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遍路のこころ(平成14年度)

(2)伝承による各種技術の伝播①

 前田卓氏は、「他国の遍路さんが山間僻地に入っては、いろいろの農業技術や農作物の作り方を教えたことは容易に想像できる。また、他国遍路の意図の有無にかかわらず、ニュースの伝達の機能を果したことは言うまでもない。(①)」と記しているが、反面、四国のある地域で知り、学び得た技術が他の地域に広まっていったことも想像に難くない。
 この項では、大師伝承に帰された技術の伝播(でんぱ)をも含めて、各地に伝承される、遍路や巡礼による各種技術の伝播の一端を探った。

 ア 民間療法の流布

 (ア)灸治療の普及

 温熱刺激によって身体の組織に活力を与え、病気を治療する中国の古代医療は、仏教などと共に日本に渡来したといわれるが、現在では庶民の生活のなかにとけ込んだ一種の健康法ともいえる。遍路が鍼(はり)や灸(きゅう)の技術をもち、行く先々でお大師様への供養のため、ないしは身過ぎ世過ぎのために人々にそれを施すことも、かつてはそんなに珍しいことではなかったという。高群逸枝の遍路行に同行した伊藤老人も鍼灸などの心得を持ち、先々で施術しているが、遍路中は謝金を受け取らなかった(②)とある。
 それらの中で、お大師灸、弘法灸などと呼ばれて地域社会に定着したものもある。

   a 徳島市に伝わる砂灸

 徳島市上八万町の勝野家に伝わる砂灸は現在(平成14年)も盛況を見せている。
 『徳島新聞』には「春本番」の見出しで、「春分の日の20日、(中略)各地とも4月上旬から下旬の暖かい一日となった。徳島市も18.5度(平年13.7度)まで気温が上がる春本番の陽気。同市上八万町田中の勝野政一さん(61)宅では万病に効くという『砂灸』があり、県内外から家族連れら約1,500人が訪れ、無病息災を祈った。(③)」と報じている。
 砂灸とは、次のようなものである。長さ3m、幅50cmほどの木の枠を10の区画に仕切り、中に川原の細かい砂を入れる。それを幔幕(まんまく)で囲まれた裏の土間に敷かれた筵の上に置く。灸をすえてもらう人は、西側から各自一つの枠の中に入り、砂の上にかかとをそろえて立って足跡をつけ、東側へ出る。すると勝野家の人や親類の人も総出で、この足跡の上に灸点を降ろし、もぐさを置き点火するというわけである。足に直接灸をすえるのではないが、この効き目があらたかだというので、近郷はもとより、神戸、姫路、淡路島などからも大勢詰め掛けてくるという。当日、勝野家を訪れた人々は母屋の床の間に掛けてある弘法大師の掛け軸を拝み、さい銭を入れる。このさい銭や心付けで砂灸の費用が賄われ、あとは一切無料である。この砂灸は、春秋の彼岸の中日に行われる。平成14年の秋分の日(9月21日)の砂灸も門前列をなし盛況であった。
 この砂灸には次のような伝承がある。
 その1は、「昔この田中村に一人の巡歴僧がやってきて一夜の宿を乞うた。勝野家の先祖が快く泊めてやると僧はたいそう喜び、『お礼のしようもないが、あまねく人々に砂灸加持の奉仕をすれば、家運はますます栄えるであろう』と言って、砂灸の法を伝授してくれた。旅憎が弘法大師だったのはいうまでもない。(④)」という大師伝承に帰されている。
 その2は、「一夜の善根宿を求めたお遍路さんに、家の主は快く応じた。ところが、勝野家の女房が病気である由を聞き、そのお遍路さんが砂の上に病人の足跡をつけ、稲の藁しべをもって縦横十文字の中心をとり、そこに三火ずつのお灸をすえる、いわゆる砂灸を施し、女の病気を治してくれたのが始まりだ(⑤)」という伝承である。
 宮崎忍勝氏は、砂灸の背景には、太子(偉大な人)がいつも四国を巡歴しているという古い民俗的太子信仰と、弘法大師もいつも四国を修行して歩いておられるという大師信仰が重なっているのであり、かつ砂灸をもたらしたお遍路さんも修験者の一人ではなかったかと推測している。ちなみに勝野家のある上八万町の街道筋は、修験の山十二番焼山寺に至る道筋にあたるという。
 同氏はまた、勝野家では近隣の人を相手に行っていたが、勝野家の本家が木綿のさらし業を営み、足袋(たび)の底をさらして鳴門市撫養(むや)町の足袋問屋と取引をしていたという関係から、足袋問屋の口から諸国のお遍路さんの間に、広く田中の砂灸の話が伝わったものであろうとも推測している(⑥)。
 さらに阿波国で行われた他の灸として、次のような伝承が報告されている。
 真野氏は、阿波国立江(現徳島県小松島市)の漁師北山矢太郎(昭和48、9年ころに77歳で死亡)が疝気(せんき)の病(腹や腰の痛む病)に苦しみ、胃ガンで亡くなった父と同じ病気ではと恐れていたのを、遍路中の老婆がこの病に効く灸を伝授して、病気を治したという疝気の灸を紹介している(⑦)。また宮崎氏は、阿波国麻植郡川島町の川村家では、遍路が善根宿の接待の折に、稲の藁(わら)しべで灸点を降ろす、いかにも素朴で農民を主体とする江戸時代の四国遍路の信仰にふさわしい灸を伝えていると記している(⑧)。

   b 土佐に伝わる灸

 坂本正夫氏は、昭和57年(1982年)に聞き取り調査した高知県に伝わる灸の伝承を報告している(⑨)。
 その1は、高知県高岡郡中土佐町久礼にあったお大師灸である。山下家の5代前の兵平衛という者が出買舟のカシキ(炊事夫)をしていたときのことだが、佐賀(幡多郡)の港に停泊していたとき、汚らしい身なりの遍路が来たので米を与えた。しばらくすると同じ遍路がまた来て、「泊まらせてくれ。」というので泊まらせた。喜んだ遍路が「病気で困っている者があったら、これで墨をつけて灸をおろしてやれ。」といって矢立をくれた。翌朝早く起きてみると遍路はいなかったが、船霊さまの前に矢立だけが置かれていた。この矢立で墨をつけて灸をおろすと、どんな病気にもよく効いたという。
 その2は、須崎市安和地区の古谷忠義氏が30歳(大正14年〔1925年〕)ころのこと、広島県出身だというみすぼらしい遍路が浜辺で野宿をしていたので筵(むしろ)を貸してやると、喜んだ遍路がお礼だといって痔(じ)、腰痛に効く灸を教えてくれたという。
 その3は、室戸市行当の山中竹一氏に聞いた話として、氏の祖母ハナさんが遍路に善根宿を恵んであげたので、その遍路から突き目に効く灸、痔によく効く灸を教えてもらった。山中さんが子どものころ(明治末~大正初期)には、田の草取りをしていて突き目をした人や痔で苦しむ人などが、よくハナさんの所へ来て灸をしてもらっていたというのである。
 その他、須崎市切畑地区、高知市五台山地区、南国市下田地区にも遍路が伝授した灸を伝える家があったという。

   c もぐさの普及

 天保4年(1833年)の遍路記『四国順禮道中記録』の手扣(てひかえ)末尾に「心易方々へ送り土産物別帳に印可有之候事」として土産一覧が記されているが、その中に「大師御影」と並んで、「道後もぐさ」・「艾(もぐさ)」・「もくさ」が見られる(⑩)。また、道中諸雑記覚の3月24日の道後温泉宿泊の日に「もぐさ袋 拾壱」が書き留められている(⑪)。四国遍路中の数少ない温泉宿での休養、そこで購入するもぐさを入れた袋には「豫州道後温泉略図」が描かれ「湯ざらし艾」と品名が表示されている。この品が帰郷後、遍路土産として配られることにより、様々な話題を提供したであろうことは容易に想像できる。現在道後温泉事務局には天保14年木版刷りのもぐさ入れの袋が展示されている。
 また、善通寺の町では「衣服の上よりすゑる御大師様の不思議のやいと」として「讃州屛風浦五岳山霊草 大師艾」が売られていたという(⑫)。

 (イ)石風呂の普及

 仏教の伝来以降、人々の心をとらえていったのは、病気を治癒し、長寿を保つことを本願とした薬師信仰であった。この薬師詣でに湯治が結びつき、それぞれの病気に特有の効果があるということで各地の温泉地に病人が集まった。四国遍路は、伊勢参りとともに、病気平癒・無病息災のためにお参りする人が多かったという(⑬)。こうした薬師信仰に大師信仰や地蔵信仰が結びついて民間の医療施設として瀬戸内海の沿岸部や島しょ部を中心に特徴的な分布をみせるのが石風呂(いしぶろ)(写真2-1-11)である。
 この瀬戸内地域に分布する石風呂は、自然の洞窟(どうくつ)や石積みの室(むろ)を利用した蒸し風呂であり、この中でセンバ(松の小枝)やシダを焚(た)いて温め、モバ(アマモ)や潮水で濡(ぬ)らした筵(むしろ)を敷き、その上で温まった(⑭)という。
 この石風呂の起源についてはよく分からないが、喜代吉榮徳氏は、「香川県の長尾町の<からふろ>は行基菩薩が教えたと言われている。最近でも同町の福祉の里にこうした石穴式の<からふろ>が利用されている。こうした古代式の風呂は他所にもある。愛媛県今治地方にも現在夏季シーズンのみ石風呂として多くの入浴者を迎えている。山口県防府の阿弥陀寺辺りだったか、やはり東大寺再建の勧進僧として有名な重源の教えたとされる石風呂がある(⑮)。」と記している。四国の瀬戸内海沿岸では弘法大師が伝授したと伝えるところもあるが、山口県佐波川流域では俊乗房重源上人であるという。また、大分県内の石風呂の多くも、俊乗房重源の招来といわれているが、別府市鉄輪(かんなわ)の蒸風呂は一遍上人の構築といわれている。いずれにしても石風呂は、大師信仰・薬師信仰・地蔵信仰とも結びついており、印南敏秀氏は、「元来、僧侶の潔斎や保健衛生のために利用された蒸風呂が、重源のような僧によって、民衆に広められていったものであろう。(⑯)」と指摘している。
 愛媛県今治市の桜井の石風呂は、「日本のなぎさ百選」に選ばれた風光明媚(めいび)な桜井海岸の一角にある。『伊豫国越智郡地誌』には、「石風呂、(中略)毎年四月一日二開業シ、七月十日二至り閉坑ス。其闘入浴スル者、男女合テ、凡弐千五百人、其功能タル疝癪、或ハ腰痛ヲ治スルニ善シ。(⑰)」とある。
 桜井の石風呂開設には、高貴な身分の姫君がこの地に漂泊してきたという貴種流離譚(たん)の伝承や、法華寺(国分尼寺)の寺伝があるが、『愛媛県史』には、「その他、弘法大師と脈絡づけて、昔、大師が桜井の里近くを行脚していたとき、手足なえて行き倒れている旅人を見つけて石風呂のことを教えてやると直ちに回復したといい、これが桜井や付近の石風呂の起源であるともいわれる。もちろん、文献的にもその起源をたどることは困難で、(中略)南明禅師の入浴碑文を最古とする。すなわち、『巖洞に柴を焼て海藻を敷き 万病を平治す 一方浜 医士善逝如来の徳 遊泳溢余 幾許の人』(原漢詩)とあることから、天和元年のころには民間医療施設としての桜井の石風呂が存在したことが理解される(⑱)」とあるように、石風呂周辺には、天和元年(1681年)の南明禅師の漢詩碑や寛政7年(1795年)の「温石窟縁起」を伝えた石碑が立っている。
 八幡浜市栗の浦にも石風呂があった。『宇和舊記』によると、弘法大師の作という山口県大島郡久賀町の石風呂を模して慶長5年(1600年)に造ったとある(⑲)。『八幡浜市誌』には、「慶長5年は関が原の戦いの年で藤堂高虎は多忙の時であったにもかかわらず、このような民衆の医療施設を造り民政に意を用いていた。(⑳)」とある。
 このように、かつて瀬戸内海に50近くあったとされる石風呂はほとんど姿を消し、今や貴重な文化財となり、現存する石風呂のうち、山口県大島郡久賀町と佐波郡徳治町の石風呂、大分県速見郡山香町長田地区と大野郡緒方町尾崎地区の石風呂は、国の重要有形民俗文化財として指定されている。

 イ 農業技術の伝播

 (ア)稲作技術の導入

   a 薄植え稲作技術の実験と導入

 『春野町史』には、東諸木村(現高知県春野町)の庄屋堀内市之進の封建制下の農村における米の増産への努力、先導者としての苦心談を紹介している(㉑)。
 その堀内市之進の『治生録』には、寛政3年(1791年)薄植え(ここでは、坪〔1坪は約3.3m²〕当たりに植え込む稲の株数を減らす方法をさす。)の必要性を説いた意見書(㉒)を藩に具申している。
 それによると、「私儀近年諸作試候所、就中稲作二気を入申候、依之日ヽ罷通候四国辺路二相尋候所、諸国共薄植仕、国二寄クラニ付弐合或四合毛と申積仕候由、何国を承りても御国程厚植者無御座候]とあり、東諸木村を日々通る他国の遍路に稲作のことを尋ねてみたところ諸国とも薄植えであることを知る。そこで寛政2年(1790年)自身所有の田と近隣の農家所有の田で厚植え(従前の方法)と薄植えの比較実験を試み、その収穫量を「寛政二戌ノ秋稲作厚薄様苅左之通」としてまとめている。結果は薄植えの方が坪当たり生産籾(もみ)高で0.5升(1升は約1.8ℓ)以上の増収をみている。
 この実験結果に基づいて、坪当たり平均2合(1合は約180cc)増収としても土佐一国では米5~6万石(1石は10斗、1斗は10升)の増収になるとして薄植之の効果を述べている。しかし従前の厚植えの方法に慣れた農家では、一代で薄植えに切り替えるのは困難であろうから、ぜひ「村々において弐、三代程にて厚薄の試し仰付け」られるようにと藩に具申する。寛政3年(1791年)のことである。
 『春野町史』は、この具申を「見事な発想でありまた実際的な処理能力であるというほかはない。(㉓)」と結んでいる。坂本正夫氏は、「今まではつぼに150株植えていたのを100株に減らして実験し、以後これが土佐の田植えの標準になったといわれている。(㉔)」と調査報告している。

   b 山間地における薄植えの導入

 「一宿の『二世遍路』の教え」「豊作めぐる佳話」との大見出しで、『毎日新聞』は新しい薄植え(ここでは1株の稲の苗の本数を減らす方法をさす。)の稲作技術導入の成功を大きく報じている。
 報道記事はおおよそ次のようなものである(㉕)。
 昭和30年(1955年)6月12日、三十九番延光寺門前の小林氏宅に一夜の宿を乞うたブラジル国籍のジョージ・トーム(75歳)という日系二世の遍路が、夜の四方山(よもやま)話から稲作談義に移った時、反(1反は10畝。1畝は約1a)当たり17俵(1俵は4斗)の収量をあげる稲作方法を教えようともちかけた。小林氏も始めは相手にしなかったが余り熱心なので耳を傾けて聞き入った。この老二世遍路が教え、小林氏がそのとおりに持ち田3反6畝全部に実施したという方法は、1尺(1尺は約30.3cm)四方に2本植え、肥料は田植え前に元肥として配合肥料10貫(1貫は約3. 75kg)をやり、追肥として一番除草にカリを4貫、硫安5貫、リン酸5貫を施肥するのみというものであった。
 現地を見た農業相談所技師は「一穂200粒内外(普通の場合100粒内外)で完全に稔、不稔粒なく、健全無病である。」と談話を寄せている。昨年の反収5俵にくらべ2.5倍という好成績は話題を呼んで遠く中村市付近からも見学の農家が押し寄せた。小林氏はもちろん、付近の農家も来年はぜひこの方法でやりたいと言っているという趣旨のものである。
 この稲作技術導入成功の話は、西端さかえ氏の『四国八十八札所遍路記』にも詳しい。それによると、先日遍路から金を騙(だま)し取られて沈んでいたこの一家に対して、ブラジルから来た二世遍路が米の増産方法を教えようと言って、「米作原則」6か条と施肥の方法を墨書してくれたという(㉖)。
 坂本正夫氏は昭和59年(1984年)に直接小林等氏から聞き取り調査を行って同様の内容のことを報告して、「周囲の田に比べてあまりにも薄植えでさびしかったが、株はどんどん分けつして増えて見事に成長し、収穫時には大変な増収になった。これがきっかけで宿毛地方に稲の薄植えが広がったが、小林さんは『お大師さんが授けてくださったのだ』と話してくれた。(㉗)」と結んでいる。

 (イ)葉煙草栽培の導入

 広谷喜十郎氏の「豊永煙草雑考」には、「土佐での煙草栽培のはじまりは、元和、寛永年代の頃で、豊永郷川井村の農民平吉が四国巡礼の際、伊予の宇和島で九州の人からその種子をもらいうけ、自家の畑に栽培したことによるといわれている。(㉘)」と紹介している。
 江戸時代、喫煙慣習の急速な広まりにつれ、幕府から厳しい禁止令や各藩の統制令が出される。にもかかわらず喫煙慣習は根強く広がる。土佐藩では煙草(たばこ)は本田では栽培してはならぬという掟(おきて)が布告される。しかし、それは一方では本田以外での煙草栽培を間接的に認めたことであり、以後本格的な栽培が始まり、商品作物としての作付面積は増加していった。その流れのなかで、豊永郷川井村(現高知県長岡郡大豊町)の煙草は土佐を代表する物産となり、近郷のものも含めて川井煙草の名称を付けて売り出されるようになったという(㉙)。
 この豊永郷に近い阿波国山城谷地方(現徳島県山城町)の煙草栽培にも伝承がある。『山城谷村史』には、「慶長17年のころ、諸国廻国の修験者があった。この修験者が煙草の種子を携えて、本村大野名へ来て、これを植えた。これが本村の煙草栽培の始めである。(㉚)」とある。この山城谷に煙草の種子を持ち込んだ四国遍歴の修験者の実名が分からなかったので、村人は、その容姿から「大坊主」と呼んだり、生国が筑後(現福岡県)であったので「筑後坊」と呼んでいたという。
 この筑後坊の徳業を顕彰するために、昭和27年(1952年)に、大野の墓所観音堂の境内に、煙草の葉を胸前に持った高さ3尺の石像(写真2-1-12)を建立し、盛大な開眼供養式をしたという。その石像の台石には、「御坊ノ尊霊ヲマツリ以テ報謝ス」との撰文が刻まれている。この伝承について「四国遍路における山伏の働きというものは広範囲にわたり、農民の実際生活に寄与したのであった。(㉛)」と宮崎忍勝氏は述べている。
 なお、天明年間(1781年~1789年)には山城谷村に宮前煙草が現れる。同村粟山名の百姓庄蔵が天明4年(1784年)高野山に登り弘法大師を参拝し、伊勢神宮を経ての帰途紀州において「剣先」という煙草の種子を得、帰村の後これを自宅付近の神社前の畑に植えた。これが土地に適して味は淡白、ニコチンの含有量も少ないので広くもてはやされたという。この宮前煙草は、別に「お大師煙草」とも称されたが、それは庄蔵が弘法大師参詣によって得た煙草だからであるという(㉜)。

 (ウ)石灰製法の伝播

 石灰は古来、紙・鰹節(かつおぶし)・珊瑚(さんご)などとともに、土佐の名産に数えられており、現在においても高知県を支える重要な産業の一つとなっている。
 この土佐の石灰生産は慶長年間(1596年~1615年)に貝殻を焼いて作った貝灰に始まり、享保15年(1730年)に美濃屋と大和屋が長岡郡下田村稲生(現南国市)で石灰石を焼き始めて本格化するが、不振に陥り一時衰微する。これに起死回生の処置がとられたのは、文化13年(1816年)以後のことであったという。『高知県史』によれば、「新しい技術の導入と熱心な企業家の出現、そして製品に対する需要の増大」が図らずも一致した(㉝)と記している。『高知縣史要』には、寛延・宝暦(1748年~1764年)のころまでは、石灰は単孔竃(かまど)(坊主竃)で焼いていたが、「阿波の人石灰頭司徳右衛門といへる者、本式竃に改良し、この法傅はりて今日に至る、賓に徳右衛門は土佐石灰製造の恩人なり」と記し、阿波の石灰頭司徳右衛門が阿波流の築窯法と石灰製造法の新しい技術を伝授したとある(㉞)。
 この徳右衛門について『室戸市史』は「石灰頭司徳右衛門」の項をおこして詳述している(㉟)。
 伝承によると、文化年間(1804~18年)に阿波の徳右衛門という者が四国巡礼中に長岡郡下田村で行き倒れたが、村人の手厚い看護で元気になった。徳右衛門は恩に報いるために石灰焼きについて築窯法と製造法を教えて阿波に帰ったが、国産石灰製法を他国に漏らした科(とが)で罰せられるとの噂を聞き、逃れて再び土佐へ来て安芸郡羽根浦(現室戸市)に永住し失意のうちに没したという(㊱)。
 また一説には、四国遍路中の徳右衛門が二十六番金剛頂寺を打って海岸線沿いに次の札所神峯寺へ向かう長丁場で羽根岬を回ったところで病に倒れた。村人に発見され介抱を受けたが病は重く、3か月後に回復をみる。徳右衛門は羽根の村人への感謝から法を犯して石灰業の阿波独特の秘法を村人に伝える決意を固め、良礦石(こうせき)の出る稲生に村人と共にやってきて、その焼き方を実地に伝授したのであった。徳右衛門はこのため阿波へ帰国後打ち首になったとも伝えられているとあり、「徳右衛門の墓は羽根浦にあるが、徳右衛門の死については、大泉寺の過去帳が弘化からしかなく、羽根で没したことを決定づけ得ない。(㊲)」としている。
 『南国市史』によると、この後、文化13年(1816年)に万屋助八が美濃屋の株を譲りうけて柳屋金十郎と組んで組合を作り下田村で石灰業を始めるが、文政2年(1819年)にこの株を桜屋太三右衛門が買い受けることになる。これは柳屋の手代慶蔵が阿波の徳右衛門から石灰製法の秘法をうけて下田で製造を始めた時、桜屋から資金の提供を受けたためといわれている(㊳)。
 一方『高知県史』によると、土佐国で米の二期作栽培が行われるようになったのは文化年間末から文政期にかけてと推測されている。この二期作の肥料に石灰がきわめて有効なことが明らかになるにつれ、桜屋は農家への普及を図り、それ以来販路が大いに伸び、従来土佐の石灰生産量が年平均1万俵ぐらいであったものが、文政3年(1820年)には安芸・香美・長岡・土佐・吾川の5郡で、肥料用石灰として販売された量は7万1千俵余に達したといわれる。江戸や上方で売りさばく為登(のぼせ)灰も毎年14万俵に達し、年をおって石灰業は盛況をみたとある(㊴)。

 ウ 漁業技術の伝播

 (ア)「釣り針」製造技術の伝播

 播磨国(現兵庫県)とりわけ北播磨地方の地場産業として、三木市の大工道具、小野市の鋏(はさみ)と鎌と並んであげられるのが加東郡と多可郡・西脇市の釣針である。
 この釣針については、天保年間(1830~44年)に源右衛門が京針の技法を持ち帰ったとか、弘化年間(1844~48年)に新兵衛が京都で習得したなどの説がある。これらの説にもみられるようにこの北播磨地方は丹波道を経ての京都との往来が頻繁であり、また加古川舟運による高砂を玄関口とする大坂とのつながりの強い地域でもあった。このことからも各地製造の釣針が当地にもたらされたことは想像にかたくないという(㊵)。ただ京針は遊漁用で、本格的な漁業用の土佐針とは違うといわれる。
 この本格的な土佐針の製法の技術を習得し、さらに製造技法の開発を進め、この地方で製造を始めるとともにこの技法を公開し多数の門人を養成し、また同業者の組織化を図り、当地方の釣針の職祖と仰がれているのが小寺彦兵衛である。
 この彦兵衛の技術習得にも四国遍路との関係が伝承されている。
 『新修加東郡誌』には「加東の人物」の項に小寺彦兵衛を取り上げている。それによると、小寺彦兵衛(寛政11年〔1799年〕~明治3年〔1870年〕)は、加東郡米田村下久米(現社(やしろ)町)で代々庄屋を務める家柄に生まれ、長じて彼も庄屋となった。この間厳しい貢租取立ての藩と不作にあえぐ農民の間に立って心を砕いた。天保の大飢饉(ききん)、とりわけ天保4年(1833年)の多雨冷害の被害に見舞われた加古川流域では、加古川筋打ちこわし、つまり天保の米騒動といわれる大一揆が起こり、当初農民をなだめる側に立った彦兵衛も、阻止できないと知るや自らも一揆の渦中に身を投じたため投獄され、釈放後の天保13年(1842年)四国遍路に出かけ、その折に苦労を重ねて土佐の釣針の技法を習得したという(㊶)。
 小寺彦兵衛の墓の側面に刻まれた碑文には、「…就中遠き土佐之国高知に至りて殊に辛酸万苦し竟に其妙を得文政元寅年より専ら釣鈎を製造し普く諸方売弘む誠に播磨国釣鈎之元祖也……」とある。
 この伝承を宮本常一氏は、「社町の下久米に小寺彦兵衛という百姓がおり、若いとき四国八八ヵ所の旅に出た。(中略)彦兵衛は旅をつづけて土佐の高知の城下までいった。そこの広瀬丹吉の家で釣針をつくっているのを見かけてつよく心をひかれた。針金をまげて釣針をつくることは郷里の人にもできそうである。農業一本でまずしく暮らしている郷里の人たちにこのような手仕事を習わせたら生活も楽になるであろうと考えて、そのまま順礼をやめて丹吉の家へ住みついた。天保の初め(1830年)ごろであったというが、丹吉の家に住みこんで下男をつとめること13年におよんだという。そしてやっと釣針をつくる技術を身につけた。(㊷)」と語る。さらに、これについては異説もあると断った上で、いずれにしても彦兵衛がこの地方の釣針製造に大きな功績のあったことは間違いないとしている。
 土佐文夫氏は「四国遍路考」に、「ある冬の朝、店を開けると白装束の遍路が店の前で行き倒れていた。すぐに店内に運びこんで介抱したが病は重くとうとう一年間も寝ついてしまった。この遍路は播州(兵庫)の庄屋のせがれ尾寺彦兵衛であった。彼の父は百姓一揆の先頭に立って斬殺され、一家断絶となり、このため父の供養に遍路にやってきた」という。そして彦兵衛は、村人に手職を与えるために釣り針の製法を教えてもらいたいと頼み込んだ。主人は快くそれを認め、それから彼はこの店で手打ちの釣り針製法を身に付け、さらに腕をみがき、播州へ帰ってその製法を広めた。「それが半農半工に向いた播州の地理的条件にマッチして、彼の伝え穴釣針製法は急速にひろまった。そして今日では彼の伝えた釣針が、とうとうその量産において全国第一位となるに至っているのである。彼尾寺彦兵衛は兵庫県で釣針開祖者として銅像まで建っている。これは土佐独特の文化が遍路を介して他国へ流出したケ-スである。(㊸)」と記している。
 このように彦兵衛が四国遍路に出て、土佐から釣針製造の技法を習得して帰った点では一致する。ただ、四国遍路に出かけた時期や動機、四国での技術習得の理由や方法・その過程は定かでない。また、当時土佐釣針は土佐藩の専売品(禁制品)には入っていなかったようであるが、特殊技術の伝授はなかなか許可が出ないのは今も昔も同じである。そのため、技術習得が10年余りという長期間に及び、また、嘉永4年(1851年)の帰郷後も播州釣針製造に至るまで幾多の試行を繰り返している。この間の事情は伝聞によるためこの伝承には異説も多い。
 小寺彦兵衛が偉大であったのは、「爾来、専心斯業の発達に留意し、弟子を四方に求めて業を授くるに吝ならざりしかば、其の製法忽ちにして遠方に普及し、播磨丹波は勿論丹後三備の地方に拡がれり(㊹)」とあるように、この釣針製造の技術を秘法とせず、弟子はもちろん同業者にも公開し、多くの後継者を養った点にあるという。こうして郷人の農閑余業として導入された技術が、北播磨地方の大きな地場産業に発展していくことになった。

 (イ)漁網の伝播

 『高知県史 近世編』は、「近世300年間に土佐国の水産を不動としたものは、沿岸における網漁業の発達と、鰹釣り漁と鰹節の製造および鯨漁の四つであると考えられる(㊺)」と記している。
 一方、『須崎市史』には、「かつては、『磯は地附、沖は入会』という言葉があり、全国的な漁業慣習で、海浜はその土地のものが漁業権をもち、沖に出れば遠近を問うことなく漁業が自由に行われたことを物語るもので、領主は定棲性の魚類や貝類については独占的な水面利用を附近の部落に特許するか、又はその独占利用の慣行を容認したが、沖合を回遊する魚族については、その漁場を共同的な利用に開放するのが原則であった。即ち入会権が認められていた。」と記し、また、「近世初期から沿岸に地引網、沖合に大網・八太網の二種があったようである。(㊻)」ともある。
 この沖合いの網漁業などの漁業技術についても遍路が伝えたという伝承がある。
 その1の八太網(八田網)について、『高知県史 民俗編』には、「約200年前岡田八太という紀州の人が四国巡礼のため土佐に来国し、安芸の浜辺で鴎の群れの飛んでいる状況をみて漁場と認め、後日安芸に移住して考案したのが八太網という伝承があるが、他の資料にも安芸市の酢屋の岡田氏の先祖岡田八田が紀州より巡礼に来たり、漁師を連れて帰国の途中鴨の居るをみて以来、土佐九十九浦の筆頭漁場として安芸市伊尾木松田島の名が知られるようになったというが近世初期からあったとされる。(㊼)」と2説を1文で紹介している。この前半部の伝承について、『高知県史 近世編』には、「寛文改替資料から考えて200年前は正しくないが、近世初頭発案は正しいことであろう。(㊽)」と記している。坂本正夫氏は「室戸市には阿波の漁民が四国遍路中に魚が群遊しているのを見て、後にここに移住して開いたと伝えられる漁村もある。(㊾)」とも記している。
 その2は、土佐の大敷(式)網漁は、「六部遍路から(中略)教えられた。(㊿)」技術だという伝承である。『高知県史 民俗編』によると、人口の増加する浦々では更に漁獲高を上げたく思っていた時に、弘化3年(1846年)、長門国(現山口県)の六部が通りかかり大敷網のことを教えられたとあり((51))、『大内町史』には、「大敷網 従来は前述の越網等によって海浜に群集する魚族を獲っていたのであるが、唯魚の去来に左右されたので人口の増加に伴い部落を維持する為めに、橘浦の庄屋岩田順吉は更に漁獲をあげる方法はないかと考えていた矢先、弘化3年長門(山口県)の六部がたまたまやつて来て一魚も漏すことなく獲る事の出来る大敷網の有ることを教えたので、伯父の源蔵をやつて其の漁法を習い、嘉永元(2)年(1848年)漁夫20人を雇い来て橘浦に敷設しようとしたが部落民の反対に合い泊部落、白崎の沖に敷設した。これが所謂三角式で大敷の始め((52))」とある。
 ところが、『上ノ加江町史』によると、上ノ加江(現中土佐町)では弘化・嘉永のころは鰤(ぶり)建網によっていたが、大敷網の講演を聞いた窪添慶吉が、明治31年(1898年)に加江崎沖に敷設したのが高知県最初の三角式大敷網である。「これに刺激されて、高知県下の漁村に大式網が敷設せられるようになつた((53))」とあり、土佐における大敷網の起源には異説がある。

 工 和紙抄紙法の習得

 (ア)土佐の七色色紙

 近世土佐紙業の祖安芸三郎左衛門家友の前半生を「永禄年間、群雄割據の際、安藝郡安藝の城主安藝備後守國虎、長宗我部元親の爲に滅さるや、國虎の次男三郎左衛門、時に年八歳、家士に助けられ退て阿波に幽居す、後天正の初年、高岡郡波川の城主、波川玄蕃も亦元親の爲に滅せられ、その室、尼となり養甫と稱し、土佐郡成山村横藪に閑居せしが、三郎左衛門は、元来養甫と叔姪の關係あるを以て、窃かに招還せられ、共に成山に寄寓す。((54))」と『高知縣史要』は記している。
 寿岳文章氏は、近世土佐和紙の歴史について、養甫尼と安芸三郎左衛門家友が土佐郡成山村(現高知県伊野町)で佗(わ)び住居を続けていた天正3年(1575年)の秋、伊予国宇和郡日向谷村(現愛媛県日吉村)の新之丞(別に彦兵衛とも)という紙漉(かみすき)が入村して、養甫尼の一家と共に抄紙(紙漉き)法に色々と工夫を凝らし、七色紙その他の紙の漉き立てに成功した。やがて慶長元年(1596年)、久々に故郷伊予へ帰ると出で立った新之丞を、先廻りをした家友が、村の峠で切り殺してしまう。「七色紙抄製の秘法が他国に漏れることを恐れての非常手段である。封建社会によくある哀話の一つだ。(中略)浮かばれぬ新之丞ゆゑに、村には今だに色々な怪奇伝説が生きてゐる。((55))」と記している。
 『伊野町史』の「御用紙制」の項の冒頭にも「伊野村および成山村が御用紙すきの起原地となったのは、幕藩体制確立と紙の需要増大を背景としたものであるが、また神秘的・伝奇的に伝えられて、土佐史の定説となっている。((56))」とある。
 この神秘的・伝奇的な話について、『日吉村誌』には「日本の中世・近世を通じて製紙の技法は、秘法であり他藩には洩らすことは御法度であった。他藩から技術を盗み、また、他藩に知られまいとするところに数々の悲劇が起こった。土佐和紙創作の祖『新之丞』は、その代表例であった。新之丞伝説については、高知県吾川郡伊野町成山の仏が峠(坂の峠)に建立されている碑文が最も要領よく説明している。((57))」として、「紙業界の恩人新之丞君碑」の碑文を紹介している。
 成田潔英氏は、『紙碑』にこの碑文を取り上げて、寿岳文章氏の話より詳細に近世土佐和紙の起源の挿話を紹介している((58))。また、村上節太郎氏もこの挿話を『伊豫の手漉和紙』にそのまま取り上げて紹介している((59))。ただ、これら挿話の中心人物は安芸三郎左衛門家友と養甫尼におかれている。
 これに対して、『日吉村誌』は、新之丞を主人公にした土佐紙業の歴史を紹介している。この伝承によると、「新之丞は、紙漉きを副業とする農家に生まれ、24歳の時巡礼に出た。諸国の紙漉きを訪ねて、美濃、越前から伊豆に至った。伊豆で修善寺紙に出あい美しい紙に魅せられて1年余り住み、再び巡礼を続けて備前、備中を経て伊予に戻った。秀吉の天下平定により、紙漉きも復興のきざしがあり、新之丞は、川之江・西条・今治の城下町を歩き紙漉きを勧めてみたが、良い協力者が得られず、意を決して桧山から久万越えをして土佐吾川村川口に出たが、疲労と空腹のため、ついに、伊野に近い成山部落の入り口で行き倒れた(これを救って介抱したのが、養甫尼と安芸三郎左衛門家友であった。)。新之丞は、この二人に命を救われた恩返しにと諸国で覚えた紙漉き技術や修善寺紙の製法を話し、成山付近に豊富に自生する雁皮(がんぴ)・楮(こうぞ)を利用して紙をつくることを勧めた。((60))」とあり、この後の苦心談やその後の新之丞斬殺の悲劇は碑文などに示されたとおりである。
 なお、七色の色紙を漉きあげることに成功した家友は、山内一豊入国のときにこれを献上した。以後これが恒例となり、七色紙は御用紙といわれるようになった。『高知県の歴史』には、それ以降家友は「給田一町と成山の総伐畑(きりはた)をあたえられ、御用紙方役ならびに幡多郡代官役に任ぜられて、製紙業の監督をすることとなり、色紙は主として成山でつくられるようになった。また成山とともに吾川郡伊野も御用紙漉(かみすき)地となり、選ばれた24軒の製紙業者は田畑をあたえられ、原料の蒐集(しゅうしゅう)や藩有林の薪を自由に伐採することを許されるなど特別の保護をうけ、幕府への献上紙や御用紙をすくことを命ぜられた。((61))」と解説している。

写真2-1-11 今治市桜井の石風呂

写真2-1-11 今治市桜井の石風呂

平成13年8月撮影

写真2-1-12 筑後坊の像

写真2-1-12 筑後坊の像

徳島県山城町大野。平成14年7月撮影