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遍路のこころ(平成14年度)

(1)新四国の成立

 四国遍路は、真念の『四国邊路道指南』(貞享4年〔1687年〕)が出される前後、特に元禄年間(1688年~1704年)のころから一般庶民の参拝が目立つようになって、次第に盛況に向かっていったようである。しかし、当時としては四国中を遍路して歩くことは容易なことではなく、いろいろな事情で遍路に出たくても断念せざるを得ない人も多くいたと考えられる。そのため、各地域の人々は身近な所に四国霊場のミニチュア版の「写し」をつくって、そこにお参りをすることで、四国遍路の代わりとするという信仰を考え出した。こうして、四国遍路を写したいわゆる新四国(ミ二四国・写し霊場ともいう)が全国各地に誕生していった(①)。
 新四国の形態は、島や地域全体を霊場として徒歩巡拝に1週間ほど要する大規模なものや、霊場周辺にあって数時間で巡拝できる小規模なものまで様々である。大規模なものは寺院やお堂で構成されている場合が多く、一方小規模なものは石仏(地蔵など)を配したものが多い。
 新城常三氏によると、新四国の成立時期は、江戸初期と推定される筑前島郷(福岡県)を除き、貞享3年(1686年)の讃岐小豆島の島四国(香川県)が最も古く、ついで、正徳年間(1711年~1716年)の甲斐一国の新四国(山梨県)、享保年間(1716年~1736年)以前の毛利藩(山口県)や美濃(岐阜県)で、享保以前の成立の明瞭(りょう)なのはこの4か所である。江戸時代に開創された新四国をまとめた図表2-2-1を見ると、新四国は、文化~天保年間(1804年~1844年)と、それ以降の幕末期に多く成立している。このことは、江戸時代の中・後期に至って庶民遍路が盛んになったことと関連がある(②)。
 図表2-2-1にあげられた新四国は78か所に及ぶが、それを地方別にみると、東北1、関東33、中部9、近畿4、中国15、四国5、九州11で、近畿を境に東日本が43か所、西日本が35か所となっている。しかし、こうした霊場はずっと永続するというものではなく、いつの間にか消滅していったものもあった(③)。
 新城氏によれば、これら写し霊場としての新四国は、地元の僧侶や有力者たちによって創設され、彼らの信仰的情熱によって広められたものが多いという。例えば、宝暦4年(1754年)成立の常陸(ひたち)久慈郡八十八所(茨城県)は下総(しもうさ)牧野村観福寺の住僧、文政3年(1820年)(文政6年か?)成立の武州(ぶしゅう)多摩新四国(埼玉県)は大徳の尊者、出羽(でわ)新庄新四国(山形県)は同地円満寺の宥勝、天保8年(1837年)成立の武蔵幡羅(むさしはら)郡八十八所(埼玉県)は同郡八ツ口村の僧印能がそれぞれ設立したといわれている(④)。
 また、新四国の多くは農村を中心に成立した。その主な理由は、経済的な問題などから四国霊場を回れない農民たちが、豊作を祈願する気持ちや農閑期における一つのレクレーションとして身近な場所に写し霊場をつくり、訪れようとしたからである(⑤)。

図表2-2-1① 江戸時代の新四国

図表2-2-1① 江戸時代の新四国

新城常三『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』P1124~1128より作成。

図表2-2-1② 江戸時代の新四国

図表2-2-1② 江戸時代の新四国

新城常三『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』P1124~1128より作成。

図表2-2-1③ 江戸時代の新四国

図表2-2-1③ 江戸時代の新四国

新城常三『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』P1124~1128より作成。