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遍路のこころ(平成14年度)

(2)小豆島島四国霊場の巡拝

 ア 巡拝者の出身地

 小豆島島四国は、どのような地域の人々が巡拝しているのだろうか。
 小田氏は、明治31年(1898年)の資料「其ノ最モ多ク巡拝者ヲ出スノ地方八本県及ヒ播磨、美作、備前、備中、備後、安芸ノ諸国ヲ主トス(㉟)」から、当時、多くの巡拝者を出していたのは、香川県、兵庫県南部、岡山県、広島県であったとしている。さらに小田氏は、昭和57年(1982年)の調査による先達の出身地から巡拝者の実態を次のように記している。

   小豆島霊場の巡拝は何々講とか何々会といった団体で行われるのが普通であるが、その巡拝団の中心となる先達の住所
  によって出身地を調査した結果が第1表である。
   それによると、巡拝者の出身地は鳥取県と兵庫県が群を抜いて多く、両県を合わせると全体の八割近くを占めている。
  次いで岡山県と京都府(7割は丹後)が続き、先達のほとんどは中国地方東部の人たちである。地元の香川県は意外に少
  なく、わずか2.6%を占めるにすぎない。
   この調査結果によれば、中心からの距離によって設定しうるような信仰圏を、小豆島霊場に適用するのは無理がある。
  というのも、小豆島とは近距離にある四国4県からの巡拝者が、ほとんど見られないからである。その理由を考えてみる
  と、巡拝の多い中国地方東部の人々にとって、四国と小豆島はともに海を隔てて南に浮かぶ島であり、小豆島へ渡ること
  は、四国へ渡ることと方角的にもよく似ている。これに対し巡拝の少ない四国の人々にとっては、四国遍路は自分たちの
  住む大きな島を巡ることであり、小豆島へ渡ることは、明らかに四国を巡ることと状況が異なっている。小豆島霊場の信
  仰圏は、四国から小豆島を見通す方向、つまり小豆島から東ないし北の方向へのバイアスを持っていると言えよう(㊱)。

 このように約20年前の資料であるが、地元の香川県の巡拝者は意外と少ない。「厳冬期の雪深い山陰の鳥取や但馬(たじま)(兵庫県北部)から。また早春三月には山陽路の岡山、北陸路より。陽春の風に導かれて播磨(はりま)(兵庫県南部)、阪神、四国から。お遍路さんののどかな鈴の音が、小豆島の海山にこだまする。(㊲)」という。

 イ 昭和期の巡拝の様子

 北川淳一郎氏は昭和13年(1938年)の春に小豆島島四国を5泊6日で巡拝しているが、当時の巡拝の様子の一端がうかがえるので抜粋して紹介する。

   ○ 三月二十六日
     天気は日直つた。松山駅で白衣を着けた。檜木笠と納経筥と頭陀袋と金剛杖。(中略)高松で二時間ひまがあった。
    四時、小豆島下村に着く。
   ○ 二十七日
     朝食前に清滝山へお参りをしてきた。(中略)八時、宿に帰り、おかみさんの心づくしの精進料理の朝御飯をたべ
    る。九時出発。西から東に廻るのだ。これが順路だ。(中略)草壁町の極楽寺。次が清見寺。西村の安養寺。ここから
    浜へ出てポッポ船に乗る。(中略)蒲野に上陸。(中略)道々子供がたかって来て「お遍路さん豆おくれ」と節をつけ
    て云う。薬師堂。(中略)寺の裏を四五丁登ったら尾根に出た。これを西へ半里ほど行く。(中略)風穴庵。天然記念
    物のソテツのある誓願寺。ここで草鞋をかえた。(中略)愛染寺から乗合馬車で池田町の入口まで乗る。(中略)長勝
    寺を最後に田中屋という宿に入った。今日の行程八里。
   ○ 二十八日
     霧の日、六時半ごろ発つ。すぐ山路にかかる。林の庵から次の西の滝。(中略)海岸へ出る。再び池田町。これから
    トンネルをぬけて土の庄行。国宝の本堂のある明王寺。(中略)円満寺の縁先で紅茶を沸す。庭の桜が七分咲き。宝生
    院を出て(中略)夏蜜柑二つの接待を受けた。観音堂。行者堂。このあたり坂道。やっと淵崎の平地に出る。(中略)
    四時半大黒屋。この宿立派。おかみさん親切。
   ○ 二十九日
     六時半出発。出発前鼻紙の接待が皆にあった。先ず町はずれの浄源坊。(中略)次が本覚寺の移転先の仮寺。蚕寺と
    も云う。次が松林寺。ここから坂道。(中略)雑木林を登りきり、麦畑の打開けたところへ出た。ここに滝の宮という
    庵がある。ここから又山路にかかる。笠滝山だ。登りつめた峠みたいなところに茶屋があった。ここから左へ折れる。
    (中略)頂上が奥の院だ。不動明王が祀ってある。(中略)快晴、中国本土、碧い海、浩然の気だ。(中略)山を下っ
    たところが湖明寺だ。(中略)ここ笠滝さんの本寺だ、次の寺が大聖寺。ここでうどんの接待にあづかった。門脇の茶
    屋で弁当をたべる。ここから幾町かあるくと歓喜寺。(中略)次が金剛寺。海に突き出たところにある。(中略)
     この海岸を小海まで歩いてそこから大部まで乗合を利用した。ここに観音寺がある。(中略)子安観音で参客が多
    い。(中略)淵崎の大黒屋が指定してくれた菊屋は小さな宿だった。
   ○ 三十日
     今日は殆ど乗物ばかりの遍路だった。七時、菊屋を出る。二十五町の海岸伝い。(中略)小部と云うところから二十
    町打ち戻しの恵門滝の不動さんへお詣りをする。きつい登り。不動さんは五百米ぐらいの岩山にある。久万の岩屋さん
    だ。洞の中におわします不動尊。坊さんが胡摩を焚いている。(中略)山の茶店でトコロテンを食う。(中略)山をく
    だる。小部から船。(中略)小豆島の北東端の吉田に上陸。(中略)ここに仏という名字の遍路宿がある。(中略)吉
    田から又海岸を一里ばかり、福田と云うところへ来る。花崗岩の積出港だ。(中略)福田から乗合バス。(中略)海庭
    庵、楠霊庵などに詣でて安田の岡の坊前で下車。今日、どこかで婆さんからおいもの接待があった。
   ○ 三十一日
     (中略)庵寺二つをすませてから山にかかる。第一日の清滝山の東に続く山なのだ。先ず碁石山。(中略)碁石山に
    並んで第一番の札所の洞雲山仙齢寺がある。(中略)松の梢を透しての内海の眺が良い。(中略)洞雲山を十二丁出る
    と隼(はやぶさ)山だ。(中略)ここから坂手の港、田の浦の半島が手にとるように見える。旧道を下って坂手に出る。
    (中略)
     観音寺。ここから舟で半島を巡礼する。堀越庵、最端の田の浦庵。帰りの船は苗羽に着いた。苗羽から植松の宿まで
    半里強。宿に帰ったのが三時半だった。二階でくつろぐ。背中の荷を下したよう。一ねむり。おばさんの御馳走の早い
    夕飯。(中略)下村の港へ出る。海は少し波があった。高松。汽車。(中略)翌日松山。いい旅だった(㊳)。

 ウ 現在の巡拝の様子

 霊場の巡拝は、1月21日の島開き法要とともに始まる。霊場寺院が土庄港に出向いて巡拝団体を出迎え、大師像を担いで霊場会館まで街中を練り供養して歩く。その後、霊場会館2階の授戒道場で法要を行った後、巡拝に出発する。
 小豆島霊場は、奥の院、番外霊場を含めて94の札所からなっており、寺院30か寺、堂庵52か所、山岳霊場12か所から構成されている。小豆島島四国の巡拝は、霊場を順番に巡る人がかなり多いが、長旅の許されない人は、「一日巡り」や「十か所巡り」、「山岳霊場巡り」といって、何日間かに分けて巡拝する場合もある。
 まず小豆島霊場会では、春と秋に「ふれあい徒歩大巡行」と称して霊場を8コースに分け、それぞれを1日で巡る「1日遍路行」を実施している。それによると、巡拝希望者は8コースの中から希望のコースを一つ選んで巡拝する。毎年、250人から300人の巡拝者がそれぞれのコースに分かれて巡拝しており、服装や巡拝作法も自由で年々希望者が増えているという。
 また、兵庫県の参謄(さんたん)会本部は毎月第4土曜日から2泊3日の巡拝を行っており、小豆島霊場会が毎年主催する「大師を偲(しの)ぶ遍路行」は、4月中旬に6泊7日の日程で行われている。

 工 巡拝者の心情

 小豆島霊場会刊行の機関紙『遍照』の百号特集号への投稿から巡拝者の心情の一端を探ることができるので、その一部を抜粋して掲載する。

   ○ 昭和21年(1946年)3月、ふとしたことで白装束に草履履き、米5升を背負って小豆島島四国を初めて巡拝した。
    朝、暗いうちから夕暮れまで、豆だらけの足と杖を頼りに歩き通して、一週間の巡拝の旅を無事に終えて、土庄港まで
    辿り着いた時の感慨は忘れられない。人情にふれる機会も乏しくなりつつあるが、白装束に身を包み、喜怒哀楽も忘れ
    て無心に巡拝することが最良の瞬間といえる。
   ○ 長男の死をきっかけに巡拝を始めた。雪の降る朝早く、汽車で岡山を出発し、バスによる4泊5日の巡拝の旅であっ
    た。さい銭は米、初めての遍路姿、行く先々の寺院でのお接待、見るも聞くも皆珍しく、感動した。「小豆島は一度参
    ると、何度も参りたくなる」と聞いていたが、その通りであった。お大師様、御先祖様に感謝しながら来年も巡拝でき
    ることを楽しみにしている。
   ○ 昭和53年(1978年)3月、雪の積もった福井県小浜市を発って、温かい福田港へ上陸した。入島式では般若心経を
    腹の底から唱えて5泊6日の巡拝に出た。坂道でころんだりしながら、先達の打つ鐘の音に元気づけられ、札所に辿り
    着いた喜びとそこで頂いた水のおいしさは忘れられない。その後、17年間も巡拝を続けている(㊴)。

 オ 遍路への接待

 小豆島の遍路が盛んになった理由の一つに、遍路に対する小豆島の人々の温かい接待がある。島の人々の人情深さと接待の風習が多くの巡拝者の心を引きつけている。札所近くの集落では、遍路のために餅(もち)、あめ、パン、ちり紙を始め、ソーメン、トコロテン、甘酒などを接待しているが、一方、遍路は、出発前に豆を炒(い)って持参し、沿道の子供に与えたりしていた。しかし、子供たちが「お遍路さん豆ちょうだい。」と大声で叫ぶ光景は今は見られなくなってしまった。また、現在ほとんどなくなってしまったものの一つに善根宿がある。かつては遍路道沿いの農家では、それぞれ命日にあたる人の供養のために遍路を泊めており、遍路宿は遍路と家族との交流が進む場になっていた(㊵)。

第1表 府県別先達数

第1表 府県別先達数

小豆島霊場会「先達名簿」(昭和57年12月現在)より作成。