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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)新しい年を迎えて①

 ア 大正月

 正月は1年で最初の月をさすと同時に新年の行事のことであり、盆と並ぶ二大年中行事である。正月行事には、元日を中心とする大正月(おおしょうがつ)と15日を中心とする小正月(こしょうがつ)があり、7日には七草粥 (ななくさがゆ)(七日節句)がある。大正月は年神を迎える大切な行事で、神棚(かみだな)や仏壇に鏡餅(かがみもち)を供え、元日には屠蘇(とそ)を酌(くみ)み交わし、雑煮(ぞうに)をはじめおせち(御節)料理を共食して祝う。小正月には予祝儀礼(よしゅくぎれい)(1年間の農作業や農業生活の行為をまねて、その年の豊穣(ほうじょう)を祝い願う行事)を中心とする多くの行事が集中している。
 民俗学研究者の松下幸子氏は、「正月の行事は、“正月さま”と呼ばれる年神を、高い山から里に迎えて五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る農耕儀礼が本来のものであった。年神は穀物の豊作をもたらす穀霊であり、子孫繁栄を護(まも)る祖霊でもある。この年神がとまる依代(よりしろ)として立てるのが門松であり、注連縄(しめなわ)は年神の祭場を示すものである。そして年神に供えた神饌(しんせん)を下げて祝食(いわいしょく)するのが正月の食べ物である。(①)」と記している。
 また、別の文献には、おせち料理について「1年中で一番のご馳走(ちそう)が作られ、最大のハレ(冠婚葬祭(かんこんそうさい)や年中行事など、呪術的祭儀が行われること)の食物は餅(もち)であった。また、縁起よい材料である昆布(こんぶ)(喜ぶ)・数の子(子孫繁栄)・黒豆(まめなように。)・田作り(豊作)・海老(えび)(腰が曲がるまで長寿)・頭芋(出世)、古代から神饌とされた大根やゴボウ、サトイモ、普段は口にできなかったブリや鮭(さけ)など、これらの材料を使った昆布巻・煮しめ・焼き物・生酢(なます)などの料理が作られ、重箱や五つ丼(どんぶり)・三つ丼と呼ばれる大鉢(おおばち)に盛られた。(②)」とある。
 年中行事には餅が付きものである。特に正月と餅は特別なかかわりがあり、雑煮で祝うのが現在では主流を占めている。愛媛県では、ほとんどの家ですまし汁に丸餅を煮込み、ダイコンの薄切りや豆腐(とうふ)を入れた簡素な雑煮が食されている。
 中野中(なかのなか)・浪岡(なみおか)村(ともに現北宇和(きたうわ)郡三間(みま)町)庄屋松岡家文書(もんじょ)『當村(とうそん)中通り百姓年中行事』から、江戸時代のとある正月の食事をたどることができる。同文書中の中程度の百姓の正月の記事である「正月三ヶ日神棚供物幷(ならびに)食物之事」を見ると、当時の様子をしのぶことができる。「神棚への供物としての鏡餅用に2升(約3.6ℓ、約3kg)くらい、臓煮(ぞうに)(雑煮)餅用に2升くらい餅をつく。膳(ぜん)は三菜とし、ダイコン、ゴボウ、イモ、めざし類で済ます。ただし、これは元日のみである。その他の日は、野菜の汁、またはダイコンの煮しめ類で済ます。酒は1升5合(約2.7ℓ)くらい。さらに、肴(さかな)としてダイコン、煮しめ、たたきゴボウ類から二つ程度。(③)」とある。

 (ア)山間部の大正月 

 山間部の大正月の一例として上浮穴(かみうけな)郡柳谷(やなだに)村を取り上げる。柳谷村は県の中南部、上浮穴郡の南部に位置し、四国山地中央部の高峻(こうしゅん)な山々に囲まれた高知県境にある山里で、国道33号が貫通する。
 かつて、久万(くま)町を中心に周辺地域を含む久万郷(ごう)は、山間部で米は思うように穫(と)れないため、常畑(屋敷近くにある畑)や焼畑で栽培したトウキビ(在来のトウモロコシ)・タカキビ・アワなどの雑穀やサツマイモで米・麦を補っていた。特にトウキビは、とうきび飯やとうきび餅のほか、はな粉(生のトウキビの粉)ねり、はな粉だんご、はな粉ぼた餅などにして盛んに食されていた。そのような中で、月々の休みには決まって白まんま(飯)の炊(た)き込みやおもぶり(白飯と季節の食材を使った具を別々に炊いて混ぜたご飯)を炊いて慰めていたという。
 『聞き書 愛媛の食事』に、「ふだんの食事は、麦を収穫する夏場から、とうきびができるまでは麦飯が中心で、小麦粉の汁だんごやじゃがいもなどで補う。(④)」と久万郷の日常のくらしについて記している。
 柳谷村柳井川(やないがわ)地区の**さん(大正10年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)、**さん(昭和7年生まれ)と中津(なかつ)地区の**さん(昭和4年生まれ)に昭和30年(1955年)ころの日常のくらしと正月の食について聞いた。
 「主食に米がはいってきたのは、昭和37、8年(1962、63年)ころからで、急に米と麦が半々くらいの割合になりました。柳谷村では他の山村地域より早く、昭和40年ころにはほとんどの家は米飯(こめめし)になっていました。それまでは山の食として、焼畑で栽培するアワ・タカキビ・コキビなどの雑穀は餅にし、ソバはソバねりにして食べていました。保存食としては、味噌(みそ)・切り干しダイコン・梅干し・ラッキョウ・シイタケ・豆腐・こんにゃくなどがありますが、固い手作り豆腐を石豆腐といい、それを火にあぶって梅酢(うめず)に漬(つ)けた豆腐の梅酢漬けとタケノコの梅酢漬けは珍重されました。」
 チーズのような味がする豆腐の梅酢漬けについて、伊藤ケサ子氏は、『愛媛の味紀行』の中で、「豆腐の梅酢漬けは山間部の“わが家”の味である。山間部で生まれ育った私にとって、幼いころからの家庭の味、自家風漬物の一種であった。しかし、今日(こんにち)とは異なり、豆腐にしてもいつでも食べられるわけではなかった。盆、正月あるいは冠婚葬祭でもない限り、口には入らなかった。村には到底、豆腐屋さんなどはなかったからである。(⑤)」と述べている。正月の行事と食について、先ほどの4人に聞いた。
 「若水(*1)迎え(汲(く)み)と雑煮があります。まず『福汲む、徳汲む、幸い汲む、よろずの宝を汲み取るぞよ。』と唱えながら正月三が日分の若水を汲みます。この若水で元日の朝だけ家長(男)が雑煮を炊きます。汲んだ水を少し加えるだけで、他の食材はすでに鍋の中に入れられていました。元日の朝だけは白の丸餅を食べました。年末には餅搗(つ)きをしましたが、他はおふく(もち米とうるち米を混ぜた餅)・タカキビ・コキビ・アワなどの雑穀餅をやぐら(足踏みで餅を搗く道具。だいがら、から臼(うす)ともいう。)で搗きました。もち米だけの餅は2割ほどで残りは雑穀餅です。雑煮の具(ぐ)は、ダイコン・ニンジン・ゴボウ・ネギなどの野菜のほか、板づけ(かまぼこ)やすまきなどです。また、だしはいりこかシイタケのさっぱりした醬油味(しょうゆあじ)です。
 若水迎えの後は、歳(とし)を頂く歳床(としとこ)さん(歳徳(としとく)さんのこと、オタナサンともいう。)におまいりして朝祝いをします。歳床さんは、部屋の隅に三角の板を渡し、歳床鉢(ばち)(いただき鉢。桶(おけ)のような入れ物)にウラジロ(山草)を敷き、その上に白米1升(1.8ℓ、約1.5kg)を入れ、米の上にお重ね餅を供えます。さらに、その上に若葉(ゆずり葉)やダイダイを載せ、その周りには干(ほ)し柿(かき)や葉ミカンを置き、その後ろにおしめ(お飾り)を飾り、床(とこ)の間(ま)にお供えします。さらに、神棚の三方(さんぼう)(神仏に供えるものを載せる台)には、中央にお神酒(みき)、左に鏡餅、右に白米をお供えします。歳床さんのおまいりが終わると、子どもたちは歳を取るということで、干し柿や葉ミカンをもらい、雑煮を食べ、朝祝いを終わります。
 年末年始の料理として、豆腐とこんにゃくと茎(くき)イモ(サトイモ)を竹串(たけぐし)に刺して、味噌をつけてこんがり焼くれんがく(田楽のこと)があります。このれんがくとそばは年越しのお膳(ぜん)です。れんがくは『貧乏神は味噌の匂いがきらいなので逃げていく。』と言われ、新しい年の繁栄と健康の願いをこめた伝統の食なのです。
 大正月の料理は、豆は黒豆、煮しめは焼き豆腐・ダイコン・ゴボウ・ニンジン・茎イモ・レンコン・こんにゃく・シイタケ・切り目こんぶに結びこんぶを煮込んだもの。家族の一人ひとりのお膳は煮しめや数の子、酢の物などは大皿から小皿に銘々が取って食べるところもあります。酢の物はニンジンとダイコンの紅白なます、白和(しらあ)えは石豆腐にこんにゃくや青菜を使い、数の子は乾燥品で水に戻してからおせちに使いました。田作り(ごまめ)は使ったことがないし、そのもの自体を知りません。お祝い膳の練り製品として、板づけ(かまぼこ)、すまき、ちくわなどと厚焼きなどがあります。寒天(かんてん)とアズキを布巾(ふきん)で巻いた、固いあずき羊羹(ようかん)はなくてはならないものです。さらに当時は高価でしたがミカンを買い求め、それと自家製の吊(つ)るし柿(干し柿)を客に出しました。年始の回礼客には、熱いそばやうどんを振る舞うので、年越し膳のそばのほかに、うどんやそばをたくさん打って置きました。季節の野菜を具に入れた混(ま)ぜ飯(めし)のもぶりは、正月・節句・盆・亥(い)の子(こ)などのもん日(び)(祭日・祝日など特別な事が行われる日)には必ず作ります。普段は麦飯やとうきび飯の粗食ですから、もぶりを作るもん日は大変うれしい日で、米だけのご飯は年に数えるほどしかありませんでした。そのためもん日には、ベルトをゆるめて食いだめをしました。」

 (イ)平野部の大正月 

 平野部の大正月の一例として西条(さいじょう)市禎瑞(ていずい)地区を取り上げる。西条市は県の東部に位置し、石鎚山系(いしづちさんけい)を源流とした加茂川の豊富な伏流水「うちぬき」(自噴井(じふんせん))に恵まれた水の都である。禎瑞地区は西条市の北西部にあり、北は燧灘(ひうちなだ)に面し、加茂川や中山川に挟まれた低湿地域で、江戸中期に干拓造成された新田開発で知られている。
 西条市禎瑞地区上組の**さん(昭和4年生まれ)と**さん(昭和8年生まれ)夫妻に、昭和30年(1955年)ころの日常のくらしと正月の食について聞いた。
 「禎瑞地区は天明2年(1782年)に干拓が完成して以来、約220年の新田の歴史があります。広い干拓地は米どころで、終戦後間もないころはよそから米の買出しにやって来て衣類などと交換していました。戦後、農地改革で自作農が増え、1戸平均1町(ちょう)5反(たん)(約1.5ha)の農地をもつ中規模農家が多くなりましたが、その当時、米はほとんど供出(きょうしゅつ)(食糧管理制度のため、なかば強制されて政府に売り渡すこと)していました。この辺は海岸に近く、干潟(ひがた)にはトリカイ、オオノカイ、ガザミ(ワタリガニ)やクルマエビなどの貝類や甲殻類(こうかくるい)が豊富で、当時は沖に出ると箱舟が獲物で傾くほど獲れていました。藩政時代、天明の飢饉(ききん)にも死者を出さなかったのは、豊富な魚介類のおかげだったと聞いています。」
 さらに、正月行事と食について、「この地域の飲料水は『うちぬき』で、いつも湧き出ているので、特に桶などに若水を汲むことはしませんでした。男が元日の雑煮を作る習慣もありません。里山に入り、松と竹やウラジロを採ってきて、門松やお飾りを作り、玄関や垣根に飾り付けました。今は小さな松・竹・梅を玄関に飾っています。注連縄(しめなわ)は玄関の中央にウラジロとダイダイを飾り上から垂らすのと丸型のがありました。歳徳神(としとくじん)(オタナサン)は、かつては“たち板”(長さ180cmくらいの幅の広い板)を恵方(えほう)(明(あ)け方(ほう)。その年の干支(えと)により、よいと定めた方角)に向けて天井(てんじょう)から吊るし、お供え物を並べていました。昭和30年代に家を新築してからは、恵方に向けたテーブルの中ほどに大きなお重ねの鏡餅、その手前に月数を示す12個のお重ね(うるう年は13個)を配し、中央に水と米と塩、両側にはお神酒と肴(さかな)(タイ、するめなど)と干し柿など海・野・山の幸をお供えしています。さらに、金運を願って財布を供えます。
 正月7日の七草粥(七日節句)は“ナズナセック”とも言い、七草を雑煮にのせて食べました。さらに11日の鏡開きには白餅をぜんざいにしました。この日に五穀豊穣を祈願する重要な儀式として“地祝いさん”(お鍬初(くわぞ)め、鍬の打ち初め)を昭和50年(1975年)ごろまでは行っていました。さらに、15日の小正月(とうど)の日には、朝は雑煮、夕方はシイタケ・ニンジン・ゴボウ・揚げ・小エビなどを入れたばらずし(ちらしずし)を供えています。また、16日は仏様の日で、あべかわ餅を作り、御霊供(おりょうぐ)とともに供えます。これで一連の正月行事が終わります。
 正月の餅を搗くのは必ず暮れの28日で、餅専用の白木で作った“だいがら”(やぐら、から臼ともいう。)を使い、かつては足で1~2俵(ひょう)(約60~120kg)も搗きましたが、近年は量が減ったので餅つき機で搗いています。かつては一番目の臼は小餅、二番目の臼は供物用の鏡餅、三番目からは雑穀餅、あん餅、あられ用などキビ、アワ、小米(こごめ)など雑穀の混じった餅も搗いていました。
 雑煮は、白の丸餅、だしはいりこで醬油(しょうゆ)のすまし汁、具は菜っ葉(水菜)だけで“なき雑煮”とも言います。語源はよく分かりませんが、“泣く”と“菜”を兼ねているのかも知れません。
 おせち料理は、三段のお重(じゅう)に詰め、取り皿に銘々が取って食べます。主食は朝の雑煮以外は白いご飯です。煮しめは、ダイコン・ニンジン・ゴボウ・サトイモ・レンコン・こんにゃくとコンブ。豆類は黒豆だけです。酢の物はカブ・ニンジンを短冊(たんざく)に切った紅白の酢の物。魚類は小さなタイとカレイの煮付けです。数の子は子孫繁栄につながるので欠かせません。当時は乾燥した塩数の子でした。田作り(ごまめ)はカタクチイワシなどの小魚を煎って家で作りました。おせち料理は、重箱に詰め、正月三が日は主におせち料理で過ごしました。」

 (ウ)海岸部の大正月 

 海岸部の大正月の一例として西宇和郡三瓶(みかめ)町下泊(しもどまり)と朝立(あさだつ)地区を取り上げる。三瓶町は県の南西部にあり宇和海に面している。柑橘(かんきつ)栽培や真珠養殖から転換したハマチ、ヒラメ、タイの養殖も盛んである。下泊地区は町の南西部にあり、浅海養殖や柑橘栽培が盛んである。また、朝立地区は三瓶湾奥の朝立川下流右岸に位置し、町の中心集落を形成している。
 三瓶町下泊地区の**さん(昭和10年生まれ)、**さん(昭和6年生まれ)、**さん(大正2年生まれ)、**さん(大正9年生まれ)と朝立地区の**さん(昭和2年生まれ)に、昭和30年(1955年)ころの日常のくらしと正月の食について聞いた。
 「下泊地区(写真2-1-4参照)の主食は、昭和35年くらいまでは二度炊きの丸麦だけの麦飯でした。やがて、丸麦が押し麦に変わり、昭和40年すぎから米飯になりました。主食が少なくて済むように、サツマイモや団子(だんご)を食べたあとから麦飯を食べました。当時、下泊地区には4統のまき網があり漁が盛んでしたので、カタクチイワシ(ホウタレ)をいりこ(煮干し)や素干し、塩もの(生魚に塩を加え腐敗を防止したもの)にしてよく食べました。」


*1:若水 元日に汲む水。その水で年神への供物(くもつ)や家族の食物を作ったり、口をすすいだり、茶をたてたりする。若
  水を汲むことを若水迎えという。

写真2-1-4 三瓶町南西部の下泊地区

写真2-1-4 三瓶町南西部の下泊地区

平成15年10月撮影