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遍路のこころ(平成14年度)

(2)接待の変遷②

 ウ 明治から昭和にかけての接待

 (ア)太平洋戦争までの接待

   a 遍路たちの受けた接待

 接待の風習は、明治時代以降の近代社会でも変わらず続いた。ただ明治時代の遍路記を見ると、明治29年(1896年)の『四國巡拝記』(中井三郎兵衛)では食事5回とその他3回の接待のみ、同じく明治40年(1907年)の『四國順禮』(小林雨峯)では、端午の節句に柏餅とちまきの接待があったほかは数回の茶と施本の接待くらいで、ともに受けた接待の数は少ない。大正7年(1918年)の『娘巡礼記』(高群逸枝)にも、ほとんど接待の記述が出てこない。この理由としては、明治前期の、廃仏毀釈(きしゃく)による札所の衰退や行政機関による遍路の禁止政策の結果として、全般的に遍路そのものが低調であったことや、遍路者が接待経験をあまり記述しなかった可能性が考えられる。しかし最大の理由は、先の事例がいずれも、接待の盛んな春先の時期をはずした遍路行だからではないかと思われる。ちなみに大正15年(1926年)の『四國遍路』(富田学純)には、金銭6回、白米1回、米・金銭と食事1回、菜1回、茶代1回、蜜柑1回、納経料1回の接待が記録されており、これは春先の3月を含む遍路行であった(㉝)。
 続いて昭和初期の接待風景を、二つの遍路記からあげておく。

   ① 昭和5年(1930年)島浪男の『札所と名所 四國遍路』。以下の描写は、昭和4年4月の七十八番郷照寺(香川県
    宇多津町)境内における接待の様子である。
     春(はる)なれや、寺(てら)はお接待(せつたい)で賑(にぎ)やかい。頭陀袋(づだぶくろ)を開けて米を貰(もら)ふ遍路
    (へんろ)、手製(てせい)らしい眞黒(まつくろ)な饅頭(まんぢう)のお接待(せつたい)を受けて慇懃(いんぎん)に納札(を
    さめふだ)を差出(さしだ)す遍路、机の上に積(つ)んだ塵紙(ちりがみ)をきさくな物腰で一折(をり)づヽやつてゐる町の
    世話役(せわやく)らしい男(をとこ)、湯茶(ゆちや)を供する娘(むすめ)等々々。四月一杯はお遍路の出盛(でさか)りで
    時期(じき)もいヽ事にはいヽが、昨日今日至るところで見るお接待(せったい)の賑(にぎ)はしさはどうだ(㉞)。

   ② 昭和18年(1943年)宮尾しげをの『画と文 四國遍路』。以下の描写は、昭和7年晩春の八十七番長尾寺(香川県
    さぬき市)境内における接待の様子であり、文中の「大窪さん」は八十八番大窪寺をさしている。
     この寺の廊下で按摩さん二人が揉み療治をしてゐる。「今日は按摩さんの接待のある日だな、それにしても、あたり
    は静かだし、いヽ場所だ」といふたら、側に居た遍路が「尊い努力奉仕ですナ、一ッ揉んでもらいまひよか」と横にな
    つた。別の遍路が「あんたは大窪さんに行くのでひよう、それなら早う行きなはれ、今日は大窪さんに、餅と甘酒と、
    白米とお金の御接待がありました、今からでも遅くないです、早う行きなはれ、多分間に合うでせう」とすすめる
    (㉟)。

 以上の文中に見える接待以外にも、戦前の各種遍路記からは、ふかし芋などの食べ物、草鞋など旅の日用品、無料の川渡しなど江戸時代と変わらない接待が見出だされる。近代の接待であることを想起させる例としては、新しくできた橋の通行料を肩代わりする接待、人力車夫が無料で遍路を運ぶ接待、乗合自動車の料金の接待などがあげられる。

   b 村の接待行事

 次に、村落が集団で行う接待について松山市周辺地域を例に取り上げ、接待を行う側からの接待の様子を見ていきたい。
 大正時代ころまでの松山市窪野町付近の各地区では、旧暦3月4日に地区あるいは組の行事として接待を行っていた。まず、地区の青年たちが米を何合(ごう)かずつ各家庭から集める。多い家では1升(10合)ほども出し、地区全体で3~5斗(1斗=10升)ほど集まったという。それを1合ぐらいずつ盆に載せたり袋に入れたりして、遍路道を通る遍路に接待した。小豆ご飯にして出す地区もあった。この接待は、遍路道沿いの民家の軒先を借りて行われた。ほぼ同じころに、愛媛県重信町上林付近の若者組(若連中)もこのあたりへ接待にやって来ており、上林の接待はニナイ(接待品を入れる桶(おけ))で担いできた餅であった(㊱)。このように戦前までの村の接待は、若者組(若連中)あるいは青年団が中心になって行う場合が多かったのである。
 松山市来住町あたりでも、接待は地区の年中行事になっていた。『愛媛県史』には、同町出身の河本覚一氏の随筆集から、「麦の穂の出そろった春たけなわの頃、お接待の日が決まると朝から部落の主婦、老人、それに小学生なども加わって行った。小野川の遍路橋の河川敷に接待場を設け、ハンボ(桶)に寿司や小豆飯、妙り豆などを盛って運んだ。川原石を寄せて来て臨時のクドを作り、特大の大釜で湯茶を沸かした。数人の者が遍路道に出て、これら食べ物や湯茶の接待をした。お遍路さんたちは、接待を受けたあと拝んで納札を置いて立ち去った。」という接待の思い出が紹介されている(㊲)。
 五十一番石手寺周辺の地区でも、戦中までは4月の年中行事として石手寺境内で接待を行っており、その際には接待する町内の人同士も酒を酌み交したりした。五十二番太山寺でも周辺地区の接待が昭和初めまで見られたが、これも村人たち自身の飲食を伴う行事だった(㊳)。テレビのような手軽な娯楽もない時代、村単位で行われる接待は娯楽を兼ね、村人相互の親ぼくを目的とした楽しい行事だったのである。
 こういった年中行事としての接待の費用を捻出(ねんしゅつ)するために、「接待田」・「接待地」という土地を村で共有していた例が各地に見られる。愛媛県では川内町松瀬川地区や松山市の四十八番西林寺周辺にあったという(㊴)。香川県には、さぬき市・綾上町・綾南町などに幾つか「接待地」の石碑が残っている(写真1-1-7)。さぬき市造田の乙井地区の接待地は乙井財産区が所有し、代表して多田某が耕作し、毎年15~16俵の収穫があった。60余戸の同地区では、これをもとにして毎年春に握り飯・箱ずしを作って地区総出で接待していた。またこの辺りでは、「接待草」といって水田の除草作業を請け負い、その手間賃を使って接待をする慣習もあったという(㊵)。

   c 接待の中断

 五十四番延命寺(今治市)にも、毎年多くの青年団が接待にやって来た。その一つである県(あがた)村(現今治市)の場合は、4月に結婚前の若衆が50名ほどやって来て、小豆飯を炊いてお盆にのせて接待していた。この接待は、空襲が激しくなるころに中止されたという。同じく延命寺で接待を行う小部(おうべ)村(現波方町)の場合は青年だけでなく子供たちも総出でやって来たが、この接待も空襲のために休止し、戦後に再開されたものの遍路の数が少なかったために2、3年でまた途絶えてしまった(㊶)。このように、古くから続いてきた接待も、太平洋戦争の激化と食糧難によって遍路の往来がほとんどなくなると、いったん途切れてしまうことになる。特に村落の人々による接待については、戦後になって再開できたのはごく少数にとどまった。
 藤井洋一氏は、若者組や青年団が中心となる接待は、戦前から徐々に衰退していたのではないかと推測する。明治時代末から大正時代にかけて国から青年団に対する数々の通達が出され、風紀の粛正が求められた。その結果、娯楽を伴う接待の活動は制限され、あるいは変質していったと指摘するのである。藤井氏はその事例として、接待に出かけての旅先で若者たちが賭博(とばく)をして警官に捕まり、以後接待をとりやめてしまったというある村の話をあげている(㊷)。

 (イ)戦後の車社会の発達と接待の減少

 戦後の食糧難が徐々に解消に向かうとともに、遍路の数も回復の傾向を見せつつあった。それに従ってある程度接待も復活したようで、昭和29年(1954年)の荒木哲信氏の『遍路秋色』には、うどん・ご飯・ミカン・おでん・按摩などの各種の接待を受けたことが記されている。また比良河其城氏も昭和30年の遍路行で様々な接待を受けており、その『遍路日記』の序文に「接待の品は米、五目ずし、赤飯、甘藷、菓子、ちり紙、金、草鞋等いろいろ様々であるが最も美しく尊い様に思へる御接待は荷馬車曳が空車に乗せて接待し、按摩が接待にもみ、人力車が接待に乗せ、散髪屋が接待で散髪をすると云ふ風な情景である。(㊸)」と書いている。
 四国遍路の歴史の中で大きな転換点とされるのは、戦後の車社会の発達とともに、遍路の巡拝手段が徒歩主体から乗り物主体へと移り変わったことである。松山市の伊予鉄道㈱が四国巡拝の団体バスを初めて運行したのが昭和28年であるが、以後団体バスによる遍路が激増し、続いて自家用車やタクシーによる遍路も増加した。こうした移動手段の変化は、遍路の意識をも大きく変えていくことになる。「車で巡拝するスピード遍路にとっては、お接待の有難味もうすれ、中には、接待品を貰うことを有難めいわくがる人も出て来ている(㊹)」という状況になったのである。
 さらに戦後の生活水準の向上により、「せっかくの接待品に対して、つまらぬ物をもらっても仕方がないと、せせら笑って通り過ぎる人達まで出る」ような有様になり、ついには「『どうぞ接待をおとり下さい』と大声で叫びかけるのに対し、『接待』という言葉がわからず、物を売りつけられるのではないかと誤解して拒絶したりする風景を現出する(㊺)」までに至った。一方、かつて接待を行っていた人々にとっても、テレビなど各種の娯楽が発達したために、接待しに行くのを楽しみにすることもなくなった。これらの事情が相まって、集団による接待は激減したのである。
 しかし、それでも個人による接待は変わらず続いた。昭和38年(1963年)に四国巡拝の団体バスに参加した松田富太郎氏は、その遍路記に「五円宛頂戴した所三・四ケ所 十円宛頂戴した所一ケ所 二十円宛頂戴した所一ヶ所 塵紙少し宛頂戴した所六・七ヶ所 日本手拭一枚宛頂戴した所一ヶ所(㊻)」と書いている。また、昭和49年(1974年)に歩き遍路を行った喜代吉榮徳氏は、食事や飲料・果物・お金など50回近くにのぼる接待を受けたことを記しており(㊼)、昭和58年(1983年)に遍路した中島久雄氏も、お金を中心に合わせて12回の接待を受けたとしている(㊽)。

 工 平成の接待

 (ア)歩き遍路が受けた接待

 平成の時代に入って四国遍路がブームと称されるほど盛んになるとともに、接待も徐々に増加の傾向を見せている。戦後中断していた集団の接待が、最近になって復活したという事例も聞かれる。
 そこでまず、月刊誌『四国へんろ』に掲載された座談会「わたしたちが受けたお接待」から、平成の歩き遍路たちが受けた心に残る接待を紹介しておきたい。

   ① 一番印象に残って、心打たれた言うのが、二回目のお遍路。(中略)府中(こう)駅言うんですか、そこの食堂出て行
    こうとして戸を閉めたんですけど、そしたら奥から年配の方が追い掛けてきてくれてね、「お接待です」言うて、わざ
    わざ店のナプキンに1,000円包んで戴いて。店の中の皆のおる前では出さずにね、皆に、店の人にも負担を掛けないい
    うか。ここまで気配りをしてね、四国の人って何なんだろうかって。お接待の心いうんはここまでするんかないうんか
    ね(㊾)。

   ② 神社で野宿の準備してたんですね。お遍路二人ごそごそしてると近所の人が気持ち悪いだろうと思って、「火だけは
    使わないので、ここに泊めていただきます」って、通り掛かった方に声を掛けたんですね。で、「構わないですよ」っ
    て仰って。しばらくしたら、その方が、「うちのお風呂使いなさい」って。他人を自分家(ち)のお風呂に、しかも一番
    に、「ゆっくり入ってね、今沸いたから」って仰ってくださって。人ん家(ち)で裸になることも恥かしがってたんです
    けど、もう嬉しくて涙が出るし。(中略)で、毛布まで貸していただいて、朝になって返しに行ったら、今度はお弁当
    まで作ってくださって。で、また泣いて、朝から(笑)(㊿)。

 さらに、女性一人で歩いていると様々な物を接待してくれると語り、「いっぱい戴いてるんですけど、今度はどなたかに何か差し上げて。(中略)差し上げると必ず物なり笑顔なりが返ってくるので、あ、お接待ってこうやって循環していくから、一人が私にくださったと思っても、私がまたこちらへ差し上げて、また繋がって。言葉も物も気持ちもそうやって伝わって行くのかなって。((51))」と述べている。
 続いて、平成の歩き遍路が著した遍路記から、接待にかかわる記述を幾つか抽出する。

   ① 平成9年松坂義晃氏の『空海の残した道』。松坂氏は九番法輪寺(徳島県土成町)境内の茶店で、そこのおばさんか
    ら冷たいお茶とさつま芋の接待を受け、さらに餅の入った包みをもらった。
      おばさんのそうした態度は、信心もなく、ただ歩きたいがために漠然と遍路をしている私の心を動揺させた。接待
     を受ける度に、次第に自分の心のなかで何かが変わり、そして生まれてくるような気がした。(中略)そして接待を
     受ける度に思う。私がこの人のためにできることは何だろうか。この人に受け入れられる本当の幸せは何だろうか。
     その幸せのためにできることは何だろうか((52))。

    ② 平成11年西川阿羅漢氏の『歩く四国遍路千二百キロ』。三十七番岩本寺(高知県窪川町)への途中の遍路道での
     西川氏の体験である。
       もう少しで山道に入るところに民家があって、ビニールハウスで仕事をしていた若い女の人に呼び止められた。
      すると家の中から80歳くらいのお婆さんが転がるように出てきて、「お接待します」と言って、健康ドリンクと
      キャラメルを一箱差し出した。このお婆さんは、お接待をするために、ビニールハウスで仕事をしている人に「お
      遍路さんが通ったら知らせるように」と頼んでいるそうである。それから、すぐ山道になった。(中略)冷えた
      健康ドリンクは美味しかった。山道を登りながらなめたキャラメルもありがたかった。何よりも感激したのは、水
      のない山道が8キロも続くことを考慮して、「健康ドリンク」と「キャラメル」をお接待してくれたその行き届い
      た心遣いに対してであった。涙が出るほど嬉しかった((53))。

    ③ 平成11年細谷昌子氏の『詩国へんろ記』。痛む足の治療に訪れた松山市の酒屋兼整体師(気功師)宅で、細谷氏
     は語る。
       私はホットな体験のなかから四国の人々の温かさに感動した話をする。「普通、ヨソモノは疎まれ、不信の目
      で見られます。とくに都会では、見ず知らずの人には知らん顔をして通り過ぎるのが当たり前になっていますが、
      四国では子どもたちが遍路に積極的に挨拶し、大人は仕事の手を休めて道を教えてくれたり、話しかけてくれる。
      私は(中略)遍路としてはかなりうさんくさい身なりで歩いているのですが、それでも通りすがりの人が、追いか
      けてきてまでお接待してくださる。四国の人たちは、ずっと昔からそうして遍路を受け入れてきたのでしょうね。
      昨日今日の付け焼刃ではない、懐の大きさ、深さを感じました。((54))」

 それぞれ、現代の歩き遍路たちの、接待に対する様々な思いが表れた記述である。
 ただ例外的に、自動車への同乗を勧めるいわゆる車接待については、歩くこと自体を修行として重要視する歩き遍路にとっては、受けるべきかどうか悩むようである。先にあげた座談会でも、「歩いてたら、車のお接待断るいうのがね、随分申し訳ないいうのがあるね。お接待は断ったらイカンいうのがあるしね。」と言う人がいる一方、「向こうの好意に甘えることもたまーにありますね。あんまりこだわらない。」と言う人もいる((55))。歩き遍路経験者の加賀山耕一氏は、車接待を断わる場合に、「私は元気ですから歩きますが、あとから来る歩き遍路は疲れているかも知れません。また遍路を見かけたら、どうか懲りずに、声をかけてみてください。」と言って納札を渡すというやり方を紹介している。接待をいったん断わられた人は二度とする気持ちになれなくなるかもしれないので、四国の人々の善意の芽を摘まないように、後の遍路のことを念頭に置いての言動が必要だというわけである((56))。

 (イ)接待についての実態調査

 平成の時代に入り、接待の実態について何回か学術調査が行われた。平成3年の藤沢真理子氏による聞き取り調査の一部はすでに紹介したが、そのほかにも、平成8年には早稲田大学道空間研究会による調査、平成12年には愛媛県生涯学習センターによる調査が行われている。
 まず平成8年の早稲田大学道空間研究会による遍路の実態調査は、協力してくれる札所の宿坊にアンケート用紙を置いて記入してもらうという方法をとり、1,500名近くの遍路から回答を得ている。それによると、回答者全体で接待の経験ありが7割強である。これを遍路の移動手段の違いで見ると、歩き中心の遍路の8割以上に接待経験があるのに対し、乗り物中心の遍路の接待経験は6~7割にとどまっている。また、この両者が受けた接待の内容を見ると、一般的な「食べ物」の接待などに比べて、「お金」あるいは「サービス・手助け」に分類される接待は歩き中心の遍路の方がはるかに多く受けているという結果が出ている((57))。
 また平成12年には、早稲田大学道空間研究会の調査と同じ調査方法を用い、愛媛県生涯学習センターによって現代遍路の実態調査が行われた。500名余りの遍路から回答を得ており、回答者のちょうど5割が接待を受けたと答えている。ただし、「徒歩遍路」の場合はその9割以上が受けているのに対して「車遍路」は4割程度にとどまっている((58))。
 これらの調査には回答者層の偏りなど幾つかの制約はあるものの、全体として現代の接待の実態をよく反映したものとなっている。平成の時代も接待がかなり盛んに行われていること、そしてそれは、乗り物遍路よりも歩き遍路に対して厚いことが分かるのである。歩き遍路がより多くの接待を受けているというのは、乗り物遍路にとっては通過点に過ぎない遍路道沿いでも多くの個人接待が行われていることを示していると思われる。

写真1-1-7 「接待地」の石碑

写真1-1-7 「接待地」の石碑

香川県綾南町陶(すえ)。碑文には、接待地が明治37年(1904年)に始まったことが記されている。平成14年10月撮影