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遍路のこころ(平成14年度)

(1)遍路道整備の取り組み②

 工 古い遍路道の整備

 (ア)柏坂の整備

 四十番観自在寺から宇和島市への途中、南宇和郡内海村柏から北宇和郡津島町上畑地に至る旧遍路道があり、宿毛街道の一つ「灘道」ともいわれた。この道は、大正8年(1919年)の海岸回りの旧鳥越隧道(ずいどう)開通まで、地域住民の生活・交易道路であるとともに遍路道であった。現在(平成14年)この道は、行政面からみると道路区分の上からは、通行不能道として位置づけられている。
 しかし、内海村柏地区住民の村おこしの熱意で「四国のみち-環境庁ルート-」の指定を受けて整備され、現在、内海村側は柏地区の人たち、津島町側は茶堂出身の年配者によって、維持管理されている。

   a 内海村側の整備の思い出

 南宇和郡内海村では、昭和60年(1985年)、農業改良普及所の事業により「柏を育てる会」が結成され、地域活性化の団体として活動を始めた。まず、春と秋の年2回、柏坂の草刈りと道の整備を始めた。この柏坂の整備について、長年内海村役場に勤務し、退職後も内海村柏で郷土史などの研究をしている**さん(大正14年生まれ)に話を聞いた。
 「父は魚神山(ながみやま)出身ですが、母が柏の出身でしたので、幼少のころ、柏に里帰りしたときに柏坂を越えた記憶があります。これが柏坂との出会いの最初だったと思います。私は、太平洋戦争でソ連のカザフスタンに抑留され、昭和22年(1947年)日本に帰りました。父は既に朝鮮で死亡していましたので、母の実家の柏に住み、役場に勤めることになりました。
 柏坂の道の整備は、私が役場を退職して地区の区長をすることになった昭和60年(1985年)から始まりました。昭和59年からの農業改良普及所の地域活性化のための補助事業があり、昭和59年の11月に成立していた『柏を育てる会』を中心に地域で何をしたらよいか皆さんに相談をしました。そのとき、私のいとこから、『以前、人が通っていた道が、今は荒れ果てて通れなくなってしまっている。柏の人は皆、あの柏坂を通って津島、宇和島へ行っていた。昔はあの道一本しかなかった。荒れ果てたままにしておくのは寂しい思いがする。整備して通れるようにしたらどうだろう』という提案がありました。その事に皆、賛同をしました。昭和60年でした。登ってみると、木は大きくなっているし、柳水(やなぎみず)大師辺りには竹が生い茂っていて大変でした。約90名の者がお接待松までの道を整備しました。皆、手弁当で、作業後は良かったなという満足感をもって慰労会に臨んでくれました。その時、柳水大師堂が朽ち果てていたので、修復の話が出ました。これまた金のかかることで、その工面が大変でした。昭和61年のことであったと思います。『知恵のあるものは知恵を出せ、金のあるものは金を出せ、体のあいているものは、汗を出せ。』をスローガンに、最高は1万円最低はいくらでも良いからと寄付を募りました。地元の大工にお願いして切り組みを作り、皆で材料を担ぎ上げて組立てました。道の整備はいつも男ばかりで、女性は弁当作りだけなので、女性にも道の整備に参加してもらいました。すると女性用のトイレのことが問題になり、平成6年に2か所に作りました。
 昔も今も、お遍路さんがいろいろな思いや、生きることへの悩みなどを抱えて、お大師様にすがって歩いている。この道を歩くことによって苦しみや、悩みが解決できるのであれば、この道をなくしてしまうわけにはいかない。この道は昔の人たちの遺産です。この道は、生活の道であり、心の癒しのために歩く人がいた道です。このような道があったということを皆さんに知ってもらい、次の世代にこれを伝えていかねばならない。このことは、今の時代に生きてきた者の責任です。四国の古い遍路道がいつまでも皆さんの力で残ってくれたらと思います。」
 **さんと共に、柏坂の整備に力を注いでいる**さん(昭和7年生まれ)にも話を聞いた。
 「昭和60年**区長さんのもとで、今まで引き潮だった柏湾が一気に満ちるごとく、『柏を育てる会』の活動が展開されました。憩いの森づくりとして最初に取り組んだのが柏坂遍路道の修復作業でした。30年も40年も忘れられていた柏坂。柏地区の人の心の片隅には、この道を愛する気持ちが残っていたのでしょう。作業当日の朝、集合場所には約90名の人たちが集まりました。男性は遍路道へ、女性はおにぎりの炊き出しの仕事に汗を流しました。
 私の母の実家が、この坂道を越えたところ(津島町上畑地)だったので、末っ子だった私は、母に連れられてよくこの坂道を越えたものでした。途中の柳水大師堂では、行きも帰りも必ず一休みします。お大師様を拝み、横から湧き出るお水をいただき、元気を出して、また柏坂を越えたものでした。山越えをする人たちにとって柳水のお大師様は、元気回復のやさしい関所でした。柏の人たちは、柏坂のことを『柏峠』、『やけ野』又は『柳水』と呼んでいました。柳水大師の少し下の辺りから頂上に向かって松の並木が続き、素晴らしい景色でした。今はもう見ることはできませんが柳水大師堂の上の辺りから頂上にかけて茅(かや)野が広がっていました。頂上から接待松までの横八丁をよこ通りと呼び、歩きながら展望が楽しめる最高の道でした。当木(あてぎ)島、鵜来(うぐる)島、鹿島、横島は手に取るように見えました。夜は沖の漁火(いさりび)が山に反射して夜道も明るかったほどでした。
 私は昭和20年(1945年)4月に宇和島商業学校(現宇和島東高校)に入学しましたが、太平洋戦争敗戦の年でしたので、宇和島市も度々空襲されました。私の下宿も7月の宇和島大空襲で全焼し、焼け出されました。夜11時から始まった大空襲、60年近く経った今でもはっきりと記憶しています。宇和島の空襲を心配して柏から叔父と父が避難所まで来てくれました。翌日、朝早く父に連れられて柏に向かいました。岩松への松尾坂の旧道を通り、畑地から柏への山越えをして、長い坂道を越え、横八丁に着いたときは、『もんたぞ(戻ったぞ)、柏はそこだ。』と叫び、昨夜まで火の中を逃げ回り疲れ果てていた私でしたが、何か月ぶりかの柏坂、道の感触、峠からの眺め、本当に感動しました。故郷の山の有り難さを感じました。柏坂はこの内海村の貴重な文化遺産です。これからも、もてなしの心、お接待の心を忘れずに、体力のある限り皆さんと共にこの道を守り、多くの歩き遍路の方にこの道を歩いていただければありがたいことです。」
 昭和61年(1986年)3月「柏を育てる会」と「御荘農業改良普及所」が発行した『明日の柏を育てるために』に掲載された「みんなに愛される山になって」と題した、当時(昭和60年)柏小学校の6年生**さんの作文がある。

   「柏を育てる会」でさくらをうえに山に登りました。ちょっと坂道を歩いただけでつかれてしまいました。この調子じゃ
  だめだなあ。もし登れなくなったら先生にひっぱってもらおう。」とおもしろ半分で登りました。「まだつかんの。」とば
  かりいっていました。やっとついて、お地蔵様にお祈りしてさくらのうえ方をならいました。根をていねいに広げて、石な
  どを入れないようにとおしえてもらいました。そして、かえりはさくらをうえながらおりて行きました。1本、1本うえる
  たびに先生に「ちゃんとうえんかな。」と注意されました。かんたんそうで気をつかう作業だなと思いました。いつかま
  た、柏を育てる会の作業があったらまた山に登って、いろんなきれいな花うえて、あかるく、きれいな山にしたいです。そ
  して、たくさんの人たちに愛される山になったらいいと思いました(⑦)。

 当時の**さん(昭和48年生まれ)は地元で結婚し、**さんと姓が変わっているが現在(平成14年8月)の心境を次のように述べている。
 「私が柏坂の旧遍路道に登ったのは、小学校6年の時でした。その時みんなで桜を植えました。慣れない手つきで植えたことをかすかながら覚えています。無事に大きく育つといいな、との願いを込めて植えたものでした。あれから16年(平成14年現在)が経った今では、春には桜がきれいに咲きます。歩き遍路の方が桜を見て少しでも安らぎを感じて歩いてもらったらいいなと思います。自分が植えたせいもあるのか、とても美しく感じます。いつまでも白とピンクの花びらがひらひらと舞う桜の木を、立ち止まって眺めることができる美しい遍路道であってほしいものです。16年の間に、何度か柏坂遍路道に登りましたが、いつ登っても、とても険しくきつい山道です。でも昔の人は皆この道を利用して生活していたのだとの思いと、歩きの遍路さんが利用していた札所への道の一つであったのだとの思いが交錯しています。これからもこの素晴らしい遍路道を一層守り育てて、よりよい村づくりができるよう心がけたいと思います。」

   b 津島町側の整備の思い出

 柏坂は南宇和郡内海村と北宇和郡津島町の2つの行政区域にまたがっている。内海村側は柏地区(柏を育てる会)で整備を行っているが、津島町側の約5kmは、以前遍路宿などがあり遍路などでにぎわいを見せていた津島町上畑地大平茶堂生まれの**さん(昭和7年生まれ)が一人で整備管理している。その**さんに話を聞いた。
 「この遍路道の整備にかかわるようになったのは平成元年からです。内海村柏から津島町大門にかけて約9kmありますが、津島町側の道の整備管理を行っています。基本的には私一人で、6月、8月、10月の3回、草刈りなどの整備をしています。また、毎月1回、道をパトロールして津島町に報告書を提出しています。柏側が道の整備を始めたとき、津島側も地区で実施しようじゃないかと提案しましたが地区の皆さんの同意を得られませんでした。私はこの道沿いの途中にある茶堂の生まれです。この道のことは、子供のときから小学校、旧制宇和島中学(現宇和島東高校)に通っていた道ですので一番よく知っているし、また愛着もあります。
 昭和50年代の後半のことでしたが、私の友人夫妻が昔歩いた柏坂の展望のきく『つわな奥』から由良半島を見て絵を描きたいということで、いばらの道をかき分けて、『つわな奥』まで行きました。登ってみたらそれは見事な景色で、この景色を多くの人に見てほしいものだと思い、荒れたままにしていてはいけないなと思っていました。そんなときに『四国のみち』の整備が始まり、このようなお手伝いをするようになりました。道の解説板もあったらいいなということで、子供のころに聞いた話を書いて解説板にしました(写真3-1-4)。時には、歩き遍路の方に道の情報を話してもらいます。柏側がかなり急こう配なので皆さん苦労されていると聞いています。しかし歩き遍路の方から『舗装されている国道を歩くより、気持ちが癒(いや)されます。ありがとうございます。』といっていただくのが何よりです。私も年で、後何年、道の整備ができるか分かりませんが、体の続く限り、お大師様の通られる道だと思ってがんばります。」

 (イ)松山市窪野町桜地区の整備

 松山市南部の御坂(みさか)川上流に位置する窪野町桜地区で、旧土佐街道の三坂峠から浄瑠璃寺に至る遍路道の一部を、松山市から委託を受けて整備している松山市窪野町桜の**さん(昭和9年生まれ)に遍路道整備の様子を聞いた。
 「私は平成9年から同じ地区の**さん(昭和8年生まれ)と二人で三坂峠からの道を草刈りなどに行っています。春と秋の年2回は定期的に道の整備に草刈機を持って行きます。また、1か月に1回程度はパトロールに出掛けます。側溝にたまっている土砂を除いたり、『四国のみち』休憩所の清掃に出掛けたりします。以前は同じ地区の**さんがしておりましたが、体調が思わしくないとのことで私が引き継ぎました。台風や地震の後はすぐにパトロールに出ます。三坂峠からは急傾斜の山道が続き、路面が一部悪いところがあって歩きにくいと思います。歩いて巡拝される方が気持ちよく歩いてもらえばいいと思っています。私たちは草を刈る程度で、大規模な道の整備はできませんので、歩く方がおられる限りは危険のない程度の整備をしていきたいと思います。体が動く限りはこの仕事を続けたいと思います。」

  (ウ)遍路橋の設置

 民間団体「へんろみち保存協力会」は、へんろみち草刈奉仕団の活動や、平成遍路石の建立(平成14年12月現在73基)、道しるべの設置などの活動を通じて遍路道の保存、遍路文化の啓発などに取り組んでいる。最近の新しい活動として、旧遍路道の小川などが増水した時には足を濡らして渡らねばならない場所に簡単な橋を設置する活動を展開し、既に4か所の橋の架設を終えた。
 へんろみち保存協力会世話役代表の**さん(昭和10年生まれ)に話を聞いた。
 「平成14年12月に上浮穴郡久万町下野尻に4つ目の橋を架けることが出来ました。これは県道久万中山線(42号)から途中久万町の農祖峠(のうそのとう)を越えて下野尻への途中です(写真3-1-5)。
 最初は、平成12年10月に徳島市名東町1丁目地蔵越えに『地蔵越遍路橋』を2か所設置しました。この橋は、徳島市の眉山西側の道です。車道の開通で地蔵越えにあった旧街道は荒れ果て、ごみの不法投棄の場所となっていました。『へんろみち保存協力会』は何とかこの道を復元しようと、地元の人々の協力を得て、藪(やぶ)を切り開き、ごみを撤去し、遍路道として復元しました。こうして山中の谷川に2つの遍路橋を架けることができました。
 もう一つは、土佐清水市伊予駄馬地区のほの川に以布利(いぶり)遍路橋を平成14年3月に設置しました。以布利の遍路橋設置は、かねてから旧遍路道を何度も調べていたとき、小さな川が増水すると足を濡らして渡らなければならないことが分かりました。歩き遍路にとって足を濡らして歩くというのは大変苦痛なことです。何とか小さな橋が架けられないものかと思っていました。多くの方々から浄財をいただき、やっと完成しました。
 橋を架けるということは、両岸の地権者が異なれば両者の了解が必要です。そのような交渉ごとから始めるのに大変苦労がありました。橋は、長さはまちまちですが、幅は90cmと小さいものです。このようなものでも足を濡らさずに歩くことができるというのはいいことではないですか。」

写真3-1-4 柏坂みちの解説板

写真3-1-4 柏坂みちの解説板

津島町上畑地。平成14年5月撮影

写真3-1-5 久万町下野尻の遍路橋

写真3-1-5 久万町下野尻の遍路橋

平成15年1月撮影