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遍路のこころ(平成14年度)

(2)刊行物による保存

 ア 行政機関による刊行物

 遍路道や遍路道標、遍路にまつわる民俗などに関する行政機関の刊行物としては、昭和53年(1978年)愛媛県が発行した『伊予路のへんろ道』が最初の報告書である。これは、愛媛県が四国八十八ヶ所を中心とする新しい観光ルートの開発を提案した昭和47年(1972年)の四国四県知事会議(②)以降、有形・無形の文化財保護の一環として遍路道などの調査を行い、その成果を『伊予路のへんろ道』として発行したものである。
 また、市内に8か寺の札所寺院を抱える松山市も、昭和52年(1977年)以降、遍路に関係した民俗を記録保存するための調査を行い、報告書作成に取り組み、昭和56年(1981年)『おへんろさん-松山の遍路と民俗-』として発行した。
 平成元年からは文化庁の国庫補助の交付を受けて全国的に実施された「歴史の道調査」が香川県から始まり、平成3年『へんろ道(六六番雲辺寺~八八番大窪寺)調査報告書』が発行されたのを皮切りに次々に報告書が発行されている。なお、『愛媛県歴史の道調査報告書』は、遍路道だけをテーマに独立させた分冊はないが、各街道と遍路道とのかかわりを第一集から第七集で適宜紹介している。
 市町村では、句碑・道標をカラー写真で紹介した今治市発行の『今治の道しるべと句碑』が平成4年に発行され、これ以降、遍路道や遍路道標に焦点を当てた報告書が愛媛県・徳島県の市町村で次々と発行されている。今回の学術整理で確認することができた報告書は、図表3-2-1のとおりである。

 イ 個人による刊行物

 (ア)喜代吉榮徳さんの活動

 昭和49年(1974年)5月、人生を変えるために四国遍路に出て、41日間かけて結願し、その後愛媛県新居浜市の東田(とうだ)大師堂の堂守として活動する一方、遍路道標の調査研究や遍路にまつわる様々な事象の研究、出版活動に取り組んでいる人が喜代吉榮徳さん(昭和22年生まれ)である。現在喜代吉さんは、遍路道標に関する本の出版や遍路学研究の成果を整理した『四国辺路研究』誌の発行、新居浜市生涯学習講座の講師、ホームページ『遍路学事始め』の運営など、多方面にわたって遍路文化の研究や普及活動を行っている。会社員を辞めて四国遍路に出た経緯を、喜代吉さんは、自身のホームページに、「何故、遍路の旅に出たかは問うまい。それといった緊急の事態が生じたのではなく、いまにしてみれば、(無論当時もそのような心つもりが多分にあったのだが)時の到来、宿命とか業とかの、しからしむる処であったのであろう。(③)」と書いている。
 四国遍路成就から2か月後、東田大師堂に定住した喜代吉さんは、地元新居浜市の史談会の古文書講座に入会した。当時新居浜市在住の好事家(こうずか)の間では、経済発展に伴う道路の新設や改修によって、邪魔者扱いされ取り壊されていた道標を郷土史的な視点から、調査・研究していこうという動きがあった。やがて新居浜市近郊に残存していた中務茂兵衛の道標などの写真を撮り、不明な文字の解読などを喜代吉さんに依頼してくるようになった。もともと、石仏などの石造物に興味を抱いていた喜代吉さんは、同好の士と共に、東奔西走して遍路道標の拓本を取り、本格的に調査・研究に取り組むことになったという。
 また、この時期、今治市にある五十六番泰山寺が発行していた旬刊紙『同行新聞』の発行を手伝い、原稿を掲載するようになった。昭和53年(1978年)2月、自身の歩き遍路体験を「辺路独行」という文章で掲載したあとは、毎号に弘法大師の話や四国遍路にまつわる研究成果を掲載した。これ以降、真念や武田徳右衛門、中務茂兵衛などが建立した遍路道標の調査・研究の成果をまとめた数冊の本を出版している。特に昭和61年(1986年)に発行された3冊目の『奥の院仙龍寺と遍路日記』は、中務茂兵衛の遍路日記の記事をヒントに、それまで公にされていなかった茂兵衛が開創した新四国を六十五番三角寺奥之院仙龍寺の境内で見いだし、奥之院を中心に、遍路現象と郷土史の接点を追究した本であり、この後の喜代吉さんの研究方向を決定付けたという。
 ところが、『同行新聞』は、昭和62年(1987年)8月21日付の326号(実際の発行は昭和63年3月)で廃刊となった。研究発表の場を失う一方、研究資料の蓄積が進んだ喜代吉さんは、平成5年から『四国辺路研究』誌を発行するようになった。平成14年12月現在、20号まで発刊されており、遍路日記や遍路札、遍路と茶の話や遍路宿の様子、昭和初期の遍路事情など、遍路にまつわる様々な事象の研究が収められている。
 喜代吉さんは、今、ヨーロッパにおける巡礼の宿賃の安さや道標に興味を抱いている。ヨーロッパ並みの安い宿が増えてくることが、遍路が盛んになる条件の一つであると考えている。また、いまだ、野や山に埋もれている遍路道標の発掘に力を注ぐとともに、日本人の善意の結晶としての遍路道標を見つめなおし、遍路道標の意味するところを学問的に体系付けていきたいと考えている。加えて、過去に四国4県7か所で5万枚あまりの納札を整理・研究したが、納札を保存している家も少なくなってきている今、再度取り組みたいと準備を進めている。

 (イ)梅村武さんの活動

 昭和55年(1980年)に早期退職し、その後遍路道を巡って、石仏や道標、遍路道の記録をまとめる活動を続けている人が、今治市在住の梅村武さん(大正15年生まれ)である。これまで梅村さんが整理した記録は、四国八十八ヶ所を一巡する古い遍路道を記した『へんろ道』シリーズ51冊、遍路道標・丁石関係3冊、その他の遍路関係12冊、計66冊に上る。これらは、梅村さん個人が集めた膨大な資料をワープロで整理し、まとめた私家版である。中でも、『へんろ道』シリーズは、実際に歩いて確認した古い遍路道の道筋を記すだけではなく、その道筋各地に伝わる伝説・伝承、周辺の寺社・旧跡や道筋の現在の姿を詳細に記している。また、『四国遍路日記』(澄禅)や『四国邊路道指南』(真念)、『四国徧礼霊場記』(寂本)など、江戸時代に書かれた案内記や道筋の市町村誌なども引用しながら、古い遍路道を考察している。さらに、各巻の巻末には、手書きの道標地図や刻字を記した道標の図などがまとめられている。現在は、要望があれば講演活動も行っている。
 このような活動を始めたきっかけ、またその思いを梅村さんは次のように記している。

   私が古い道に興味を持ち始めたのは40歳代後半のこと。そして、50歳代の勤務地が兵庫県内陸部であったため、急速に
  近代化されていく沿岸部と異なり、昔の面影を残した旧街道が残っていた。さらに、旧街道の多くが西国巡礼の道筋でも
  あったので、特に古い巡礼道に心を引かれた。だが、いくら心引かれる土地であっても、同一勤務地は3年以内。私が四
  国の古い遍路道に心を馳せたのはその頃からで、退職すれば出身地四国に定住し、思いのままに古い遍路道を楽しもうと夢
  見た。そして、山坂を歩ける元気なうちにと、上司の言葉を振り切り、家族を説得して退職したのである。
   あれから17年、気のむくままに古い遍路道を求めて四国の山野を歩いてきた。歩いた距離でいえば、その合計は四国遍
  路の3回分、4,000キロは優に越えていよう。
   人に出会うこともない山中の小道を一日歩くことも多く、時には進めなくなって後返りすることも度々。万一の場合も考
  えて常に妻が行動を共にする。こうした山中で、旧遍路道の証である草に埋もれた標石や遍路墓を見つけた時のひそかな喜
  びはまた格別である。そして、四国霊場は、四国八十八ヶ所の札所寺院と共に、これらを結ぶ遍路道もまた霊場であること
  を確信するようになった。
   私は歩く時、地図とメモ帳を手放さない。そして、見たもの、聞いたことを必ずメモすることにしている。それを帰って
  から整理するのである。せっかくメモしたものをボツにするには忍びず、全てが資料となってファイルされるので、資料は
  溜まる一方。しかし、その資料・記録を整理し、まとめることが私にとって楽しみである(④)。

 今後の活動について梅村さんは、「私の趣味で作った記録が同好の方のお役に立つこともあり、これを励みとして今後も続けていきたい。現在は、これまで見たり聞いたりした記録を整理・収録することに専念してきたが、将来はもう少し自分の考えも加えて、四国遍路の本質に触れるようなものを書いてみたい。」と語る。

図表3-2-1① 四国内の行政機関発行の遍路道・遍路道標報告書

図表3-2-1① 四国内の行政機関発行の遍路道・遍路道標報告書


図表3-2-1② 四国内の行政機関発行の遍路道・遍路道標報告書

図表3-2-1② 四国内の行政機関発行の遍路道・遍路道標報告書