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遍路のこころ(平成14年度)

(1)接待講の活動①

 ア 有田接待講

 (ア)その沿革

 有田接待講は、和歌山県の有田市・有田郡全域と海草郡下津町小原地区の人々によって構成され、毎年春に紀伊水道を渡って徳島県鳴門市の一番霊山寺で接待を行っている。その起源は古いとされ、大正7年(1918年)に有田市箕島(みのしま)の天甫(てんぽ)山大師堂(写真1-1-8)に建立された「弘法大師献供物品接待開始一百年記念」の石碑の碑文によると、接待講の活動が開始されたのは文政元年(1818年)ということになる。現在、接待講の責任役員を務める**さん(昭和7年生まれ)は、「有田市を流れる有田川の源流は高野山へと通じており、四国遍路を終えて高野山へ向かう大勢の参詣者が有田の地域を通っていました。この地方の人々は、古くからそういうお遍路さんたちに食事を与えたり宿泊させたりしていたのです。このように、この地方にはもともと接待の土壌があり、その中から有田接待講の組織的活動が始まっていったのではないでしょうか。」と語る。
 その後、この接待講は、明治維新前後の混乱期や明治34~35年(1901~02年)ころの組織の分裂期など、幾たびかの盛衰を経た(①)。さらに太平洋戦争によって一時中断した後、昭和22年(1947年)に再開されて現在までその活動が続いている。なお、有田接待講の活動拠点は天甫山大師堂にあり、ここは僧侶など聖職者のいない宗教法人「有田接待講 天甫山大師堂」となっている。毎月20日・21日には月参りと呼ばれる大師講の例会がここで開かれ、四国遍路への接待は年間で最も大きな行事となっているのである。

 (イ)昭和40年代の有田接待講

 昭和47年(1972年)時点の有田接待講について星野英紀氏が調査を行っているので、その概要を以下に要約してあげておきたい(②)。
 この年の接待講の組織は、講元1名-講世話人21名-各地区の世話人(収集世話人)92名からなり、有田市を中心に有田郡・海草郡の一部を含んだ合計3,657戸の家庭から接待品の提供を受けた。まず2月に各地区の世話人に講側から接待台帳が配布され、世話人たちはそれを持って地区の各戸を回って金品を集める。こうして集められた金品は天甫山大師堂で整理・荷作りされた後、接待を行う世話人や講の遍路希望者たちと共に、地元の漁師たちが出す20隻ほどの漁船で鳴門市の撫養(むや)港へと海上輸送される。この輸送は無料奉仕であり、漁師たちは輸送の功徳で大漁の幸があることを期待するのである。
 撫養港からはバスやトラックに分乗して霊山寺まで行き、その日から接待を開始する。霊山寺境内の山門脇には、同じ和歌山県の野上施待講と共同で建てた接待所がある。接待所で宿泊し自炊して、その軒先に接待品を並べて接待を行うのである。この年は、旧暦3月の節句にあたる4月16日を中日(なかび)として、13日から19日までが接待期間であった。
 接待品の中心は、三宝柑(さんぽうかん)(和歌山特産のミカン)とその上に置いたさい銭の10円王である。ちなみに、この年に霊山寺に持ち込まれた接待品は金銭316,550円・三宝柑70箱(15kgダンボール箱)と、そのほかにも草履(ぞうり)50足・手拭(てぬぐい)130本・靴下150足・襦袢(じゅばん)23枚・下着17枚・軍手87足・チリ紙15束があった。そうして1週間の接待期間が終わると、再び有田からの迎えの漁船に分乗して帰還したのである。

 (ウ)現在の有田接待講

 平成14年の有田接待講を昭和47年当時と比べてみると、時代の流れの中で幾つも変化した点が見られる。まず現在の組織については、責任役員3名のもとに地区の世話人が127名という構成になっており、接待期間は以前の1週間から5日間に短縮されている。接待品などの輸送は、漁船からフェリーで渡海するトラック輸送に変わった。金銭の出し入れを細かく正確につけるため、パソコンを用いた会計処理を始めた。各家庭が出してくれる接待品は、そのほとんどが金銭になった。
 しかし時代は変わっても、接待講の世話を行う役員の苦労は変わらない。有田接待講責任役員の**さんによると、役員は接待行事の準備・実行の全般にわたって取り仕切り、無事接待を終えて地元に帰っても、接待後の決算や、霊山寺でもらった御影(みえい)・祈禱(きとう)札などを、各家庭にお礼としてお返しする段取りを行わなければならないという。
 **さんも、接待講の世話のために年間40日間くらいは自分の仕事ができないということだが、「そうまでしてなぜ接待の世話をするのかとよく言われますが、経済的には全然自分の得にはならないけれども信仰のためだということです。おかげさまで健康であることに感謝して、お遍路さんへの奉仕を続けさせていただいているのです。」と語る。ただ最近、徐々に接待への参加者が減少しつつあるのが気になるようで、「昭和の時代までは、接待への参加希望者は大変多かったのですが、残念なことに、平成に入ったころから徐々に少なくなってきました。ここ数年は15名程度でしたが、今年の参加者は男性2名・女性6名の合計8名です。」と心配する。さらに今後の後継者の問題についても、「これからもずっと接待講が続いていくことを願っています。世話人は責任が重い役目ですし、自分の生活をある程度犠牲にしなければなりません。そろそろ自分の後を継いでくれる人を探したいと思っています。」と気にかけている。
 長い間遍路の接待を続けてきた**さんは、最近の遍路について次のように語る。
 「昔のお遍路さんは年配の方が多かったですが、年々若い人が増えてきたように思います。特に明石大橋ができてからは、お遍路さんの数が倍以上になったような気がします。接待のお返しにいただく納札を見ると、北海道や鹿児島から来たお遍路さんも多くいて、全国から四国遍路に来るようになってきたことを実感します。
 学生さんの歩き遍路や外国人のお遍路さんも目につくようになってきました。総じて歩き遍路さんの態度は立派で、接待品を片手で受け取るお人はまずいませんね。また外国人のお遍路さんの中には、接待の説明をしてあげると、より詳しく知りたがって聞いてくる人もいます。」
 なお有田接待講の場合、接待場所が一番札所であるため、八十八ヶ所を巡り終えて最後のお礼参りのために再びここを訪れる遍路へも接待を行うことになる。したがって有田接待講の接待は、これから巡り始める遍路への援助という目的に加えて、満願した遍路に対するねぎらいの接待という意味合いもあるのだということである。

 イ 野上施待講

 一番霊山寺境内の接待所で接待を行う講として、有田接待講とともに野上施待講が知られている。野上施待講は、和歌山県の野上町・美里町・海南市(すべてもとの海草郡)の人々が中心で、その始まりは寛政元年(1789年)といわれている。現在、施待講の代表役員を務める**さん(大正13年生まれ)によると、野上町にある下佐々大師堂、すなわち宗教法人「大師寺」が施待講の本部となっている。またその組織は、本部役員20名余り(代表役員1名と責任役員5名を含む。)のもとに本部役員も含めて70名程度の地区の世話人がつくという構成になっているという。こういった組織形態をけじめ接待のやり方に至るまで、いずれも有田接待講と似通っている。なお**さんによると、遍路に物を施すという意味から、野上の場合は「接待講」ではなく「施待講」と書くのだという。
 霊山寺境内の接待所は、最初は天保13年(1842年)に建てられたとされ、その後の建て替えは両接(施)待講が資金を出し合って行われた。ここで、まず野上施待講が3月の彼岸前後に接待を行い、続いて有田接待講が4月に接待を行うというように、順番に使い分けがなされている。今年(平成14年)の野上施待講は、3月25日から28日までの4日間、7名の講員が手拭(てぬぐい)(写真1-1-11)とティッシュペーパーの接待を行った。現在では、地元の家庭から提供されるものは金銭がほとんどであり、それを資金として接待品の手拭とティッシュペーパーを購入するのである。
 ちなみに、西端さかえ氏が昭和33年(1958年)の野上施待講の接待品目録を筆写しているが、それには、お金35,790円・米1石7斗8升・麦1斗9升・大豆4斗8升・茶16貫目・草履380足・草鮭26足・さつま芋8貫・薪(まき)120貫・木炭4俵・漬物21貫・生大根460本・手拭160枚・護摩(ごま)木300本・藁(わら)縄3丸・その他(ごほう、人参、真菜(まな)、箒(ほうき)、タワシ、割菜(わりな)、供物沢山)といった物品が出ている(③)。おそらく施待講の人々が自炊生活をするのに必要な物も含んでいるのだろうが、それにしても当時、多種多様の物が持ち込まれていたことに驚かされる。
 近年の接待について**さんに聞いた。「長い間ここで接待をしてきましたが、悪い思い出はありません。ただ、最近のお遍路さんの中には、接待の意味が分からない人がいるのは残念です。この接待所に座って接待しようとすると、物売りと間違えられる場合もあります。」と言う。それでも、「接待は、喜捨(きしゃ)の精神で行うものです。施待講のような古くからの風習を今後に残していくのは並大抵ではないですが、出来る限り続けていきたいと思っています。」と、今後の施待講の存続に意欲を見せる。

写真1-1-8 天甫山大師堂

写真1-1-8 天甫山大師堂

有田市箕島の有田川に河口部にある。平成14年11月撮影

写真1-1-11 野上施待講の接待品の手拭

写真1-1-11 野上施待講の接待品の手拭

平成14年3月撮影