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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)「食の文化」へのアプローチ

 ア 「料理する」こと

 そもそも、「料理する」・「調理する」とは一体何をすることなのだろうか。
 このことについて、農学博士の和仁皓明(わにこうめい)氏は、「人類最初の調理行動とは狩りの獲物の肉、木の実などを、たき火にかざして焼いて食べた直火(じかび)焼きだったと考えられる。二番目に発見した調理行動はトチの実、ドングリなどの木の実(中略)などから渋味や毒のある成分を除去してデンプン質を集めるアク抜き、水さらしなどの処理であったにちがいない。(①)」と述べている。いろいろな調理行動の中で、加熱という方法は、現在に至るまでその中心的な技術となっている。
 一言で加熱といってもさまざまなやり方がある。まず、前述の直火焼きやそれに近いやり方、例えば鉄板の上で加熱する方法があり、肉を「焼く」、豆を「炒(い)る」などと称する。もう少し火から離して加熱すれば、するめを「あぶる」、煙でサーモン(鮭(さけ))を「いぶす」ことになる。水を入れて加熱すれば、米を「炊く」、卵を「ゆでる」、野菜を「煮る」といい、蒸気を利用すればギョーザを「蒸す」という。油を使えば、チャーハンは「炒(いた)める」のであり、天ぷらやフライは「揚げる」のである。さらに近年では電子レンジのマイクロ波を利用した加熱も一般的になり、いつのころからかこれを「チンする」と呼ぶようになった(①)。
 加熱の対極にあるのが生で食べる方法であり、特に和風料理には生ものが多い。例えば、刺身は生の素材を切るのみの料理で、これに醤油(しょうゆ)をつけて食べる。酢の物も、切った生ものを酢で和(あ)えるのみの料理である。生ものの料理が多い日本では、一見単純な「切る」という調理技術が重視されており、刺身をつくる際には一種の職人技が求められる場合もある。
 こう見てくると、日常の一つ一つの料理にも、知らず知らずのうちにさまざまな調理法が用いられていることに気づくのである。

 イ 何のために食べるのか

 人は何のために食べるのだろうか。原始時代の人々であれば、それは生きるため、と即座に答えたかもしれない。当然のことながら、人間は食べることで外界から栄養を摂取しなければ生きていくことはできない。しかし、生命を維持できる量の食べ物が比較的容易に得ることができるようになると、今度はおいしさの追求や健康の維持が食の大きな目的として加わった。
 まず、おいしさを追求する食については、そもそも人は「おいしさ」をどのようにして感じるのだろうか。甘味・酸味・塩味・苦味・うま味など舌で感じる味がおいしさの基本だとはすぐに気づくが、実はほかにもさまざまな要素がある。例えば、料理の盛りつけや食べ物の色などの見た目、食べ物のにおい、あるいはうどんを“ズルズル”とすするといった食べる時の音など、目・鼻・耳の感覚もおいしさを感じるための要素となる。また、歯ごたえ・口あたり・のどごしなどといった言葉で表現される感覚も大切であり、これらさまざまな要素が重なり合って人間はおいしさを感じ取るのである(②)。
 かつての日本では、おいしい食べ物を求めるのは“いやしい”とされたこともあったが、現代では美食はむしろ“かっこいい”とする傾向が強まり、いわば食のファッション化の時代を迎えている。近年、テレビで料理ショーの番組が評判になったり、讃岐(さぬき)うどん店の食べ歩きがブームとなったのはその現れといえる。
 次に、健康を維持する食については、中国の言葉である「薬食同源」がそれを端的に言い表している。「薬食同源」の考え方からすると、食べ物は「空腹を満たす時は食といい、病気を治す時は薬という(③)」のであって、すべての食べ物には何らかの薬効(やっこう)があり、食べる者の体質や体調に応じて薬を配合するように食品を組み合わせて料理する、ということになる。
 このため中国では、食事を通じての栄養改善志向の現れとして漢方料理が発達した。漢方料理には、漢方薬となるハッカク(ダイウイキョウの実)・サンショウ・チンピ(ミカンの皮)などが調味料として使われている。ちなみに日本では、同様の意味を持つ語として「医食同源」と「薬膳料理」が知られているが、これらは比較的最近に登場した新しい言葉である(③)。
 しかし、古くから日本にも、疲労回復のためにウナギやヤマイモを食べるといったたぐいの「薬(くすり)食い」の考え方や、「腹八分目に食べる。」といった食べ方についての教訓が流布している。病気の時には、食べ物を薬そのものとして用いることもあり、例えば、風邪をひくとキンカンを煎(せん)じて飲む風習が残されている。また、各地に伝わる「食い合わせ」(合食(ごうしょく)の禁)の伝承は、健康のための食という目的が示されたものである。「食い合わせ」とは、2種類以上の特定の食べ物を同時に摂取すると身体に異常を起こすという警告で、「ウナギと梅干し」・「スイカと天ぷら」・「カニとカキ(柿)」などが代表的なものとして挙げられる。先人の生活の知恵ともいえそうだが、残念ながら、今ではその多くは科学的根拠に乏しいとされている(④)。
 なぜ食べるのかについてもう一つ挙げると、ある目的を円滑に達成する手段として食事がなされる場合がある。例えば結婚披露宴を開く目的としては、新郎新婦に対するお祝いと、お祝いに対する感謝が挙げられ、そのために食事の場が設定されている。仕事帰りに居酒屋で飲食するのは、日々のストレス解消が目的の場合もある(①)。
 このように、人はさまざまな目的をもって「食べる」のである。

 ウ 食卓の風景

 食事の場としての食卓は、時代とともに大きく変化した。
 例えば明治期の家庭では、上座(かみざ)の家長から下座(しもざ)に向かって家族が銘々膳を前に順番に正座して、家長が箸(はし)を取るのを合図に皆が食事を始めたものだった。銘々膳とは個人用のお膳のことであり、箱型でその中に食器をしまい込める箱膳がよく使われていた。当時は食事中の作法が厳しく、姿勢を正して会話をせず、黙々と食べたのである(⑤)。
 箱膳に続いて、円形のちゃぶ台(飯台・しっぽく台)が食卓として登場する。ちゃぶ台は昭和10年代に全国的な広がりを見せ、さらに戦後になると、家族そろって会話を楽しみながら食事する民主化された家庭の一家団欒(だんらん)を象徴する存在ともなった。高度経済成長期のテレビのホームドラマでは、必ずと言ってよいほどちゃぶ台を囲んで談笑する家族の姿が映し出されたのである。しかしその後、生活の洋風化の進展とともにいす式のダイニングテーブルが食卓として普及し、昭和の終わりころには日常生活の中でちゃぶ台を使う家庭はきわめて少なくなってしまった(⑤)。
 次に、食卓に並んだ食べ物と食器に目を転じてみよう。ご飯は飯茶碗(めしぢゃわん)によそわれており、焼き魚は皿の上にのっている。味噌汁(みそしる)は汁椀(しるわん)の中であり、お茶は湯飲み茶碗につがれている。それぞれ飲食物の形状に合わせて、盛りつけやすいように食器の種類が分かれている。
 考古学者の佐原真(さはらまこと)は、食器を誰(だれ)が使用するのかという観点から食器の分類を試みた。すなわち、何人か共通で使う共用器(きょうようき)、各自が銘々で使う銘々器(めいめいき)、銘々器の一形態としての属人器(ぞくじんき)という3パターンである(⑥)。
 共用器と銘々器を比べてみると、一般家庭の食器は明らかに銘々器の比重が高い。家庭の日常の食事において共用器を使用するのは、大鉢や大皿に、ちらしずし・サラダ・麺類(めんるい)や中華料理を盛って出すといった場合だが、そこから食べ物を直接口に運ぶことは少なく、個々に取り分けるために銘々器が必要になる。かつての銘々膳の時代の食器も銘々器であった。日常の食生活において共用器が使用され始めるのは、ちゃぶ台・テーブルなど大きな食卓での食事の普及と関係が深いといえる。
 銘々器のうち、特定の個人による使用が決まっている食器が属人器である。平城宮跡から出土した墨書(ぼくしょ)土器(墨書きが残る土器)には、その所有者と思われる人物名と「もしこの器を取ったら笞打(むちう)ち50回にする。」との意味が書かれたものがあり、奈良時代にすでに属人器が存在したことが確認されている(⑦)。
 今日の家庭で使われる属人器は、飯茶碗・湯飲み茶碗が多いようである。職場に持って行く弁当箱も属人器である。興味深いのは、職場で緑茶を飲む時には自分専用の湯飲み茶碗を用いながら、コーヒー・紅茶の時はどれでも適当なカップで飲むことが多い点である。これは、洋食器を銘々器と見なすのに対し、和食器に対しては属人器としてのとらえ方をしていることを示している(⑥)。無意識的に行われるこういった使い分けも、伝統の中で培われてきた文化だということができる。

 エ 畑作または果樹園のこと

 日本の食生活というと、米食のイメージが強い。しかしながら、国民の大多数が日常の主食として白米だけのご飯を口にできるようになったのは、戦後しばらくたってからのことである。後の章で述べるように、今回の聞き取り調査においても、ほとんどの人が、昭和30年代ころまでは麦類やトウキビ(在来のトウモロコシ)、サツマイモなどの畑作物を主食にしていたと語った。
 ところで、日本の畑作の原形は、縄文時代に始まる焼畑(樹林や原野を焼き払い、草木灰(そうもくかい)を肥料にして作物を栽培する畑。また、そうした農業のこと)だといわれている。焼畑農業では、毎年耕作を続けると地力が落ちるため、次々と別の土地に火を入れて移動して行く。焼畑で栽培される主な作物は、アワ・ヒエ・キビ・ソバなどの雑穀類やマメ類・イモ類である。
 焼畑は四国でも、四国山地の農家で代々受け継がれてきたと考えられる。本県の平成5年(1993年)度の地域文化調査報告書『県境山間部の生活文化』によると、山間部の上浮穴(かみうけな)郡柳谷(やなだに)村西谷(にしたに)地区の中畑(なかはた)・菅行(すぎょう)集落では、トウキビを作るための春焼き、ソバを作るための夏の焼畑、ダイズを作るためのカジキ(立秋(りっしゅう)前18日間の土用(どよう)の時期に行う焼畑)、麦を作るための秋焼きと、1年間に4回の焼畑が昭和初期まで続けられていたという(⑧)。
 平野部の畑作については、江戸時代前期に書かれたとされる『清良記』に詳しい。詳細は後述するが、同書により、当時の三間(みま)地域(現北宇和(きたうわ)郡三間町)における、麦やマメ類をはじめとした多種多様な畑作物の栽培を確認できる(⑨)。また、今治藩の医学者・国学者であった半井梧菴(なからいごあん)が幕末期に書き残した『愛媛面影』には、「大洲(おおず)城辺水田稀(まれ)にして畑多し。古(いにしえ)より大豆を多く産せり。(⑩)」、あるいは現西条(さいじょう)市の大保木(おおふき)地区について、「此所(ここ)茶を多く植(ゑ)て産業とす。(⑩)」などの記述があり、伊予国の各地域でさかんに行われていた畑作の様子をうかがうことができる。
 ミカンは愛媛県を代表する果物として知られているが、本県における温州(うんしゅう)ミカンの栽培は、江戸時代中期以降に吉田藩領の立間(たちま)村(現北宇和郡吉田(よしだ)町立間)で始まったとされている(⑪)。この地域で本格的に生産を拡大し始めるのは明治7年(1874年)で、それまでの主要な商品作物であったショウガ生産の行き詰まりがきっかけとなったようである(⑫)。やがて明治16年(1883年)からは、東京方面にも出荷されるようになった(⑨)。
 愛媛県の統計によると、平成14年(2002年)の愛媛県の耕地面積は、田が約26,000ha、畑が約33,000haとなっており、ミカンなど柑橘類の樹園地の占める割合が高いものの、全体としては畑が田の面積を上回っている。とりわけ裸麦(はだかむぎ)は、本県が日本一の生産高を誇っている(⑬)。
 食の文化としては、とかく米に焦点が当たりがちであるが、このように古くから畑作がさかんに行われており、多様な畑作物とそれに伴う食の文化が存在してきたことを見落としてはならない。なお、近年の健康への関心の高まりとともに、麦やトウモロコシ、サツマイモ、ソバなどは健康食として見直されつつあることも付記しておく。