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遍路のこころ(平成14年度)

(2)近代・現代の宿①

 四国遍路の隆盛に伴って、近代の遍路に提供された宿は、主に遍路宿であったが、その他に各札所や番外霊場の多くに通夜堂が設けられ、善根宿の提供も活発であった。しかし、近代に始まった交通機関の利用は、現代に飛躍的に増大し、それに対応して、遍路の宿も大きな変化を見せる。この節は、遍路記を中心に、聞き取りやその他の資料を参考に整理した。

 ア 近代の宿

 近代は、17世紀末に現れていた遍路の泊まる木賃宿(のちの遍路宿)や、善根宿の様式が整っていく時代であり、一方で交通の発達が遍路の宿への影響(これは「現代の宿」で取り上げる。)を見せ始める時期でもある。ここでは、20世紀初頭の遍路である小林雨峯の遍路記を中心に取り上げて、遍路宿や善根宿あるいは通夜堂を整理し、また、旅宿の組織も探ることとする。

 (ア)概 況

 小林雨峯は真言宗の僧侶で、五十番繁多寺の住職と共に逆打ち(札所を逆の順番で参拝すること)で、四国遍路を行っている。遍路の時期は、兼太郎から約百年が経過した明治40年(1907年)であった。途中小豆島へ寄るなど、大変長期の旅で、77泊78日を要し、連泊を1か所としても、63か所で宿泊している。僧侶二人の遍路であり、しかも札所の住職が同行したこともあってか、寺院、特に札所での宿泊が多い。寺院泊は、通夜堂形式の寺院泊も合わせて31回、約半数を占めている。しかし、木賃宿も15回、善根宿も2回経験しており、近代の宿を整理するのに良い史料を提供してくれる。また、そのほかには旅館に4回、さらに船中泊(宿毛・土佐清水間)が1回、残りは不明である。近世のように善根宿か、営業宿か判断し難い民家泊はなく、どちらかに明確に分類できる。
 これまでの遍路記は単なる記録に近いものであったが、このころから宿の実態も具体的な記述になってくる。なお、雨峯の記録に加え、大正7年(1918年)お金をほとんど持たず、同行者の托鉢に頼りながら四国遍路をし遍路記を残した高群逸枝の記述なども参考にしながら整理する。

 (イ)遍路宿

 「19世紀前半の宿」で、遍路が泊まる木賃宿を遍路宿と呼び始めたことは既に述べた。ここでは、遍路は遍路宿に泊まるものとする風潮や遍路宿の特徴について、近代の史料で概観してみる。
 雨峯は旅館にも泊まっており、宿泊は遍路宿と限定しているわけではないが、それでも次のように述べたところがある。大洲(現大洲市)で宿をとろうとして「事情(じじゃう)に精通(せいつう)せざる同行(どうかう)は、上等旅館(じゃうとうりょくわん)に泊(とま)らんとして、二三軒尋(げんたづ)ね合(あは)せしも悉(ことごと)く拒絶(きよぜつ)され、合羽屋(かつぱや)の紹介(せうかい)にて、すぐ前(まえ)なる北岡屋(きたをかや)と云(い)ふ宿屋(やどや)に陣取(ぢんど)る。(①)」と記している。遍路は一般旅館から敬遠されていたのが分かる。北岡屋は木賃ではなく旅館であるが、老母が先年遍路したことがあるので特別に宿泊させたようである。翌朝、「此宿(このやど)に泊(はく)したることは實(じつ)は遍路(へんろ)としては贅澤(ぜいたく)の仕業(しわざ)なりき。(②)」との感想をもらしている。さらに、琴平でも「本虎(もととら)と云(い)ふ琴平第(ことひらだい)一等(とう)の旅館(りよくわん)に就(つ)いた。第(だい)一流(りう)と云(い)ふても、中(なか)はピンからキリ迄(まで)あるのだ、驚(おどろ)くこと勿(なか)れこの行脚僧(あんぎやそう)はやはり木賃式(ぼくちんしき)の等級(とうきふ)を選(えら)んで泊(とま)つたのである。(③)」江戸時代に新井頼助が「紅葉や茂八方」に宿泊したのと同じ状況で、「この行脚僧」つまり雨峰たちは、旅館に泊まっても木賃宿のランクに宿泊しているのである。高群逸枝も宇和島で、そして道後(現松山市)で、一般の宿屋から宿泊を断られている(④)。
 遍路が宿泊を嫌われる理由は、やはり旅の汚れであろう。雨峯は高知県の佐賀町で木賃宿に宿泊し、「八銭(せん)の一等木賃料(とうぼくちんれう)を取(と)りし丈(だ)け、風呂(ふろ)を沸(わ)かし呉(く)れたるは重疊(ちようでふ)に堪(た)へざりき(⑤)」と風呂に感激している。高群逸枝はある宿の風呂の様子を「風呂が湧いたといふので、同宿五名が更はる更はる入ることになつた。私の番が来たので行ってみると(中略)どうにも忍ばれないのは桶の中の湯である。まるで洗ひ落とされた垢の濁りで真つ黒である。(⑥)」と記す。高群は、宿毛の木賃宿で、先着順に男から湯に入り、終わると先着順に女が入ると書いているから、ここでもそうだったのだろう。満足に風呂も入らず、長旅で汚れた遍路を一般客と同じに扱えば、ほかの客には迷惑なことであったろう。
 遍路の案内記にも遍路宿の特徴がみられる。昭和9年(1934年)安達忠一の『四国遍路たより』は、宿について次のように述べている。「宿舎(しゆくしや)に付(つい)ては遍路(へんろ)する人(ひと)の為(ため)に到(いた)る處木賃宿(ところきちんやど)といふのがあります。是(これ)は一般(ぱん)に知(し)らるヽ木賃宿(きちんやど)と違(ちが)ひまして、土地(とち)の人(ひと)が信仰(しんかう)も伴(ともな)つて多(おほ)くは内職(ないしよく)に手續上木賃(てつゞきじやうきちん)の看板(かんばん)を掲(かゝ)げて居(お)るのであつて、中(なか)には隨分(ずゐぶん)と綺麗(きれい)な宿(やど)もあります。恁(か)うした宿(やど)は札所(ふだしよ)の附近(ふきん)には必(かなら)ずあり、又道中到(まただうちゆういた)る處(ところ)の部落(ぶらく)にもあります。(⑦)」この史料で、遍路宿は特別な木賃宿であること、また多くは内職つまり副業であること、さらに道中いたる所にあることが分かる。また、大正12年(1923年)四国道人の『四国霊場案内』は、「春季(はる)は巡拝(じゆんぱい)も多(おほ)く到(いた)る處(ところ)に遍路宿(へんろやど)があるが、秋季(あき)は農繁等(のうはんとう)の爲(た)め休業(きうげう)する家(いへ)が多(おほ)いから夕方早目(ゆうがたはやめ)に宿(やど)を取(と)ること。(⑧)」と記し、副業であるから本業の農業が忙しくなる秋には休業し、遍路のシーズンである春は遍路宿が多く開業していることを述べている。
 副業で遍路のシーズンだけ開業する遍路宿であるから、宿としての設備にそれほど投資するとは思われない。風呂が無い場合があるなど、この設備の不十分さが汚れを増幅し、その汚れのために一般旅館は遍路を敬遠し、敬遠された結果、遍路は遍路宿に宿泊するという循環を作りあげていった。しかし、副業であるから、遍路道沿いなら遍路以外の旅人は宿泊しないような田舎でも開業しており、しかも遍路のシーズンに合わせて開業するという、遍路の旅の形態に適合する面を持っていた。なお、一般の旅人の宿泊も見込めるような町場にある専業の木賃宿とは、施設・設備の面で大きな差があったと考えられる。
 遍路宿の設備を見てみよう。雨峯は、八十四番屋島寺参詣の後、高松市で木賃宿に泊まった。その様子を「高野山出張所前(かうやさんしゆつちやうしよぜん)なる旅店(りよてん)にとまる。木賃式(ぼくちんしき)にして十畳(でふ)の中(なか)に八九人縦横蚊帳(にんじうわうかや)の中(なか)に横(よこた)はる。皆是(みなこ)れ藝人(げいにん)、職人(しよくにん)、旅商人(たびしやうにん)の類(るゐ)、かくて夜(よ)は安(やす)らけく、源平(げんぺい)の昔(むかし)を夢(ゆめ)みつヽ寢(い)ねたり。(⑨)」と記す。部屋の状態はこんなもので、この程度の込み方であれば普通と思われる。高群も、「同宿十九名、三畳二間と四畳半二間との打ちぬきにて(⑩)」と記している。多いときには1畳に1人を超える人数が普通だったし、高群も男女別室の宿泊などとは書いていない。また、客筋も上記のようにある程度決まったものであった。
 坂本正夫氏は、大正初期の宿における遍路の様子について、もと遍路宿の主であった高知県宿毛市寺山の小林等氏の次のような話を紹介している。

   この寺山に木賃宿が五軒あった。皆が百姓家だが、ここには第三十九番札所延光寺があるので、副業に遍路さんを泊めよ
  りました。(中略)お遍路さんが来ましたらまず足を洗う水(冬はお湯)を出してやりますが、お遍路さんは足を洗う前に
  杖をきれいに洗いよりました。杖と笠は部屋へ持って入り、お床へ立てて置きます。同行二人といいまして、杖は弘法大師
  さまだといっていました。お遍路さんは「二合の飯をくれえ」とか「三合の飯をくれえ」というようにいうので、その注文
  に応じてご飯を出します。おかずは晩はお汁と田芋か何かの煮物、朝は味噌汁とオココ(漬物)の二品です。宿賃は必ず晩
  のうちに払ってくれましたが、これが遍路の作法でありましたので、こちらから請求するというようなことはありませんで
  した(⑪)。

 (ウ)善根宿

 江戸時代の善根宿の史料では、具体的な例は乏しかった。しかし、近代になると遍路記も詳しくなるし、関係した人から聞き取りも豊富になるので、その典型的な例を明らかにすることができる。まず、雨峯が経験した大瀬村(現内子町)の善根宿の具体例をあげる。

   五十恰好(かつかう)の女(おんな)の來(きた)りて、「お遍路(へんろ)さん早(はや)くともおとまりなさるならお泊(とま)
  りなさい。お寺(てら)にいつてお泊(とま)りか。」とヽはれた。心中思(しんちうおも)ふやう、是(これ)がかの善根宿(ぜん
  ごんやど)なるものならん。云(い)はるヽを斷(ことは)れば障(さわ)りありとの事故成谷(ことゆゑなりたに)まで行(ゆ)かば
  やと定(さだ)めたるなれど、よし宿(やど)からんと此處(ここ)にて供養(くやう)を受(う)くることヽせり。件(くだん)の女
  (おんな)は十四五の小伜(こせがれ)を呼(よ)びて風呂(ふろ)を沸(わ)かさせ、米(こめ)はいくらほどたきませうとの訊(た
  づ)ねに、五合(がふ)ほどたのみ、湯(ゆ)に入(い)りて奥(おく)の一間(ひとま)に通(とほ)りで脚(あし)をのばす。(中略)
  其質朴(そのしつぼく)と親切(しんせつ)なるに敬服(けいふく)し、食前佛前(しよくぶつぜん)に續經(どきやう)し、一家
  (か)の衆(しう)と膳(ぜん)に就(つ)く、食後近隣(しょくごきんりん)の小児老幼(せうじろうよう)を集(あつ)めて談話(だん
  わ)す(⑫)。

 明治期の善根宿の実態がよく分かる史料である。
 また、子供のころ(昭和初年頃)、親が善根宿をしていた宇和町の**さん(大正10年生まれ)は、「母親が弱かったし、父親は大師信仰をもっていて、何度も遍路をしていたくらいで、1年に百人泊める百人宿を目標に善根宿を始めたんです。善根宿をすると御利益(ごりやく)があると思っていました。他人から教えられて来る遍路もいましたが、父親が接待していて、呼んでくるお遍路さんが主でした。父親は、こぎれいで優しそうな夫婦連れのお遍路さんなんかを選んでいたようで、一番きれいな座敷に寝させて、風呂も一番に入れていました。押し掛けて来た怖そうなお遍路さんに宿泊を断ると、『昨日は泊めた今日は泊めん、なんか言いよったら功徳がないぞ。食事だけでも食わせ。』などと言うお遍路さんもいました。泊まることになったら、お遍路さんの洗濯を手伝い、風呂に入ってもらい、仏壇でお経を上げてもらい、一緒に食事をして、あちこちの珍しい話を聞かせてもらっていました。私は子供だったので、お遍路さんが来ると食事の準備のために豆腐を買いに行かされていましたが、お遍路さんが泊まるのがうれしくて近くの子供たちに自慢していたものです。」と言う。珍しい話を聞けるのが特に楽しかったと回想する。
 今(平成14年)も千人宿記念大師堂で善根宿をしている内子町の**さん(大正12年生まれ)も、子供のころ遍路と遊んだことや話を聞いたことが大変楽しかったと言う。だから、子供時代に、よその親が「ヘンドにやるぞ。」と子供を脅しているのを聞いても少しも怖くなかったと話す。
 以上、愛媛県内の善根宿の例を、遍路記と聞き取りから取り上げた。次に研究書(⑬)から善根宿について整理しておく。
 善根宿は、遍路に宿を請われて提供するより、むしろ積極的に呼びかける。遍路道や札所寺院で遍路に呼びかけたり、札所寺院に依頼しておいてその連絡を待つのである。宿に着いた遍路は、自分の足よりも先に金剛杖を洗う。宿の者が洗う場合もある。これは、遍路宿も同じで、杖を洗うことは弘法大師の足を洗うことである。「お遍路さんは、洗った杖を座敷の床に立て掛け、仏壇で読経する。善根宿では旅のほこりを落とすため、風呂をわかし、一番風呂に入ってもらう。(中略)翌朝、お遍路さんは、般若心経をとなえ、お札をおいて旅立つ。(⑭)」お札とは納札のことで、呪力(じゅりょく)があるものとされ、「小さな俵に入れて鴨居に吊しておいたり、あるいは札の弘法大師の姿の部分だけを切りとって戸口に貼ったりすることがある。そうすると魔除けになり、福を招く。(⑮)」とされ、納札を集めることが善根宿をする目的の一つでもあった。以上のような習慣がいつごろできあがったかは不明である。
 善根宿を始める動機の第1は、大師信仰である。同行二人といわれるように、遍路を泊めることは取りも直さず弘法大師を泊めることであり、弘法大師を供養することでもあった。そのため、毎月21日のお大師様の月命日を選んで善根宿をするのである。第2は、先祖の冥福(めいふく)を祈るためである。たとえば、親の命日とか不慮の事故で死亡した子供の忌日(きにち)などに善根宿を施し死者の供養とするのである。第3に、滅罪・招福のためである。家に病人が出るなど不幸が続いたりした場合に、その回復を願って行われるもので、千人宿などの願(がん)を立てたりすることも行われた。第4に、接待返しである。先祖や家族が遍路に出たときに親切にされたのでとか、家族の者が遍路に出ていてその無事を祈って行う善根宿である。第5に遍路に対する同情心や、代参を願う心情をあげる場合もある。同情心とは、八十八ヶ所霊場の全行程を苦行しながら歩く遍路たちの心を、少しでも癒(いや)そうとする気持ちである。また、代参とは、身体に障害があって遍路に行けない人たちや、仕事の都合でその時間が無い人たちが、遍路を自分の身代わりに見立てて接待し、功徳を受けようとするものである。

 (エ)通夜堂

 この時代、無料の通夜堂は各札所寺院や番外霊場の多くの所にあった。愛媛県内の札所寺院(26か寺)と主な番外霊場(9か寺)の合計35か寺に電話で調査(平成14年)した結果では、近代に無料の通夜堂があったとする寺院は、25か寺である。
 その運営方法などはほとんど不明である。高群は、最下級の遍路宿はもとより、野宿もかなり経験している。しかし、通夜堂の記述はない。ただ、雨峯は番外霊場の海岸寺で「通夜堂(つやどう)にはいざりの遍路(へんろ)、鉦(かね)をならして通夜(つうや)せり。(⑯)」と記している。内部の様子は記していないが、おそらく無料宿泊所である通夜堂の使用例と考えられる。
 賄い付き通夜堂は、雨峯の記述から判断して、二十七番神峯寺、二十番鶴林寺、十二番焼山寺、十番切幡寺、番外霊場の箸蔵寺及び仙龍寺にあったと思われる。この他に、愛媛県では番外霊場の出石寺(しゅっせきじ)、六十一番香園寺にその例がある。
 その宿泊の具体例として焼山寺をあげてみよう。雨峯は、「納經場(なふきやうぢやう)に至(いた)りて通夜(つや)を申込(まおしこ)みしに十二三の小僧帳面(こぞうちやうめん)を持(も)ち來(きた)りて、米(こめ)八合(がふ)十六銭外(せんほか)に宿料(しゆくれう)十二銭(せん)、三十銭(せん)で宜(よろし)う御座(ござ)いますと、(中略)全(まつた)く木賃式(ぼくちんしき)なり。(⑰)」と木賃宿と同じであると言う。
 愛媛県内では、出石寺が観音信仰の出石(いずし)講をもっており、高い山上に立地する条件も加わってか早くから通夜堂を持っている。記録によると(⑱)、元治元年(1864年)ころに「茶堂・通夜堂」の建設がなされている。ただ、18世紀半ばころには、「坊舎客殿を改修」とあり、客殿が通夜堂であったとすれば、その由来はかなり古くなる。出石寺には、現在(平成14年)も年間500人を超す遍路たちが宿泊している。今は、「通夜堂と呼ぶより宿坊(写真1-2-4)と言います。」と住職の神山諦典さん(昭和48年生まれ)は言う。香園寺の通夜堂は昭和18年(1943年)の宮尾しげをの『画と文 四國遍路』によると、夜には大師の一代記を幻灯で紹介したり、お説教があるなど(⑲)、現代の宿坊の原型ができているのに気が付く。賄い付き通夜堂は、地理的条件や信者組織の有無が大きな要因となって成立したと考えられる。

 (オ)組合宿

 近世に大坂(現大阪市)で始まった旅宿組合「浪花講(こう)」の動きは各地に広がっていく。遍路の宿には、そのような動きは無かったのか。まず、浪花講を概観し、次いで四国における遍路の宿の様子を述べる。
 浪花講は、江戸時代の旅宿が遊興の場のようになったり、一人旅の者を敬遠するなどの傾向が出た時、商用でよく旅をする商人たちが誠意ある宿を要望して結成したものである。大坂・江戸の町人が講元となり、文化元年(1804年)に成立した。浪花講の規則に、懸(かけ)勝負をする客を泊めないこと、遊女を買うような客を泊めないこと、宿で酒盛りをし、高声で騒ぐ客は泊めないことなどが記され、講の目的がよく分かる。こうして、誠意ある宿には浪花講の目印を、浪花講に入った旅人には鑑札を与え宿泊の便宜を図ることとなった。講の費用は、講元たちが負担して、宿屋や旅人に負担は掛けず、違反する宿は指定を取り消した。この組織は、多くの旅人たちに支持され、各地に三都講や東講などの類似の講を生んでいった(⑳)。
 遍路宿で、浪花講のように宿所の質の向上を図る動きはなかったのであろうか。以下にいくつかの例を拾ってみた。
 明治16年(1883年)に丸亀講中が出した『四國道中記(㉑)』がある。道中記としているが、中身は宿所名と里程のみの記述である。167回の遍路を達成したという五弓吉五郎(㉒)を世話人に、講元中として7人の名も記されている。この本に紹介された宿は180か所にのぼり、小集団の定宿(じょうやど)とは思えない。しかも、丸亀(現丸亀市)は、四国外の遍路の重要な上陸地点でもある。宿の講組織を思わせるが、丸亀講については、これ以外に何の記述もない。
 次いで、注目すべきは大正2年(1913年)の案内記である三好廣太の『再版 四國遍路 同行二人(㉓)』である。この本には「組合宿」の名称が見られる。「組合宿」を検討してみよう。
 大正2年の再版本は、一番霊山寺の近くで「宿屋も澤山ありますが、仁王門前の福田屋武三郎と、南へ一丁行き右側に角屋秀五郎が組合。(㉔)」という調子で、「組合宿」が示されている。二十八番札所から三十五番札所まで「組合宿」の紹介が途絶えるが、その部分で三好廣太は、「こヽから須崎まで三十二里余は、宿屋組合の連絡ができませんが、四十六年度にはこの連絡を通ずる予定です、諒せられよ。(㉕)」と記す。これからすると、彼が宿と連絡を取りながら宿屋組合を作っていたのが分かる。また、土佐安芸郡の甲(かん)ノ浦(現東洋町)では、「宿は沢山あるも、遍路姿の者には宿は少なし、当てにはならん…」とあり、過ぎて生見(現東洋町)では「両所が組合、この二軒の家屋は梢狭小なれども、土地柄として組合としました。」としている。土佐で宿を取ることの困難さと、「組合宿」の指定に多少の選択基準を持っていたことが分かる(㉖)。さらに凡例に、「組合宿」の記述がある。「書中屋號(このなかやごう)を掲(かゝ)げたる宿舎(やどや)は法人(ほうにん)にあらず只管奮來(ひたすらむかしより)の不評(ひやうばん)を正(なほ)し、誠意(まごゝろ)を以(もつ)て巡拝者(さんけいにん)を迎(むか)へ、四國人士(こくじんし)の面目(めんもく)を雪(そゝ)がん爲(た)め、公徳心(なさけごゝろ)の厚(あつ)き人(ひと)と申合私(もうしあはせわたくし)に組合(くみあい)を結(むす)びたるなり、若(も)しも組合(くみあい)に背徳行爲(ふゆきとゞき)を以(もつ)て賽者(さんけいしゃ)を待(ま)つ者(もの)あるか、又(また)は組外(くみあいのほか)にして殊勝篤志(こゝろざしのよ)き旅店(やどや)あらば併(あわせ)て本書編者迄御報(わたくしまでおしらせ)あらんことを望(のぞ)む。(㉗)」この本の目的は、誠意ある宿の提供であり、浪花講の精神と同じである。それを維持するための方法はあったのか。次の記述に、この本は毎年道の改修や宿の改廃その他沿道の変化を載せて増補するとあるから、悪い宿は次の本には載せないなどの方法が採られたのかも知れない。大正2年の再版本から13年経過した大正15年(1926年)に「増補第二十版」が出版されている。比較してみると、大正2年には組合宿が無いとした地域にも宿ができ、総数では120余であったものが200を超えている。それにもかかわらず、廃業したのか、意図的に不適格として載せなかったのかは分からないが、大正2年にあって同15年には載せられていない宿が24軒ある。
 さらに、大正12年(1923年)出版の四國道人著『第壹版 四國霊場案内』に、「指定宿(㉘)」という言葉が出てくるが、関連記事は何もない。「指定宿」の総数は80余か所である。組合宿と指定宿で15軒が重複している。
 やはり遍路の案内書に昭和4年(1929年)出版の武藤休山『増補修正第二版 四国霊場礼讃』がある。彼は、「遍路宿は春季は至る所に開業せられて不便は無ひが農繁冬季には宿泊に困ることもあるべし、本書記載の宿舎は組合指定の名称に依らず年中営業して親切丁寧を主とする宿のみを記し置きます。」と記す。この本の注目すべき点は、宿に宿泊する遍路の心得だけでなく、礼讃者(遍路)を受け入れる宿主の心得をも説いている点である。「一、礼讃者の来宿は大師の御弟子と心得親切に待遇すべし 一、室内、浴室、便所、食事、膳器具、夜具等、清潔を主とすべし 一、礼讃者の御米は大師への御供養物なれば受渡を正直にすべし 一、長途の労を慰せんが為め夜間は静粛にして安眠を害せざる事 一、警察令の示す病患者、又は汚衣、不浄にして他の感情を害する様な方は謝絶する事。(㉙)」というように宿への具体的要望が出されている。ただ、宿が違反した場合の処置については記していない。
 以上のことから、遍路の宿については、浪花講のような整備された組織を見ることはできなかったが、それを目指す様々な動きがあったことが分かる。しっかりした組織にならなかったのは、大半の遍路が、多くても数回の遍路で終わったこと、専業の遍路宿が少なかったことによると思われる。

 イ 現代の宿

 太平洋戦争で壊滅的状況になった四国遍路であったが、昭和20年代後半から増加に転じ、巡拝バスも始まっていた昭和30年代(1955年~)ころからは急速な増加を見せ始めた(㉚)。しかし戦後の遍路は、これまでの遍路とは大きく様相を変える形で復帰してきたのである。遍路を迎える宿の立場で見た時、その最大の変化は、交通の発達と、生活の質の向上という二つの側面を伴って遍路が復帰して来たということであった。この二つの側面が、宿にどのように影響を与えたかを取り上げる。戦後の時代の動きは、図表1-2-4の略年表を参考にしてほしい。

 (ア)遍路宿の動き

 **さん(昭和16年生まれ)がかつて経営していた大西町の遍路宿「えんぎ屋」は祖父母の代に始められたものである。始めた時期は、昭和初年で、ほかにも2軒の遍路宿があったが、この辺りでは「えんぎ屋」が一番早く始めた。大西町より前の札所は、松山市和気の五十三番円明寺であり、今治市阿方にある五十四番延命寺までは、約40kmの距離である。そのため歩き遍路の多くは、一つ手前の町である菊間で泊まるのが普通であった。次項の愛媛県内の遍路宿の分布を見ると、菊間町には遍路宿が多く、このことは理解できる。ところが、大正13年(1924年)今治駅まで汽車が開通し、続いて昭和2年(1927年)には国鉄松山駅が開業する運びとなった(㉛)。そうすると、途中に札所のない円明寺と延命寺の間は、汽車を利用する遍路が出始めた。遍路たちは、順打ちで延命寺に参拝するのに便利な、大井村(現大西町)で下車して宿泊し、翌日4km先の延命寺まで歩いていく方法を取った。その結果、大井村で遍路宿を営む道が開けたのである。
 「えんぎ屋」の経営を**さんの話で整理すると次のようになる。宿泊は、2階の3部屋を使って行われたが、多いときには1階の自分たちの部屋にも泊めていた。「昔の遍路は托鉢(たくはつ)で米を持って来ていた。お遍路さんに聞くと、最近は、托鉢しても共働きで留守の所が多いので托鉢にならず、米が手に入らないという話でした。」と言う。宿泊客は、行商人と遍路が半々くらいで、宿をやめるころには民宿の形での経営であった。「昭和30年(1955年)ころから高度経済成長が始まりました。車遍路やバス遍路が増え、大西駅で降りる歩きのお遍路さんは激減しました。国道196号のバイパスができて、昔は自宅前の遍路道(旧国道)を通っていたお遍路さんも通らなくなりました。続けるのなら、国道に出ていく方が有利ですが、子供たちは跡を継ぐ気も無いし、移転までしてと、昭和55年(1980年)ころに民宿をやめたんです。」交通機関の発達によって始められた「えんぎ屋」は、さらに新しい交通機関の登場で店を閉めた。
 木賃宿としての遍路宿は、太平洋戦争を挟んだ時期に無くなっていく。その具体例は、次項で見るが、現代遍路たちの生活水準の向上、歩き遍路の減少など遍路形態の変化、そして托鉢習慣の消失、これらが引き金になって遍路宿も変化を余儀なくされた。特に、戦争で激減した遍路は戦後復活してきても、歩き遍路としては復活せず、遍路宿にとっては集客にはつながらなかった。さらに、交通機関を利用する多くの遍路たちは汚れた遍路のイメージを無くし、ひいては一般の宿と遍路宿の垣根を取り払い、一般の宿にも遍路が宿泊し始めた。一方、経済の高度成長は、遍路宿の経営者の生活にも変化を引き起こし、収入を得る手段の多様化が、遍路宿を続ける必要性を減少させた。これらの条件が、多くの遍路宿を廃業させ、あるいは「えんぎ屋」のような民宿やビジネスホテルへの道を選ばせることとなった。
 平成7年に歩き遍路をした細谷昌千氏の遍路記『詩国へんろ記』によると、宿泊場所は、58泊中、旅館、民宿が40回を占め、宿坊が5回、ホテルが6回、国民宿舎など公共の施設が7回である。

図表1-2-4 現代略年表

図表1-2-4 現代略年表

愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 社会経済3 商工』P533~535・愛媛県生涯学習センター編『四国遍路のあゆみ』P169などより作成。

写真1-2-4 出石寺の大広間

写真1-2-4 出石寺の大広間

長浜町豊茂。平成14年10月撮影