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遍路のこころ(平成14年度)

(1)各地の新四国④

 ウ 大島島四国

 越智郡大島(吉海町・宮窪町)には、「大島島四国」と呼ばれる新四国があり、毎年旧暦の3月19・20・21日の3日間、県内外から多くの巡拝者が訪れて春の風物詩となっている。大島は、人口がおよそ1万人で、今治市の北方海上約4kmにあるが、平成11年(1999年)に来島海峡大橋で今治市とつながり、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)が開通した。

 (ア)大島島四国のおこり

 大島島四国は、多数の寺院・小堂・庵を集めた新四国であり、そのおこりは、今治藩の記録『今治拾遺』によれば、「文化四丁卯年、越智郡大島十六ケ村へ割、四国八十八ケ所之順拝小堂ヲ設タル時ハ、札所ノ寺院モナク、近国近辺之信者参拝二来ル時ハ、自ラ島之賑繁栄之一助ト一同協議整ヒ、八十八ヶ所へ小堂建立セシ也、時ノ周旋人池田重太、毛利玄得、修験金剛院専ラ尽カヲナシケリ(以下略)(⑱)」とあり、文化4年(1807年)に大島本庄村(現吉海町)の医師毛利玄得らの発願によって始められたとされている。開創の際には、旧4月30日に開眼法要が金剛院で行われ、笛や太鼓の大練供養行列を先頭に、島内をはじめ今治その他から集まった僧侶たちや島民が、各札所の額を掛けて回るのに3日かかったという(⑲)。
 この島四国は、供養の行列などで、「衆人を騒がせた」として今治藩から罰せられた時期もあったが、やがて京都の真言宗御室派本山仁和寺門跡から「准四国八十八か所霊場」と定められて自由に巡拝できるようになり、盛んになっていった(⑳)。

 (イ)大島島四国の巡拝路

 島四国の巡拝経路は、吉海町田浦(たのうら)の1番正覚庵から右まわりに、宮窪町の早川、余所国(よそくに)、宮窪、戸代、友浦と巡拝し、再度吉海町の平草、志津見、名(みょう)、南浦、名駒(なごま)、正味(しょうみ)、臥間(ふすま)、椋(むく)名、本庄、仁江(にえ)、福田、泊の各札所を巡拝して、田浦の88番濃潮庵まで、四つの寺院(8番海南寺、33番高龍寺、47番法南寺、79番福蔵寺)と堂庵や番外札所を含めて108か所の霊場を巡拝する(㉑)。その間の行程は、吉海町内46km、宮窪町内17kmで、この間に大島石の道標120基が遍路道の要所に立てられている(㉒)。この島四国の巡拝には、徒歩で2泊3日を要するといわれるが、最近はマイカーやバスでの巡拝が増えている。
 吉海町と宮窪町の観光協会が勧める巡拝コースによると、1日目は、下田水(しただみ)港横の44番十楽庵から巡拝を始め、椋名方面の45番、46番へと進み、津倉、本庄、仁江、福田、泊の83番永楽庵まで巡拝する。2日目は、泊、田浦、早川、余所国、宮窪、戸代を回って、友浦の20番叢林庵か、志津見の24番光明堂くらいまで巡拝できる。3日目は残りの札所を全て巡拝するが、正味地区の37番示現庵から39番宥信庵までは自然の残る遍路道になっているので、巡拝の際は遍路道の雰囲気を楽しんでほしい。巡拝の起点は、かつては福田地区の71番金光庵であったが、今日では今治~大島間のフェリー発着場の下田水港に近い44番十楽庵から打ち始めることが多い。また、今治~尾道間の高速艇(てい)が寄港する友浦港を基点に18番利生庵から打ち始める場合もある。
 昭和55年度の吉海町観光協会の調査によると、この年に島四国を巡拝した遍路約2,500人のうち、吉海町内での宿泊者は約1,800人で、他の約700人は日帰りか、あるいは宮窪町内での宿泊であったという。また、吉海町内の宿泊者のうち旅館を利用したのは240人で、1,500余人は善根宿を利用している。昭和61年(1986年)当時の吉海町の善根宿は123軒で、仁江と泊の地区に多い。吉海町内の宿泊者の県内外別内訳は、県内が84%で、そのうち71%が東予地方、24%が松山市、県外16%の中では広島県が72%を占めている(㉓)。しかし、平成7年以降の7年間の巡拝者は平成7年度の4,000人をピークに少しずつ減少し、最近5年間は平均すると2,730名となっている。

 (ウ)大島の善根宿

 大島の島四国には、昔から善根宿を提供する風習があり、遍路用の布団や食器などを特別に用意して、宿のない遍路があれば温かく迎え、気軽に宿を提供してきた。この風習は、連綿と現在も受け継がれている。
 江戸時代の善根宿の様子を伝える史料として、天保7年(1836年)、甲斐国犬目村(現山梨県上野原町)の兵助の日記(㉔)が残されている。それによると、兵助は、天保8年4月2日に今治城下から船で大島に渡り、14日間で島四国を巡拝しているが、そのうち、13日も善根宿の接待を受けており、島民が遍路にもてなしを行っていた様子が分かる。日記の内容を、以下に要約する。

   2日 「新国八十八ヶ所を廻り始申候」と巡拝を始めて、その日は本庄村(現吉海町)の百姓宗次宅で宿の善根を受け
     る。
   3日 大雨になり、竹細工をしたり、そろばんを教えたりして過ごす。
   4日 この日も百姓宗次宅で宿の善根を受け、巡拝を始めてこの日までに32枚の札を納める。
   5日 仁江村(現吉海町)の百姓植次郎宅で宿の善根を受け、その間に52番西蓮寺から73番浄土庵まで巡拝する。
   6日 74番五大院より巡拝を始めたが、当日は宿がなく、田浦(たのうら)村(現吉海町)の神社で野宿する。
   7日 88番地蔵堂(濃潮庵)より巡拝を始めて4番無量寿庵まで5枚を納めて、余所国(よそくに)村(現宮窪町)の弥
     助宅に宿泊する。
   8日 弥助宅にそろばんの割り算・掛け算の仕方を書き残して出発する。その日の昼食は百姓伊八方でとり、午後3時ご
     ろ百姓文治宅で休憩する。そこでも、そろばんの仕方を教えて宿の善根を受ける。
   9日 戸代村(現宮窪町)の百姓弥三次宅で善根宿の接待を受けて巡拝し、その日は12枚を納札する。
   10日 志津見村(現宮窪町)の百姓与太郎宅で宿の善根を受け、16番密乗庵より23番三門堂まで8枚を納札する。
   11日 24番光明堂より巡拝を始め、37番示現庵まで14枚を納札する。この日は名駒村(現吉海町)の百姓清兵衛宅で宿
     の善根を受ける。
   12日 38番佛浄庵より巡拝を始め、名駒村の百姓文作にそろばんを指南して昼食の善根を受け、51番利益庵まで14枚を
     納める。この11日間で大島新四国を残らず巡拝して札を納め、「大願相済候」と巡拝を終えた心境を記す。
      また、この日は本庄村の百姓惣次郎宅で宿の善根を受ける。
   13日 本庄村を発って、仁江村の百姓篤次郎宅で宿の善根を受ける。
   14日 仁江村を発ち、余所国村の百姓力蔵宅で宿の善根を受ける。
   15日 宿の者にそろばんの掛け算を教えて、10時ころに余所国村を発って伯方島に渡り、当日は木浦(きのうら)村(現
     伯方町)の百姓作左衛門宅に泊まり、その後、大三島の大山祗(おおやまずみ)神社を参拝して竹原に渡る。

 また、昭和21年(1946年)に大島島四国をめぐった北川淳一郎氏は、大島の善根宿について次のように記している。

   今治から小蒸汽に乗って津倉村の幸港へ上陸すると何だか無風帯の桃源郷へ来たようでとても嬉しかった。四泊五日も
  かかって、ゆっくり島四国を廻ったものだった。(中略)大島四国で嬉しいことの一つは、そこには遍路宿が無いこと、
  宿屋に泊まる必要が無いことだ。大島ではどこの百姓家でもお遍路さんを泊めるのだ。これを「大島の善根宿」と云う。
  昭和21年の時だった。私、ある金持(中略)の家でそこの主人に屋敷内を案内して貰ったが本家(ほんや)の後に蔵が七八
  つも並んでいる。「これみな米蔵だったのか。」ときいたら「フトン蔵だ。(中略)」と真顔で答える。この島では嫁入
  りの時に善根宿のフトンを幾組か持って行く。そして、そのフトンの数が多ければ多いほど晴れとしていたのだ。(中
  略)大島の善根宿。百数十年の昔からの島の慣習になっているのだ。どんな家でも無料で泊めるのだ。(中略)翌朝出立
  の時には、その主人に頭をさげて、心からの感謝の意を表する。他人から、心から感謝される時、どんな悪人でも悪い気
  持はしない。その主人は他人に善を施すことの喜びを味わうのだ。(中略)大島の人はみんな親切だ、善い人ばかりだ、
  と云われているが、それはこうした善根宿と云う良い社会的習慣がこの島の住民を幾年月の間に、かくつくりあげたので
  はあるまいか(㉕)。

 現在も縁日の2日間だけ善根宿を提供している戸代地区の**さん(昭和14年生まれ)に遍路をもてなす様子を聞いた。
 「昔はこの地区に40軒あった民家のほとんどが善根宿でしたが、道路の整備に伴い歩き遍路が減って、現在は8軒ほどになっています。西条市の西条正信講の皆さんは信仰の一環として島四国をお参りされており、60年間ほど宿泊のお世話をしています。島四国の巡拝を通じて行(ぎょう)をされている皆さんは、何か魅力があり、ありがたくお世話をさせていただいています。夕食前には仏壇や神棚などにお経をあげて下さり、家族の健康祈願もして下さっています。毎年、うちに宿泊されている西条正信講の皆さんは宿泊の部屋がどこになろうと、それは行として我慢しなければならないと言われており、お遍路は雨露がしのげたら十分だと言っていただいています。1年に一度ではありますが縁日の2日間はお遍路さんを家族の一員として世話をさせてもらっています。
 戦中・戦後の巡拝では、お遍路さんが米を持参して自分たちで煮炊きをしていました。私の実家では、縁日の接待はせいぜい5、6人で、お遍路さんにも風呂(ふろ)の水汲(く)みなどをしてもらいながらのんびりしていただき、食事も自分たちで作ったりしていました。その後、お遍路さんが巡拝で疲れて帰ってくるので、宿の方で食事の準備をするようにしましたが、私も保育園に勤めていた時期もあり、料理は前もって計画表をもとに早朝から傷みにくいものから順次煮炊きし食器類も一つの器に何品も盛り合わせできるように準備を整えていきました。保育園の栄養士にも日曜日にはお接待として手伝ってもらい、実姉にも大三島から手伝いに来てもらって、何とか家族で世話をさせてもらっています。年に一度のお接待なので、縁日の料理は新鮮な地元の魚を準備し、手造りの心のこもった料理を賞味してもらうよう心掛けています。長年、善根宿としてお遍路さんの接待をさせてもらっているのを近所の人が知って、もう5年間も手作りのさい銭袋を提供して下さる方もいます。お遍路さんが仏壇に置いていかれる過分の芳志は、皆さんが2泊3日の旅を少しでも楽しく過ごせるために役立てたり、お手伝いの方やお年寄りに、お大師さまからの贈り物として、四国霊場を100回以上巡拝された西条正信講の伊藤大先達(せんだつ)の錦の納札と一緒に差し上げています。
 長年、善根宿をしていると、印象に残ることがいくつかあります。日々、苦しい生活のお年寄りが、年に一度の縁日参りを楽しみにして来られ、宿では祖母の部屋で一緒に寝たりしていましたが、突然来られなくなると寂しくなります。また、毎年、広島から来ていた常連のお年寄りがある年から来られなくなりましたが、その翌年、娘さんが位はいを持ってお参りに来られました。親しくなったお年寄りが来られなくなると、それは寂しいものです。さらに愛知県半田市の榊原収三先達は、最初は兄弟4、5人で来られていましたが、今年(平成14年)は18名の団体になりました。榊原先達には、『生涯の友授かりし遍路宿』と詠んでもらった句碑を庭に建てさせてもらっています。
 毎年、巡拝されるお遍路さんは、家族の一員だと思っており、縁日が終わっても手紙などでお互いの心の交流を図っています。また、娘が善根宿の様子を皆さんに知っていただくためにカメラで撮ってホームページに載せていますが、今後もこの風習を守っていきたいと思っています。」
 また、仁江地区で父親の代から善根宿を営む**さん(昭和5年生まれ)に話を聞いた。
 「昔はほとんどのお遍路は、名駒に船が着くと、山を越えて下田水、椋名、本庄、幸神田(さいわいしんでん)、八幡(やわた)の集落を巡拝して、夕方、この仁江地区に到着して宿泊していた。それで、仁江ではどの農家も定員以上のお遍路を接待で泊めていた。私の家は親の代から善根宿を提供してきており、お遍路を元気でお世話できるのはお大師さんのお陰だと思っている。戦前・戦中は、主に信仰のためや家族の武運長久を祈るための巡拝が多く、食事も精進料理を出しており、遍路は線香代を仏壇に供える程度であった。当時は縁日になると、田舎道を白装束のお遍路が列を作って巡拝していたのを覚えている。
 現在、仁江地区には善根宿をしている家は4軒しか残っていないが、私の家には、主に今治、高知、名古屋から先達が引率して20名ほどが連泊しており、食事も煮しめや山菜料理に代えて、最近は刺し身や揚げ物などを盛り合わせて出すようにしている。年に一度の出会いなので、お互いに健康であることを喜び合って酒を酌み交わしており、各地域の先達とはそれぞれの地域の果物を送り合うなどして交流を深めている。しかし、近年は、お遍路も観光が目的であったり、健康指向のハイキング気分で訪れる人も多くなってきており、朝・夕方の仏壇前でのお勤めは昔と変わらないが、観光気分での巡拝者にはカラオケも要る時代になり、架橋後の新しい時代に合ったお遍路との交流が必要な時代になったように思う。」

 (エ)大島島四国を巡拝して

 島四国の巡拝者は様々な思いを抱いて巡拝しているが、ここでは、毎年、大島島四国を巡拝している3組の人たちに聞いた。
 まず、西条市の**さん(明治45年生まれ)と**さん(大正5年生まれ)夫妻に、昔から続いている巡拝の様子を聞いた。
 「私は、肋(ろく)膜炎の療養をしていた25歳の時(昭和11年)、家内の兄に誘われて初めて大島島四国を巡拝した。小さな船で大島の正味地区の38番佛浄庵近くにたどり着き、船のあゆみ板を踏んで上陸した所は崖(がけ)っぷちで、坂道を登りながら夢中で札所を巡拝している折には病気のことを忘れてしまっていた。そのとき、『あっ、これはお大師さんのお陰をいただいた。』と思い、翌年から仲間を誘って巡拝するようになった。それ以来、2泊3日の巡拝を欠かしたことはなく、今年(平成14年)で66回目になる。巡拝を続けてきたもう一つのきっかけは、結婚して初めて授かった子どもを亡くしたことも理由になっている。どうしたら生まれた子が元気に育つのか夫婦で悩み抜いて、叔父が祀(まつ)っていた不動明王をお参りしながら一心に願ったおかけで、その後、4人の子供が元気に育ってくれた。現在、叔父の名前にちなんで『西条正信講』を興してその世話をさせてもらっており、四国八十八ヶ所や大島島四国の巡拝を続けている。
 戦前の大島島四国の巡拝の際には、お接待はあまり受けなかった。戦前の木賃宿でお世話になる際には米や豆を持参し、豆腐や調味料は現地で調達して食事の支度をしており、この仕来りは戦後も続いていたように思う。戦前、我々が巡拝のために大島に着くと、集落の拡声器で数人ずつの宿泊先を割り当ててくれたり、また、船着場では島の婦人部が特設のうどん屋を開いていた。島で善根宿が見つからず、何度も探し歩いたこともある。
 善根宿も日々の生活が裕福になってから盛んになってきたように思う。最近は戸代集落の15番三光庵の近くにある**さん宅のように40人も泊まれる宿もある。この宿とはお祖父(じい)さんの代からの付き合いで、現在はお孫さんに善根宿を提供してもらっている。昔は、宿に着くと、朝・晩、仏壇や神棚などの前でお礼のお勤めをさせてもらっていたが、バスによる巡拝になってからは、朝は車中でお礼のお勤めをしている。連泊の二晩目は無礼講に過ごさせてもらっており、講員と宿の人が一緒になって余興を楽しみながら親ぼくを深めている。その余興が楽しみで巡拝する人もある。西条正信講の講員は約100名であるが、春の大島島四国の巡拝と同様に、11月には小豆島島四国にも行っている。その間に、本四国八十八ヶ所も巡拝して現在107回巡拝しているが、お参りすると、お金には代えられないお陰をいただいており、ありがたいことだと思っている。」
 また、妻の**さんも、「島四国は信仰と観光を兼ねて巡拝している人も多い。特に女性は家事のこともすべて忘れて、楽しく過ごせるので体調もよくなるように思います。年に一度、島の美しい景色を眺めながら歩き、きれいな空気を吸うことが体調維持に役立っています。お大師様を信仰していれば邪心もなくなり、誠意をもって人に接することもできます。若い人たちも、大島島四国や本四国を巡拝すれば、目に見えない信仰のありがたさや親への感謝の気持ちも生まれてくると思います。」と語る。
 次に、父親も巡拝を続けていたという西条市の**さん(昭和4年生まれ)に大島の接待の様子を聞いた。
 「大島島四国を巡拝する前には、体調が悪くて出発をためらうこともありますが、お参りを済ませると元気になることが多く、毎年出掛けています。遍路道には『遍路ころがし』と呼ばれる急な坂道もあり、そこでは仲間同士が御宝号(ごほうごう)の『南無大師遍照金剛』を唱え合って登っています。昭和49年(1974年)ころは、3日間の縁日のうち、初日は接待がなく弁当持参でお参りしていましたが、最近は3日間ともお接待を受けており、大島の住民の方にはお遍路を温かく迎えてもらっています。昔は、仁江、福田地区あたりに1泊し、2日目は戸代地区の**さん宅に世話になっていました。特に**さんには父親が巡拝していたころから世話になっています。毎年、寸志を置いてきますが、それはすべて遍路を迎える布団代になっているようです。現在は40名余りの者が、毎年宿泊していますが、わずか一晩か二晩のために、布団を何日もかかって天日(てんぴ)に干したり、シーツの洗濯など大変な労力をかけています。また、宿泊者のために部屋を整えたり、家族の部屋まで提供していただいています。縁日が近づくと、夜なべ仕事で遍路を迎える準備をされており、大三島から手伝いにくる**さんの姉さんには、宿泊者全員にまんじゅうを接待していただく上に、仕事先で縫製したパジャマを全員に差し入れしてもらっています。食事は心のこもった海の幸を準備していただいており、大島の方は遍路をお大師様と思う気持ちがあって、あれだけのお接待をしてもらっているのではないでしょうか。」
 愛知県半田市からやって来て、毎年大島島四国を巡拝している**さん(昭和6年生まれ)にその思いを聞いた。
 「私は昭和55年(1980年)ころから巡拝を続けていますが、最初は雨の中の巡拝でした。この島四国には、家の縁側に代々の位はいを祀(まつ)り、遍路に参ってもらったお返しに接待をするというすばらしい習慣があります。歩いて巡拝していると、印象に残る遍路道がいくつかあります。5番寿気庵から山越えして9番大聖庵のせり割さんへの道は忘れがたい道であり、また、34番妙法堂からの遍路ころがしの急坂や38番佛浄庵のあしずりさんへの道は、島四国の中で最も印象深い遍路道です。今年(平成14年)の巡拝では、51番利益庵から64番五光庵までの畑道は、雨でぬかるんで大変難儀をしましたが、現在は一番、心の休まる遍路道だし、また、晴れた日は48番善女庵から49番亀甲山の海沿いの道も心の休まる道です。
 大島島四国の接待は全国の新四国の中でも特筆されるもので、大島の住民が各札所を守りながら、縁日に接待を続けているのには頭が下がりますが、頂くのはその物より心であると思います。大島の住民の大師と遍路に寄せる熱い心に感謝しています。大島島四国の巡拝を通じて、これまでの人生や自分を見つめ直すようになりましたが、同行の皆さんもそれぞれ苦しみを背負って生きていることを知り、それが私の生きることへの勇気につながっています。来年も必ず巡拝したいとの思いが1年間の励みになっており、善根宿の**さんとの出会いも生涯忘れることができません。」