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遍路のこころ(平成14年度)

(1)小豆島島四国のおこり

 小豆島島四国のおこりについて、小田匡保氏は『小豆島における写し霊場の成立』で次のように記している。

   小豆島霊場は別名「島四国」とも呼ばれるが、(中略)その起源は、創設時の史料が全く残っておらず、(中略)創設
  年も明治時代以降の歴史書・案内書によって一応貞享3年(1686年)とされているが、いずれの書も根拠のある史料を示
  しておらず、説得力を持っていない。
   郷土史家の川野正雄氏は、小豆島に現存する往来手形から、宝暦年間(1751~64年)以降他国からの巡拝者が来始め
  たと述べているが、(中略)「島四国」の語が史料に表れるのは宝暦から80年もたった天保13年(1842年)の旧大鐸村文
  書で、「近来、島四国と唱え(中略)寺社拝礼いたし候他国のもの、遍路姿にて渡海いたし候」との一節があると指摘して
  いる。これによって天保年間(1830~44年)島四国遍路が盛んになったことが分かるが、しかしこの時点においても、八
  十八の札所内容は不明である。小豆島霊場の全容が明らかになるのは、さらに下って嘉永4年(1851年)頃に作られたと
  思われる『小豆島名所図会』においてである。
   以上のように小豆島霊場の起源に関する史料は非常に乏しいのであるが、著者としてはこれらに加えて、島四国を始めた
  という人の墓のあることに注目したい。この墓は十七番一の谷庵の境内にあり、寛政11年(1799年)の紀年銘を持つ。俗
  名・行年は不明である。この口伝が真実であり、また先述の往来手形を島四国遍路のものとみなすならば、霊場創設は18
  世紀中頃ということになる(㉜)。

 このように小豆島霊場のおこりについて、小田氏は霊場の創設を18世紀中ごろと推定している。
 その後、小豆島島四国は、明治維新時の神仏分離・廃仏毀釈(きしゃく)に際して、神社が札所からはずされたり、札所だった神社別当寺のいくつかが廃寺になったりして、明治初期に少なくとも14の札所に何らかの変更があり、巡拝は低迷期に入った。しかし、大正2年(1913年)に小豆島霊場会が創設されると、これを契機に霊場は次第に復興していった。さらに、各地に小豆島八十八ヶ所の巡拝団体が誕生して、毎年多くの団員を集めて島を訪れた。一方、小豆島霊場会は、先達制度を設けて巡拝の作法などを巡拝者に示範している。
 昭和59年(1984年)は弘法大師の1,150年の御遠忌(おんき)の年で、それ以後先達も増えていった(㉝)。小豆島霊場会の話によると、その後、巡拝者はレジャーを兼ねて、四季を通じて多く来島するようになり、現在は年間を通じて、霊場会公認の300団体を中心にして、約5万人が訪れるという。
 巡拝経路は、まず、内海町坂手の洞雲山から順次内海地区を経て西部の池田町と土庄(とのしょう)町の各札所を巡拝し、その後、福田、当浜、岩谷と巡拝して内海町橘で終わるのが一般的なコースになっているが、必ずしもこの順路通りに巡拝するものは多くない(㉞)。昔は先達が先導して複雑な山道を歩いて巡拝していたが、最近は道路標識や霊場案内板も整備されたので家族単位での自動車による巡拝も増えてきている。