道記』(貞享2年〔1685年〕)をあげ、「あるは邊路の窶袋には、一撮の糧をわけ、あるは朽衣には一宿の筵をゆづる」という記述について、これは能動的な接待であろうとしている(⑦)。
 遍路への物品接待について文献から明確に分かる最初の事例は、真念の『四国邊路道指南』(貞享4年〔1687年〕)及び『四国徧礼功徳記』(元禄3年〔1690年〕)に記された伊予国野井村(現津島町)の「たなべ伊左衛門」による接待だと思われる。『四国徧礼功徳記』には、「延宝の初より七年の間、往還の遍礼人にはきものをほどこしける。」とある(⑧)。白井加寿志氏によると、四国遍路に直接関連する文献において接待の語が初めて使われたのも、この『四国徧礼功徳記』だという(⑨)。また喜代吉榮徳氏によると、高知県土佐清水市に残る貞享5年(1688年)の施茶供養碑に「南無大師遍照金剛 諸邊路茶供養」とあり、これが遍路に対する接待の供養碑としては最古のものだとしている(⑩)。
 先にあげた真念の『四国邊路道指南』は江戸時代における代表的な遍路案内書であり、以後の庶民遍路増加のきっかけを作ったとされる。前田卓氏は、この真念の時代、遍路が一般庶民に普及し始めた貞享(1684年~1688年)・元禄(1688年~1704年)のころから、時を同じくして接待という行為が四国各地に現れるようになるのではないかと考えている(⑪)。事実、貞享・元禄年間以降の文献からは当時の接待の実情をかなりうかがうことができるようになる。そこで次に、江戸時代における接待の事例を文献から具体的に見ていきたい。

 イ 江戸時代の接待

 (ア)接待の事例

   a 文献に見るさまざまな接待

 江戸時代の接待の事例を各種の遍路記(道中記・案内記)を中心に整理すると、次のようになる(⑫)。

   ① 元禄4年(1691年)豊後国千灯村(現大分県国見町)矢野一円の『四国遍路覚』
     「ふろのほどこしにあい申候」という記述が見える。
   ② 宝暦13年(1763年)甲斐国(現山梨県)本喰上人の『西国四国順礼手引』
     4か村で強飯(こわめし)の接待を受ける。
   ③ 寛政12年(1800年)阿波国河内屋某(九皋主人写)の『四国遍礼名所図会』
     土佐の2か所で接待を受け、さらに伊予土居村(現土居町)で大坂講中の接待を受ける。そのほか諸所で「常接待
    有」と記している。
   ④ 享和2年(1802年)大坂橘義陳の『宝抓(つかみ)取』
     四国遍路21度の行者を自称する彼は、自らが受けた接待に対する報謝として「四国道中手引案内納経蝶壱冊道中服
    薬五万人に施し申侯」と記している。
   ⑤ 文化元年(1804年)伊予国久谷村(現松山市)英仙の『海南四州紀行』
     食事・香物・川渡し・茶・味噌・酒の接待を受けている。
   ⑥ 文化2年(1805年)土佐国朝倉村(現高知市)兼太郎の『四國中道筋日記』
     20数回の接待を受けているが、その品は、茶・赤飯・餅・ご飯と吸物などのほかは不明が多い。2月21日には肱川
    の無銭渡しのほか4回の接待を受け、翌22日には「七遍せったイ」・「せったい五度」の記述が見える。
   ⑦ 文化6年(1809年)京都升屋徳兵衛の『四国西国順拝記』
     四国巡り始めの七十八番道場寺(郷照寺)で、餅・草鞋(わらじ)・油元結・香物・めしの接待を受け、「誠二大師
    の御慈悲(じひ)と存し泣(なく)々頂戴致(てうだいいた)し」と感激している。そのほかにも接待を受けた記述が数か所
    ある。
   ⑧ 文化8年(1811年)京都東寺茶所預和介の『四国八十八ヶ所順拝心得書』
     「接待とて所々に於て點心あるひは草鞋又は髪月代、浴湯、其外いろいろの物を施し供養する人有 小本一冊そこ豆
    わらぢくひのつけ薬いっふく施之者也」という記述が見える。
   ⑨ 文政2年(1819年)土佐国西谷村(現高知県北川村)新井頼助の『四国日記』
     小豆飯などのご飯類のほか月代(さかやき)・草鞋・餅などの接待を受け、さらに阿波の吉野川・那賀川などでは善渡
    しがあった。彼はいたる所で様々な接待を受けている。特に、3月21日に歩いた六十四番前神寺から六十五番三角寺
    への道筋では12か所で接待があり、3月25日の七十一番弥谷寺から七十五番善通寺の道筋にも1日で18か所の接待が
    出ていたと記している。
   ⑩ 文政4年(1821年)十返舎一九の『金草鞋』
     これは四国遍路を行わなかった著者の創作なので、信憑(しんぴょう)性にはやや劣るものの、接待資料として好適
    だと評価する研究者もいる。茶飯・麦麨(むぎこがし)・芋と豆の入った強飯・結飯(にぎりめし)・餅・髪月代・煮染
    (にしめ)・梅干・味噌・白米・豆腐汁と赤飯・半紙・お萩・草鞋・据風呂・荒布・小豆飯・麦飯など、多岐にわたる
    接待が記されている。阿波の那賀川は善渡しであった。
   ⑪ 文政6年(1823年)武蔵国奈良村(現埼玉県熊谷市)吉田瑶泉の『四国紀行』
     「釜二茶ヲ煮テ旅人ヲ招キテ炒麦粉一盆ヲ与ヘテ茶ヲ出ス此ソ四國遍路中摂待トテ所々ニアル事ナル由ナレドモ此
    節至テ少ナル故今日始テ接待ナル事二逢ヘリ此炒麦粉ヲハッタイト云フ」とあって、わずかに炒麦粉(いりむぎこ)
    2回・小麦餅2回の接待である。ただこの中は、「煙草ヲ出シテ土人二喫セシム 土人大二喜ビテ各乞フテ持帰ル」
    というように、瑤泉が地元民に対して煙草を逆に接待した記述の出ている点が注目される。
   ⑫ 天保4年(1833年)讃岐国吉津村(現香川県三野町)新延氏の『四國順禮道中記録』
     60回以上の接待の記述がある。ご飯・焼米・赤飯・大豆飯・ちらし(はったい粉)・小豆飯・空豆(そらまめ)入り
    飯など飯類が豊富で、そのほかに白米・餅・香物・柿・汁・銭・いり菓子・数珠(じゅず)や月代、さらには『真言念
    誦法』という施本の接待まで受けている。接待者の中には、四国以外にも安芸(現広島県)・備前(現岡山県)・和
    泉(現大阪府)・紀伊の人々の名前が見える。
   ⑬ 天保7年(1836年)武蔵国中奈良村(現埼玉県熊谷市)野中彦兵衛の『四國遍路中并摂待附萬覚帳』
     道中、50回にのぼる接待を受けており、その詳細は後述する。
   ⑭ 天保8年(1837年)甲斐国犬目村(現山梨県上野原町)兵助の旅日記(逃亡日記)
     伊予松山で8回の接待を受けている。
   ⑮ 天保15年(1844年)阿波国上山村(現徳島県神山町)粟飯原権左衛門の『四国巡拝諸相帳』
     銭9回・赤飯11回・餅6回・餅と香物1回・赤飯と汁1回・茶漬2回・茶漬菜1回・飯1回・米1回・そうめん
    1回・香物1回・味噌1回・草鞋1回と、多彩な接待を受けている。銭の接待が9回にのぼること、近隣各村で接待
    講が組まれて1か所で4組の接待を受け穴場合があること、「備中黒崎村十文之接待」(黒崎村は現岡山県倉敷
    市)・「備前児島郡玉村講中餅接待」(玉村は現岡山県玉野市)といった四国外からの接待講があったこと、などの
    記述が目を引く。
   ⑯ 安政3年(1856年)武蔵国本庄(現埼玉県本庄市)日向氏の『四国八十八ヶ所道中日記』
     数か所で接待を受けた記録がある。

 以上の事例によれば、接待品はすぐ口にできる食べ物が主のようである。そのほかにも草鞋などの日常品、月代などの行為等多岐にわたるが、白米や銭は比較的少ない。また接待者には、四国外からの人々も見られる。接待日については、新井頼助の『四国日記』から分かるように、最も盛んなのは弘法大師の命日とされる3月21日とその前後のようである。
 なお、阿波国河内屋某(九皋主人写)の『四国遍礼名所図会』にある常接待とは、近藤喜博氏によると、「常時出張(でば)っての接待をいうのであろうが、しかし常接待とはいいながらも、春遍路が中心をなしたと思われる。(⑬)」ということである。毎年接待を行う記念として札所境内などに常接待の石碑が建立されており、その幾つかは現在でも見ることができる。常接待碑の古い例として白井加寿志氏は、七十六番金倉寺(香川県善通寺市)の石碑「金倉寺常接待處」(寛延4年〔1751年〕)や六十五番三角寺(川之江市)の石碑「永代常接待」(明和元年〔1764年〕)などをあげている(⑭)(写真1-1-5)。

   b 野中彦兵衛の受けた接待

 天保7年(1836年)に四国遍路を行った武蔵国中奈良村(現埼玉県熊谷市)名主(なぬし)の野中彦兵衛は、その道中記録として『四國遍路中并摂待附萬覚帳』を残した。この記録の特徴は、札所の様子についての記述がほとんどないにもかかわらず、接待については詳しく書かれていることである。この点について、彦兵衛の記録の分析を行った喜代吉榮徳氏は、「摂待記録は、四国路での出来事として無視することのできない、感動的なことであったのではなかろうか。(⑮)」と推測している。
 野中彦兵衛の受けた50回にのぼる接待の内容をまとめたものを見ると、接待品として、赤飯をはじめ白飯・豆入り飯・焼飯(焼きおむすび)・切飯(ご飯を型枠に詰めて四角に切ったもの)などのご飯類が圧倒的に多いことが分かる。これらのご飯類にはほとんどの場合は副食が付き、それは大根漬をはじめとする漬物であり、あるいは汁物・菜の物・にしめ・味噌である。ご飯に代わるものとして、各種の餅も所々で出されている。なお、焼飯や切飯・餅については携行(けいこう)食にもなるので、接待者が接待場所まで運んで来るにも、またもらった遍路が持って歩くにも便利だったと思われる。例えば3月12日の十九番立江寺(徳島県小松島市)の接待で出された大根漬5本にしても、とてもその場で食べ切れたとは思えず、余りは保存食として携行したのだろう。
 内の子町(現内子町)近辺で2度出されている「香仙」については、喜代吉氏によると、これは「香煎(こうせん)」、すなわち「はったい粉」のことだという。炒(い)った大麦を挽(ひ)いて粉にし香料を混ぜ合わせたもので、熱い茶をかけてかき混ぜて食べたという。別名を「麦こがし」・「おちらし」などともいう(⑯)。
 食べ物以外の接待の内訳は、月代が6回、草鞋が4回、銭が2回である。月代の接待が多くて銭の接待は意外に少ない。和泉川村(現新居浜市)での月代は、「髪や吉蔵」という接待者の床屋の名前まで出ている。
 野中彦兵衛が受けた50回の接待を国別に見ると、阿波14回・土佐5回・伊予14回・讃岐17回となり、土佐の少なさが目につく。一般的に、一年間のうちで最も接待の盛んな日は弘法大師命日とされる3月21日だが、土佐5回の接待のうち4回はこの日に受けたものである。彦兵衛の3年前に遍路を行った讃岐新延氏の記録でも、60回以上受けた接待のうち土佐の接待はわずかに2回にとどまっている。ちなみに新延氏の場合、3月21日には南伊予(南予地方)で11回の接待を受けている(⑰)。
 この記録を残した野中彦兵衛は名主であり、旅費を十分に用意して遍路を行ったと考えられる。彼にとって接待は、手助けになるありがたい行為ではあったが絶対に必要なものというわけではなかった。しかし一方、接待による経済的援助がなければ遍路を続行することができない貧民層も、当時は数多く四国の地を巡っていたのである。例えば伯香国長山村(現鳥取県溝口町)の百姓惣兵衛一家は「極貧の者」であったが、惣兵衛白身が途中病気で倒れながらも人々の温情にすがって天保10年(1839年)から11年にかけて11か月間にわたる遍路を一家で成し遂げたのであり(⑱)、こういった例は当時多数あったと思われる。
 このように接待による遍路費用の軽減は、貧しい民や女性たちなど、費用を十分に工面できない経済的弱者の遍路行を可能にさせ、それは遍路数の増加につながったのである。しかし一方、遍路に対する積極的な援助は、物を乞うことにより生計を立てる職業遍路(信仰心のない実質的な偽遍路)を生み、遍路の質的低下を招いた面があった点も否定できない。

 (イ)接待の継続

   a 接待継続の理由

 もともと西国三十三か所についても巡礼者に対する積極的援助が見られたが、江戸時代後期には社会的慣行としての接待が顕著に見られるのは四国遍路のみになっている(⑲)。江戸時代を通じ、なぜ四国遍路に接待の風習が存続し得たのだろうか。
 それにはやはり、西国三十三か所のある経済的先進地域の畿内に対し、四国が依然として経済的に後進地域であったことが大きく関係していると思われる。四国では、江戸時代も路次(ろじ)の不便が解消されず、多くの行き倒れ・病死の遍路が出ている。遍路が苦行であることに変わりがないため、遍路に対する四国の人々の同情心が薄れることなく接待が続けられたのである。しかも遍路道沿いでは遍路以外の旅人の数は限られ、そこには畿内に多く見られたような宿屋・商家などが比較的少なかった。したがって遍路に対する援助の必要性が高く、接待の存在価値が十分にあったのである(⑳)。
 またそのほかの要因として、四国人の強い信仰心と、その裏返しとしてのたたりへの恐れを見落とすことはできない(㉑)。例えば、病気遍路の養生や死亡遍路の墓建立は当時の村人たちには大きな負担であったと思われるが、遍路を粗末にすると罰が当たるという恐れがあったことが、この接待を継続させる大きな力となった一面がある。托鉢(たくはつ)に来た弘法大師を追い払ったために罰があたったという衛門三郎の伝説や、弘法大師に芋や貝を提供することを拒否したら食べられない「喰(く)わず芋」や「喰わず貝」になってしまったという伝承も、この点を端的に物語っていると考えられるのである。

   b 接待の禁令

 江戸時代の四国では、時代が下るにつれ遍路に対して排他的な政策を取る藩が増えていく。その根底には、得体の知れない他国の遍路が大量に領内に流入して来る不安がある。すなわち遍路の存在を、藩体制・村落共同体の秩序維持に対する脅威としてとらえたということなのである。そして、遍路に対する排斥政策の強化は、そのための有力な手段として接待の禁止へとつながっていったのである。
 当時の接待の禁止政策の理由については、そのほかにも従来から様々な説が唱えられており、諸藩のイデオロギーである儒教が有している反仏教的な立場からすると僧侶や巡礼に対して物を与えることを歓迎しなかった、あるいは、遍路に接待する余剰物があるならばそれは領主に納めるべきであるとした、などとも考えられている(㉒)。
 遍路や遍路の接待に対して最も厳しい姿勢をとっととされる土佐藩が、文政2年(1819年)に出した禁令(㉓)によると、接待の行為は「誠二御時節柄を不相恐不埒之至」であるとして非難し、「自今以後右等之儀御差畄被仰付候」と接待の中止を求めたうえ、「若相背者於有之は屹度曲事被仰付候条厚可相心得事二候」と厳重な念押しを行っている。この種の禁令は江戸時代を通じて何度も出されるが、そのこと自体、逆に言うと厳しい禁令にもかかわらず接待の風習が途切れなかったことを示している。新城常三氏は、「一般参詣界では、参詣者が一方的に参詣社寺・地元及び沿道住民を経済的に利したが、遍路においては、全く逆で、遍路が四国路に経済的に裨益することは極めて寡く、一方的に、四国住民が遍路に与うるのみ」であるにもかかわらず続いた接待について、「これこそは日本の参詣界に例を見ぬほとんど唯一の現象であった。(㉔)」と述べている。

 (ウ)接待場所としての茶堂

 古くから四国の各地に、周りに壁のない開放的なお堂が建てられ、それらは「氏堂」・「四つ堂」・「四つ足堂」・「辻堂」などと呼ばれている。村々の入り口にあたる道沿いに建てられている場合が多く、山村地域には現在でもよく残っているが、平野部にはほとんど見られない。そこでは、行き交う旅人に茶などを振る舞う行事がかつて行われており、行事の行われる日は、弘法大師の命日、弘法大師が訪ねてくる日、というように弘法大師と何らかのかかわりがあるとされる日であった。この点に注目した武田明氏は、これらのお堂は「四国八十八ヶ所の寺院にある大師堂の一つ前の形ではなかろうか。(㉕)」と椎測し、四国遍路における接待の起源についても、「現在行なわれている遍路についての接待の(中略)そのもとの形は四国の山中における四つ足堂、四つ堂などとよばれている大師堂の接待であろう。(㉖)」と述べて、村落のお堂と四国遍路との強い関連性を示唆した。
 いわゆる茶堂と呼ばれる建物と、これらの古いお堂との直接的なかかわりについては明らかにし得ない。しかし、江戸時代の茶堂が遍路への接待場所として重要な役割を果たしていたのは事実である。そこでここでは、遍路に湯茶の接待を行う場所としての茶堂に的を絞って見ていきたい。
 喜代吉榮徳氏は、遍路のみを対象にした茶堂の条件について、寺院内の建物であること、営業目的ではないこと、さらに建物の独特の特徴(外との仕切りがなく吹きさらしで、縁台に腰掛けることができる。内部には竃(かまど)・茶釜といったお茶を沸かす設備がある。)をあげている(㉗)。そして、茶堂という語の登場は元禄以降であり、18世紀になって大きく発達したのではないかと推測している(㉘)。
 寛政12年(1800年)の『四国遍礼名所図会』を見ると、札所境内に建てられた茶堂が幾つも描かれている。五十八番仙遊寺(玉川町)の茶堂、五十九番国分寺(今治市)境内の茶堂であり、ともに茶釜は黒く塗られている。国分寺の茶堂には屋根に煙出しがついているのが分かる。仙遊寺には、茶堂の建立碑が地蔵像の台座石として残っており、それによってこの茶堂の建立は寛政12年5月、建立の中心人物は今治城下の紺屋四郎右衛門だと分かる(㉙)。『四国遍礼名所図会』の著者が仙遊寺を訪れたのは寛政12年閏(うるう)4月11日であるから、彼は(ほとんど)完成した真新しい茶堂を見て描いたということになる。
 英仙の『海南四州紀行』(文化元年〔1804年〕)にも、八十八ヶ所中四十三ヶ所に茶堂の名が見えている(㉚)。これらに、札所境内や門前に出ていた有料の茶店・茶屋を加えると、すでに当時、遍路が一休みして茶を飲む施設はかなりな数が設けられていたと考えられる。また出される茶の種類についても、地域により何種類もあったようである。
 こういった茶堂を建立し運営したのは、今治の紺屋四郎右衛門のような、接待を志した各地の篤志家であった。『伊予玉井家文書』には、地元の嘉治郎という人物が番外霊場十夜ケ橋大師堂(大洲市)に茶堂を建立して接待を行っていたが、数年で亡くなったため、文政13年(1830年)に近村に住む3名の代表が広く寄附を集めて茶堂の接待を維持しようとしたということが書かれている(㉛)。また、山伏である野田泉光院の『日本九峰修行日記』には、文化11年(1814年)に、浮穴郡上井村(土居村、現松山市)に茶堂を建立するための勧進(寄附集め)に周防(現山口県)まで来ていた伊予の六十六部、清吉のことが出ている。泉光院は、同宿のよしみで清吉の求めに応じて勧進のための前口上を書いたのであるが、その後、勧進に成功して茶堂が建ったかどうかは不明である(㉜)。
 このように、茶堂の建立やそこでの継続的な茶接待の多くは、遍路の援助を志す善意の人々の情熱に支えられていたのである。

写真1-1-5 六十五番三角寺境内の「永代常接待」碑

写真1-1-5 六十五番三角寺境内の「永代常接待」碑

平成14年10月撮影