データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

遍路のこころ(平成14年度)

(2)遍路の宿と人々の交流⑤

    c 松山市太山寺町から北条市までの遍路宿

 真念は、「太山寺村、爰に太山寺の総門有、是より本堂まで八丁。ふもとに茶屋あり。(㉚)」と記し、江戸時代前期に既に茶屋があったことが分かる。寂本の『四国徧礼霊場記』(元禄2年〔1689年〕)の太山寺絵図にも、茶屋として4軒の家が描かれている。また、『四国遍礼名所図会』に、「大(ママ)山寺村此所茶屋あり、支度いたし荷物を置是へ戻る(㉛)」とあり、これまた麓(ふもと)に4軒の茶屋があったと記している。この太山寺参道のお茶屋は、門前の接待に使われたところからお茶屋と呼ばれたが遍路宿でもあった。
 「明治期には『灘屋』『吉田屋』『崎屋』『布袋屋』『門屋(井筒屋)』の5軒のお茶屋があったが、『灘屋』は明治10年(1877年)ころ、『吉田屋』は同20年ころ廃業して山を降り、代わって『吉田屋』の離れを買い『木地屋』が開業したと聞いている。」と元お茶屋「木地屋」の**さん(大正7年生まれ)は語る。4軒のお茶屋の屋号は参道下手から、右側に「崎屋」「布袋屋」、坂を上がった左側に「木地屋」「門屋(井筒屋)」(写真1-2-15)があった。
 西端さかえ氏は、「本坊から諸堂のあるところまで約200m、その登りの参道に家が5軒ある。むかし、寺の陸尺(ろくしゃく)(人夫)だった人が家をもらってそのまま残されたのだそうだ。うち二軒が宿屋をしていて、一軒の屋号を『ねじれ竹』という。さらに登っていった反対側(左)の家には、山津波にあったときのことを木札に書いて門に掲げていた。山門の石段下は大樹の海である。(㉜)」と記している。「ねじれ竹」とは「布袋屋(昔は布川屋)」のこと、現在も伝説のねじれ竹が庭に生(は)えている。また「山津波にあった家」とは、鉄砲水で宿の半分を消失した「木地屋」のことである。家の傍に、水害のことを書いた石碑が立っている。
 さらに太山寺に来ていた接待講について、松山市教育委員会編『おへんろさん』には、「太山寺は、縁起によれば豊後の真野長者(まのちょうじゃ)が一夜にして建立したと伝えられているが、そうした因縁に基づくものだろうか。春に、大分県臼杵(うすき)市周辺から講員数十人が接待船に乗って伊予灘を渡り、三津浜に上陸、太山寺のお茶屋に泊まりこんで10日から1ヵ月近くも接待を続けたという。うどん製造機を持ちこんでのうどんの接待もあり、遍路以外の一般参詣者や付近の子供たちにまでふるまっていた。残念ながら、この風習は戦前にすでに消えてしまった。(㉝)」と記している。**さんは、豊後(現大分県)のうどん接待講について、「大きな団体で100人、いやそれ以上で、閏(うるう)年ごとに来よったですよ。本堂の西側に菰(こも)を張って、下でうどん粉を手でこね、うどんが機械から次から次へと出てきよった。実にうまかったですよ。私も学校から帰ったら、『食わせ、食わせ』いうて飛んでいきよったです。」さらに「本堂の裏に、こんまい地蔵さんが10も15もありますがな、接待に来る時に一つずつうずんで、太山寺へ持って来たといいますがな。」と当時のことを語る。現在太山寺の境内には、豊後のうどん接待講の石碑が立ち、本堂裏側の広場には豊後の接待講が寄進したという大小の地蔵が10体余り並んでいる(写真1-2-16)。
 元お茶屋「崎屋」の**さん(大正14年生まれ)は、「お茶屋は、泊まりもぼつぼつありましたが、部屋を貸して料理や茶をたしなむ所で、中にはビールや酒も出していました。ここでは、よく句会が催され、河東碧梧桐や松根東洋城などが来ていました。お茶を出したり、ここの名物のあんころ餅(もち)や蒟蒻(こんにゃく)を出していました。」と話す。「崎屋」の建物は2階建てで、部屋は襖(ふすま)で仕切られ、現在も管理がよく行き届き、老舗の高級旅館の様相である。「崎屋」の前の山裾(すそ)には、明治25年(1892年)子規が詠んだ「蒟蒻につゝじの名あれ太山寺」の句碑がある。さらに続いて、太山寺の有名な蒟蒻について「ここの4軒が尾道や久万から蒟蒻王を買うて加工して、『太山寺蒟蒻』として売ったんよ。明治の中ころは三津あたりにも蒟蒻屋がなく、ここから卸(おろ)しとった。」また、太山寺名物のあんころ餅と蒟蒻について「あんころ餅はな、麦の粉をつけて餅を小さくちぎって、一ロほどの平べったい餅を作り、その上にあんこをまぶしたものよ。蒟蒻は小さく板状に切ってしょう油で焼いた簡単なもの。これは酒の肴(さかな)によく売れましてな。」と**さんは付け加えた。
 太山寺のお茶屋は、また近郊の人たちの宿泊施設としての役割も果たしながら長く続いたが、終戦後間もない昭和20年代前半にすべて廃業し、伝統のお茶屋の灯(ひ)が消えた。現在、100年をゆうに越すという「門屋」は住む人もなく、傷みが目に付く。
 再び、参道を一の門まで打戻り、和気(わけ)の五十三番円明寺に向かう。円明寺裏門にある**さん方を定宿として、安芸(あき)三津口(現広島県安浦町)の接待講が、円明寺において接待を行っていたというが分からない。和気の町を過ぎ堀江町にかかる。かつて松山の堀江と呉の仁方(にがた)を結んだ国鉄の「仁堀航路」があったころは、港近くに宿があったと思われるが確認できない。遍路道は今治街道と交差しながら北進し、粟井坂を越え風早(かざはや)郷に入る。柳原地区や新開地区には昭和12年(1937年)ころやめた「秋山」や、戦後しばらくの間やっていた「油屋」などの木賃宿があった。北条の町を過ぎ、「鎌大師」を経て鴻之坂を越えた麓の浅海(あさなみ)・味栗(みくり)にあった「植木屋」という屋号の遍路宿は、昭和10年代前半まで遍路を泊めていた。さらに海寄りの本谷地区には、駄菓子屋を兼業した(コ)印(安永コヌイ)の遍路宿があり、ここで一服して窓坂越えにかかった。窓坂を越せば越智郡菊間町である。

写真1-2-15 かつてのお茶屋「木地屋」と「門屋」

写真1-2-15 かつてのお茶屋「木地屋」と「門屋」

松山市太山寺参道。太山寺参道。木地屋(前方)と門屋(後方)。平成14年12月撮影

写真1-2-16 豊後の接待講が寄港した地蔵

写真1-2-16 豊後の接待講が寄港した地蔵

松山市太山寺町。太山寺本堂裏。平成14年5月撮影